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「振り返らずに歩け。見るな」
エドワードが低くつぶやいた。
「で、でも……」ベルはためらう。
「いいから行け」
二人は足早に通り過ぎようとしたが、どうしても足は生徒会館の近くへと向かってしまう。そこにはオフェリア、ドロテア、そしてブリジットの姿があった。
ブリジットの鋭い目がすぐさま二人を捉える。彼女は口元でにやりと笑ったが、言葉は飲み込んだ。オフェリアとドロテアはまだ深く話し込んでいた――オフェリアがふいに振り向くまでは。
「ミス・ベル」
年上の女が、軽く頭を垂れて挨拶する。
ベルは硬直した。「えっ――あの……ご、ごきげんよう、マダム・オフェリア」
声はうわずり、ほとんど取り乱したような調子になった。
慌てて付け足す。
「そ、それから……あの、学園の――えっと、生徒会長さま――ちが、ドロテア様――い、いえっ、殿下!」
ドロテアは短くうなずくだけだった。
「セインツ・スカラー」
オフェリアの視線がエドワードへと移る。
「エドワード。お嬢様のところにはいないのですか?」
「今から会うつもりだ。その前にベルを手伝ってただけだ」
ブリジットがニヤリと口をはさんだ。
「おい、エド坊。なんだよ? 優先順位が変わったんじゃねぇのか?」
「ブリジット」
ドロテアの声は鋭かった。
ブリジットは両手を上げ、降参の仕草をする。
「へいへい、失礼しましたよ、お嬢様。ただよ、アイツらしくねぇって思っただけさ」
オフェリアは眼鏡の位置を直し、声を少し鋭くした。
「エドワード。あなた、今の出来事を理解していますね?」
「百パーセント、承知してる」
オフェリアはしばらく彼を見つめ、それからうなずいた。
「ミス・ベルとの用を済ませて。それからお嬢様のもとへ行きなさい」
「了解」
沈黙が落ちた。オフェリアはなおもエドワードをじっと見つめていたが、やがて表情を和らげ、ベルへと向き直った。
「彼に優しくしてくださってありがとう、ミス・ベル」
「い、いえ――助けてくれたのは彼のほうです」
ドロテアの視線が唐突にベルを射抜く。その鋭さに、ベルの胃が締め付けられる。彼女は視線を合わせることができなかった。
「彼は時に強引すぎることがあるのです」オフェリアが軽やかに言う。「ですが我慢してあげて。もし手に負えなくなったら、私に言いなさい」
「あ、あの! そ、そんなこと絶対……ありません!」ベルは慌てふためきながら答える。
「本当に、あなたはいい子ですね」オフェリアが微笑んだ。「学業も大切ですが、ベアトリス様のもとにももっと顔を出してあげて。きっと喜びますよ」
「は、はいっ! その……そうするつもりです」ベルは赤くなり、あわてて付け加えた。「迷惑でなければ……また本を借りようと思って……」
オフェリアはくすりと笑った。
「ベアトリス様は読書家ですが、触れた本の多くは一度読んだきりで、あとは埃をかぶらせてしまいます。あなたのように本を活かしてくださるのを、彼女はいつも嬉しく思っているのです」
だがドロテアの視線はさらに鋭くなっていく。彼女は一歩前へ踏み出し、間合いを詰めた。
エドワードが周囲を見回しながら口を開く。
「もういいか?」
ベルは慌てて頭を下げた。
「は、はいっ! 長居してはご迷惑を……お騒がせしました……それでは失礼を――」
「待て」
ドロテアの声が空気を切り裂いた。
ベルの足が止まる。
「セインツ・スカラー」
ドロテアの目が細まる。「お前が持っているそれ。エネルギー・都市計画大臣との発表会用か?」
ベルの心臓が跳ね上がる。殿下から直接声をかけられたのは初めてだ――ただの会釈でも、通りすがりの視線でもない。喉が詰まる。
「わ、わかりません……で、ですが……そのようです」
「ブリジット。手伝え。言語の件だ」
「は? オフェリア様?」ブリジットが目を瞬く。
「やれ」
エドワードが鼻で笑った。
「なんだよ、その縦ロール頭。俺一人で十分だ」
「――っ!」
ベルは思わず顔を上げる。ドロテアに向かってそんな言い方をするなんて。ドロテアの表情は冷え切っていたが、不快の色がにじんでいるのをベルは感じ取った。耐えきれず、彼女は再び視線を落とし、消えてしまいたいと願った。
「エドワード。礼をわきまえなさい」
オフェリアの声は固い。
ブリジットは深く息を吐き、肩をすくめた。
「まったく……しゃーねぇな。ほらエド坊、半分よこせ。うちのお嬢様が一緒に歩いてくださるんだからな」
ベルの目が大きく見開かれた。まさかドロテアと並んで歩くなど——その考えだけで心臓が跳ね上がった。
ドロテアの明瞭な声が、その余地を断ち切った。
「いいえ。全部持ちなさい。あなたはセインツ・スカラーと共に。エドワードは私と来る」
「はぁ?!」
エドワードとブリジットが同時に声を上げた。
胸を撫でおろしたのはベルの方だった。少なくともドロテアと並ぶことは避けられた。だが、その場の空気は重く張り詰め、息苦しさで胸が締めつけられる。
ドロテアは優雅にオフェリアへと頭を傾ける。
「マダム・オフェリア、よろしいでしょうか。まだサー・デズモンドとの用件が残っているはず。私がエドワードを伴いますので、あなたは遅れずにキャプテンと会えます」
オフェリアは言葉を測り、やがて小さく頷いた。
「それで構いません。エドワード、ヘルヴィグ嬢にミス・ベルを任せなさい」
「ですが、お嬢様……」ブリジットが食い下がる。
「それなら警護の者の方が筋では?」
「そ、そうです!」ベルが慌てて口を挟む。「私ひとりで大丈夫ですから!」
ドロテアは何も言わず、ただじっとブリジットを見つめた。その視線は逸らされず、重くのしかかる。沈黙に耐えかね、ブリジットは降参したように吐き捨てる。
「……わーったよ」そしてエドワードに向き直る。
「さっさと渡せよ、エド坊」
「おい、俺の同意は誰も気にしねぇのかよ」エドワードが不満をこぼす。
だがブリジットはすでに彼の腕から荷をひったくっていた。
「行くぞ、ミス・セインツ・スカラー。こっちだ」
「あ、あのっ! はい!」ベルは引きずられるように従い、内心はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。本来なら関わりたくなかったのに、気づけば深く巻き込まれてしまっている。
オフェリアはいつもの気品を崩さず振り返る。
「それでは、私は失礼いたしますわ、ドロテア様」
ドロテアは軽く会釈で応じた。
だが立ち去る前に、オフェリアの視線がエドワードに戻る。
「エドワード――お行儀なさい。もう子供ではないのだから」
エドワードは大げさに呻き声をあげる。
「アーーー……」
オフェリアはそれ以上何も言わず、近衛騎士を伴ってその場を後にした。
静寂が落ち、エドワードとドロテアは生徒会館の影に沈んだ廊下を進む。
ポケットに手を突っ込みながら、エドワードが口を開く。
「まだ氷の姫様を演じてんのかよ、ドッティ」
ドロテアは何も答えない。ヒールの音だけが鋭く響き、大理石の床を打つ。
やがて生徒会館の扉が閉まり、静寂に包まれた空間で、彼女の声がようやく落ちた。低く、遠く。
「あなたとアンは、私と共に誓った……けれど、結局裏切りを背負うのは私だけ。守り続けるために、裏切らねばならないのは——私だけ」
エドワードの口元に一瞬、笑みが広がった。だがすぐに薄れ、挑発するように呟く。
「俺たちは止めてねぇよ、ドッティ。アンと俺はずっと彼女の傍にいた。逃げ口上にしたのは、お前だけだ。ベアに向き合わねぇためのな」
ドロテアは大扉の前で立ち止まり、取っ手に触れる寸前で動きを止めた。
一拍。いや、それ以上かもしれない。時間の測れぬ沈黙の中で、二人は見つめ合う。彼の方が背は高い。だがその視線は微動だにせず、真っ向から彼を射抜いていた。エドワードは横に立ち、薄い笑みを浮かべたまま、口を閉ざす。ただ待っていた。彼女が先に口を割るかのように。
誰も言葉を発しない。空気そのものが息を止めているかのような、張り詰めた沈黙。
やがてドロテアは扉の取っ手を握り、開けた。わずかな隙間からも、視線は彼を外さないまま。
中には、ベアトリスが卓に座り、磁器のカップを手にしていた。
周囲にはキングズガードが四隅に控え、その存在感が部屋全体を圧していた。
ベアトリスの瞳が扉口に向き、入ってきた二人を見た瞬間、その表情が凍りついた。