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ベルは学院図書館の旧館、薄暗い回廊で身を起こした。両腕には小さな箱の山を抱えている。そこに並ぶロッカーはもう何年も学生に使われておらず――蝶番には埃がこびりつき、空気は紙とニスの匂いをわずかに含んでいた。だが、親切な教授の許可を得て、ベルはここに自分の物を置かせてもらっていたのだ。
彼女は最後の箱を床の積み重ねにそっと置き、緊張したように手を払った。視線は集められた物に走る――日記帳、小さな道具、そして用途の分からぬ奇妙な縮小模型まで。けれど、まだ何かが欠けているように、不安げな色が顔に浮かんでいた。
「これで……みんなに見せるものは揃った、はず……」と、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
ふいに思い出したように、ぱんと手を打つ。
「わ、忘れてた! 導体と絶縁体の研究ノートも持っていかなきゃ!」
慌ててロッカーの中へ潜り込み、紙束を掻き回し始めた。
壁にもたれ、腕を組んでいたイリィがにやりと笑う。
「展示会でも開く気? 見せたい物が多すぎじゃないの。」
ベルはその声音にびくりと肩をすくめた。
「す、すみません、ミス・イリィ……また忘れ物を……少し時間がかかっちゃうかも……」
「ゆっくりでいいさ、ベル。」イリィは片手をひらひら振って気楽そうに言う。髪が揺れ、首を傾けた。「それと、“ミス”はいらない。イリィでいい。」
「す、すみません!」ベルは裏返った声を上げる。
「まただよ。」イリィは前髪を指で払いながら溜息をついた。「空気に謝ってばかりだな。呼吸より多いんじゃない?」
ベルがまた言い訳をしようとしたその時、メイが扇を開き、掌に軽く打ち付けた。
「構わぬのじゃ、ベル。イリィは言葉がぶっきらぼうなだけじゃが、忘れるな。そなたを助けておるのは、わらわたちなのじゃぞ。」
ベルは手首のシュシュをいじり、指に巻きつけながら気持ちを落ち着けようとした。
「で、でも……テレーサ様とエディス様が昼食でお待ちだって……」
イリィはくすりと笑う。
「さっきも言ったろ。大したことないって。貴族を待たせたくらいで世界は終わらない。」
「だめ!」ベルは叫び、首を激しく横に振った。項の二つの低いお団子が揺れ、波打つ髪がふわりと跳ねる。「約束は約束です! わ、私ならここに残って大丈夫。食堂なんて行かなくても……」
イリィの眉がぴくりと動く。
「はあ? 馬鹿なの? 置いてったら、わざわざこの埃まみれの場所に来た意味ないでしょ。こんな箱の山、あんた一人で運べるわけないじゃん。」
ベルは唇を震わせ、返事を探すが、表情はますます苦しげに固まるだけだった。
メイは扇をぱちんと閉じ、柔らかく微笑んだ。
「では、こうするのじゃ。ここで揃えた箱は、わらわたちが研究棟まで運んでおいてやろう。そなたはこの旧館に戻って、忘れた物だけを探せばよいのじゃ。」
安堵の色がベルの顔に広がった。彼女はすぐに頭を下げる。
「それなら……本当にありがとうございます。」
イリィの口元に笑みが浮かんだ。
メイは扇で山積みの箱を示した。
「レン。あれを持つのじゃ」
レンは無言で一歩進み、重い箱をいくつも滑らかに抱え上げる。
イリィも身をかがめて箱を取り、日誌の束と一緒に腰で支えた。
「イリィ様、その荷も私にお任せください」レンが気遣わしげに声をかける。
「黙れ、美少年」イリィは鋭い目でにらみ、ぴしゃり。
「全部お前がやったら、わたしが来た意味ないだろ。ベルを手伝いに来てんだ。お前の見物じゃない」
「失礼しました」レンは小さく一礼した。
「そうじゃ、わらわも持つのじゃ」メイは扇を畳み、細い日誌の束を両手でしっかり抱える。
荷を分け終えると、レンは顔が隠れそうな塔のような箱を抱え、イリィは軽々と数箱を脇に、メイはどこか厳粛に日誌を二束握りしめた。
「よし、先に運ぶ。残り、いける?」イリィが持ち直す。
ベルはこくこくとうなずく。「は、はい。わ、わたしは大丈夫です」
その時、不意に新しい声が割り込んだ。
「残りは、俺が手伝う」
ロッカー脇の背の高い窓ががたんと開き、ひと影がよろりと中へ飛び込む。エドワードだった。黒白の制服は袖が擦れてほつれ、腕には掠り傷がのぞく。だが彼はすぐ背筋を伸ばし、手袋を正す。
「エドワード!?」ベルが声を上げる。
「うわっ! どっから出てきたのさ!」イリィは箱を落としかける。
レンの目がわずかに見開かれ、メイの扇の動きも止まった。ぼろぼろの制服と細かな傷に視線が細くなる。
エドワードは襟を直し、むっとした顔で一言。
「そんなふうに驚かせるな 」
「驚いてるのはこっちだってば!」イリィが片手で指さし、もう片手で荷を抱え直す。
メイが鋭く問う。「その身なり、どうしたのじゃ?」
エドワードは間髪入れず答えた。
「カモメの群れに俺の昼メシ盗られた。取り返すのにひと暴れした」
「……はぁ? ありえないって」イリィが瞬きを連発する。
「ここ、海から遠いんだよ。絶対ウソ」
レンが肘でメイをそっとつつき、無言の合図を送る。
メイはすぐに察した。先ほど講堂で、レンが「兄と共に侵入者を追っている」と告げていた。エドワードの有様も、その騒ぎに関わるのだろう。
「……なるほど、そういうことなのじゃ」メイは息を整え、薄く微笑む。
「ならば好都合なのじゃ。エドワード、そなたはベルと共にここに残るがよい。参るぞ、イリィ」
そう言って三人はくるりと背を向け、歩き去っていった。
取り残されたエドワードは、ぽかんとするベルの横に立ったまま。ベルはまだ日誌の端をぎゅっと握りしめていた。
「エドワード!」
ベルは手に持っていた日誌を落とし、声を震わせながら駆け寄った。
「どこに行ってたの? また誰かと戦ったの? ベアトリスが――」
エドワードは手袋をはめた手で、そっと彼女の口をふさいだ。砂埃と汚れがベルの頬に擦りつく。
「シーッ。声が大きい。」
「んむっ……!」とベルはくぐもった声をあげた。
「……ああ、すまない。手袋が汚れていた。」
エドワードは事務的に言い、手を引っ込めてズボンで払った。
ベルは目を見開いた。
「じゃあ……ベアトリスが今キングズガードに守られてるって、知ってるの?」
「もちろん知ってんだろ。」
袖が裂けた上着のボタンを外しながら、エドワードはぶっきらぼうに続けた。
「俺ぁお嬢様の誇り高ぇ執事だぜ。これから会いに行くつもりだ。」
「……それなら、どうしてここに?」
ベルは首を傾げた。
エドワードはすたすたとロッカーへ歩み寄り、きしむ音を立てて扉を開いた。中にはきちんと畳まれた制服が収められている。埃だらけの旧棟でも、その布地はまだ新品同様だった。エドワードは小さく微笑んでそれを取り出す。
「予備をここに置いてある。着替えが必要な時のためにな。お嬢様の前に立つなら、みっともない格好はできないから。」
「全然心配そうに見えないけど……」
ベルは彼の腕に走る傷を見つめながら、小さくつぶやいた。
「最初は心配したさ。」エドワードの声がほんのわずか柔らかくなる。
「だが、もう状況は収まった。」
「……そうだね。」ベルは小さくうなずいた。
その時、エドワードは上着を脱ぎ捨てた。赤く鋭い傷跡が背中一面に広がる。
「エドワード……背中が!」
ベルは息を呑んだ。
「きゃー、見るな。」
エドワードはいつもの無表情な調子で言う。
「冗談言ってる場合じゃない! 治療しないと!」
「俺だって冗談じゃねぇ。」エドワードは片手でシャツの襟をぐいっと引っ張りながら言った。
「裸見られんのは、マジで恥ずかしいんだよ。」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
ベルの顔が真っ赤に染まる。
エドワードはズボンのベルトに親指をかけると、下ろすふりをした。
「それとも……裸を見たいのか?」
「きゃあああっ、ごめんなさい!!」
ベルは顔を両手で覆い、耳まで真っ赤にしてくるりと背を向けた。