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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 2
117/176

2-10-3

イアンは息をのんだ。膝の上に置いた指先がかすかに震えていたが、深く息をついてから言葉を紡いだ。


「そのノートのことなんです。――反王制闘士のリーダーが持っていたリストについて」


エドワードの薄い笑みが、わずかに消える。彼はイアンが話をそらすかと思っていたが、イアンの声音は思いのほか揺るがなかった。


「そのリストを見たんです。いくつかの名前に印が付けられていて……その中にベアトリス様のお名前もありました」


イアンの視線はエドワードの手元へ一瞬移り、そして再び戻る。

「もう一度……見せてもらえますか?」


エドワードは顔を少しそらし、オフィーリアに視線を向けた。しかしオフィーリアは何の反応も示さない。目を開くことすらなく、まるでそこに存在しながらすべてを聞いているかのように、静かに座っている。

その沈黙は、逆に多くを語っていた。


エドワードは黙ってノートを取り出すと、ぱらりとページを開いてイアンに渡す。


イアンは慎重にそれを受け取り、リストのページを探り当てる。指先で追っていくうち、ある箇所で止まった。

「ここに名前が並んでいるほか、有力な貴族の子弟も挙がっています。ですが、ノーサムやウィンスタンレー、カーディッフといった建国家系の学生には印がない。代わりに、わがのご令嬢が入っている……なぜでしょう? ただの小さな山間の男爵家の跡継ぎですよ?」


彼はノートを広げて、ページを示す。そこには、印が付けられた名前の隣に小さな肖像画や簡単な情報――爵位や家名、特徴など――がまとめられていた。

それは明らかに“狙いを定めた”かのように選りすぐられた者たちの一覧だった。


イアンの声が低く沈む。

「そこで気づきました……誰かが彼女を殺そうとしている、と。これはただの学園貴族名簿なんかじゃない。暗殺対象リストだ。誰かが反王制闘士を利用して、特定の学生を始末しようとしているんです」


エドワードは背もたれに身体を預けつつ、再び薄い笑みを浮かべる。

「正解だ。連中は金で雇われたにすぎない。それがどうした? 結果的に失敗したんだろ?」


イアンは顎を強く引く。

「ええ。でも、やめると思いますか? あなたのご令嬢も、わがご令嬢も危ない。」


アンが鼻で笑い、興味なさげに言い放つ。

「最近始まったとでも思うの? うちのお嬢に狙いが付くのなんて、今に始まったことじゃない」


イアンは言葉に詰まる。

王家の血筋は、常に暗殺のリスクを背負っている。グランド・プリンセスとしてのベアトリスが、これまで標的にならなかったわけがない。


だが、エディスは違う。


イアンは重い息をつき、落ち着いた声で続けた。

「わがご令嬢は、“未婚の跡継ぎ” だから狙われているんです。」


その一言が、馬車の空気をぐっと重くする。


エドワードの笑みが再び消え、気だるげにしていたアンも動きを止めた。


「本来なら、あの年齢で婚約が決まっているはずなんです。とくに女系の継承者なら、学園に入る前から縁組が固まっていてもおかしくない。でも、わがご令嬢は……何もない」


イアンはノートを軽く叩く。


「妹君たちはまだ幼くとも、すでに婚約者がいます。少なくとも将来は約束されている。しかし、わがエディス様にはそれがない。だからこそ、“厄介”だと思われているのです。」


アンが呆れたように鼻を鳴らし、足を投げ出したまま口を開く。

「厄介って……そんな陰険な伯爵様が領地を狙ってるとか、昔から彼女に片想いしてた幼馴染でもいるとか? くだらない」


イアンはちらりとアンを見たが、挑発には乗らず、はっきりと言い放った。

「バレルナッホ男爵領を手に入れたい連中にとって――」

彼の声は鋭く、場の空気を切り裂いた。


さらに言葉を重ねる。

「婚約がなければ、どの陣営とも結びつかない。つまり、誰もが狙うことができる立場ということだ。

婚姻ではなく、力ずくでも。だからこそ、警戒される。

公爵や伯爵の中には、“間違った陣営に組み込まれるくらいなら、いっそ消してしまえ”と考える者がいても、おかしくはない。」


そう言いながら、イアンはリスト内のエディスの肖像に指を置く。


「バレルナッホ男爵領は小さいですが、重要な山岳通路をいくつも抱えています。もしエディス様が強い勢力の家に嫁げば、そこで勢力地図が変わる。だが、その前に死ねば……領地は乱れ、隙を突こうと待ってる輩が奪い取れる」


張りつめた沈黙が落ちる。


何も言わなかったレンが、わずかに身動ぎする。声には出さないが、その仕草は理解を示すかのようだった。


「だからこそ、あのリストに名が載っている。」

イアンの声は確信に満ちていた。

「だからこそ、わがご令嬢は危険にさらされている。そして、だからこそ、あのリストは貴族を無差別に排除するものではないと確信している。ただの粛清ではなく、“標的を定めた”リストだ。」


沈黙が深まる。

イアンは静かに息を吐き、姿勢をわずかに変えた後、続けた。


「まだある。わがご令嬢の父上が、とある私的な集まりである噂を耳にした。」

一瞬ためらいがよぎる。しかし、彼はそのまま言葉を紡いだ。


「王は、自らの死まで後継者を指名しないかもしれない。」


沈黙。


エドワードの指が膝の上をゆっくりと叩く。そして、ピタリと止まった。

薄く笑みを浮かべるが、目の奥は鋭い光を帯びている。


「さて、どこで聞いたんだ? ノーサム邸の集まりか? あの連中の酒の席で?」

声音は軽いが、その内に隠れた鋭さがイアンを見据える。


「その通りです。」 イアンは認めた。

「わが主、バレルナッホ男爵閣下の随行として、私もそこにいました。」


エドワードは短く笑う。

「なるほどな。こういう話は、いつも酔った貴族の戯言から始まるもんだ。」


イアンは微動だにしなかった。


「そうかもしれません。しかし、今回は広まりが異常に早い。わがご令嬢の父上は、公には口にしていませんが、何かを察したはずです。そして今や、下級貴族ですらこの噂を囁いている。」


本来ならあり得ないことだった。


領地を持たぬ貴族や小さな男爵家の者たちが、王の継承問題を公然と話題にするなど、――それ自体が大胆不敵であり、危険な兆候だった。


もはや、これは公爵家の密談ではなく、酒場や領主の屋敷で交わされる世間話に変わりつつあった。

その事実こそが、何者かの手がすでに動いている証拠だった。


さらに重い沈黙が場を支配する。


そして、イアンは息を吐き、静かに続けた。


「もう一つ、気になることがあります。」

わずかに眉をひそめ、慎重に言葉を選びながら続ける。


「エディス様はすでに、ベアトリス様が“グランド・プリンセス”であると知っていました。」


エドワードが片眉を上げた。

アンの口元の微笑が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。


「本人が私にそう言いました。しかし……驚いたのは、昨日まで誰も知らなかったはずなのに、わがご令嬢は独力でその事実にたどり着き、しかも誰にも口外しなかったことです。」


エドワードの指が再び膝の上を叩く。一度だけ。


今度の微笑は、皮肉ではなく、何かを思案するかのようなものだった。


イアンはゆっくりと首を振る。


「彼女の意図までは読めません。しかし、確かなことは――彼女は、ベアトリス様に好意的であるということ。」

静かに、しかしはっきりとエドワードを見据える。


「だからこそ、提案したい。」


エドワードの微笑が薄れた。アンが片眉を上げ、興味を隠そうともしない。


イアンは深く息を吸い、申し出を口にした。


「わがご令嬢、エディス・マウントバッテン=カエルウィスク様を、グランド・プリンセス・ベアトリス殿下の派閥に加えてほしい。政治のためではない。ただの“保護”のために。派閥に属さぬ者は、いずれ標的となる。」


アンはゆっくりと息を吐き、肩をすくめると、わずかに舌打ちした。

「……やっぱりな。」


そして――オフィーリアが動いた。


それまで静観していた彼女が、背筋を伸ばし、空気が一変する。

彼女の発する一言一言が、すでに単なる意見ではなく、確固たる“意志”であることを誰もが理解した。

「噂は所詮、噂です。」


淡々とした口調。しかし、その冷静さには鋭い刃のような威圧感が宿る。


「殿下は、政治の場に興味など持っておりません。」


その言葉は、宣言であり、警告であり、命令だった。


エドワードは珍しく言葉をなくし、イアンは喉を鳴らした。

交渉の余地は、なかった。


静寂――だが、それは迷いの沈黙ではなく、理解の沈黙だった。


そして、イアンがもう一度口を開こうとした、その前に。


オフィーリアは最後の一言を放つ。

「あなたのご令嬢の安全は、あなたの責任。」


その視線が、真っ直ぐにイアンを射抜く。

「わがご令嬢の安全は、私の責任。両者の立場を、決して履き違えぬことです。」


冷ややかな終止符。

二人の間に引かれた明確な一線。


外では、馬車の車輪が静かに回り続ける。

その規則正しい音だけが、重く交わされた言葉の余韻を引きずっていた。

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