2-10-1【The Rumor】
イアンはエディスの執事。
レンはメイの執事。
エドワードとアンは、その向かいに腰掛けていた。
彼らの主人たち――ベルを含む一行は、別の馬車に先乗りしている。
道を走る車輪の音が、微かな振動とともに馬車の中に響く。心地よい揺れ――とは言えないほどの重さが、その空間を覆っていた。
だが、それは暑さや居心地の悪さといった外的要因ではない。もっと言いようのない圧迫感、まるで名もなき重圧がのしかかっているような沈黙だった。
会話がないから黙っているわけではない。
“ためらい” から生まれた沈黙。
エドワードが、背もたれにややもたれかかりながら、それを破った。声は淡々としているが、どこか静かな威圧感をはらんでいる。
「話せよ。……話したいことがあるって言ってただろう」
その鋭い視線は、さほど気にしていない様子を装いつつも、イアンへと真っ直ぐ向けられていた。
イアンはそれを受けとめ、戸惑いを隠せない。メガネを押し上げる仕草は、迷いや不安を糊塗するための癖でもある。
「え、ええと……やっぱり、また今度――」
「は? それはなしだろ」
エドワードはわずかに口元を歪めた。小さくてもはっきり伝わる嘲り混じりの笑み。
そして迷うことなく、上着の内ポケットから小さな手帳を取り出す。その姿は妙に悠々としている。
「ずいぶん前からずっと『相談したい』って、しつこく言ってただろ。……この手帳の件だって、そうじゃないのか?」
その言葉には重みがある。だが、その重みすらも、今この馬車内で最も大きな圧力というわけではない。
エドワードとアンの間に座るのは、静かな威圧感を漂わせるオフィーリアだった。
彼女は何も大きな声で主張するでもなく、存在をひけらかすような態度を見せるわけでもない。だが、その存在感は確かに感じられる。冷気がじわじわと体に染み込むように、その場にいる全員を静かに侵蝕しているようだった。
レンも、いつになく落ち着きがない様子だ。
普段なら動じないはずの彼が、ごくわずかに背筋を張り詰め、動くたびに躊躇するかのように見える。
やがて、そっとエドワードに身を寄せ、声を落とした。
「私……御者の隣に座ればいいのでしょうか……?」
だが、エドワードはそうした懸念を取り合わず、あっさりと笑ってみせる。まるで、余計な心配だと言わんばかりに。
「 別にいいだろ。お前のご主人様が何か新しいことを学ぶの、俺は好きだからな。」
レンが答えかけるより先に、ある気配が横切った。
わずかな視線。それだけでレンは硬直する。
オフィーリアが、ちらりと彼を見た。それは問いかけでも注意でもない。ただ“そこにいること”を認めた、という程度の視線。
しかし、レンは息をつまらせたように姿勢をさらに固くする。
「……い、いえ。気にせず、ぼくは何も見てませんし、聞いてませんから。」
「……ぼく?」
エドワードの眉がわずかに動いたが、すぐに何もなかったかのように表情を整える。
それで満足したのか、オフィーリアはイアンへと視線を戻した。
わずかな空気の流れ。息を詰める音。
すると――
ドスッ。
馬車の側面に足が当たる鈍い衝撃が走る。大きくはないが、意図的なのが見てとれる。
アンが退屈そうに前の席を軽く蹴り、そのまま靴を前方の空いたスペースに投げ出したのだ。
相変わらず腕を組んで姿勢を崩し、だるそうに身じろぎする。その動きは小さなアクションだが、周囲に反応を迫った。
レンはそれにつられて体を少し横にずらす。結果、エドワードのほうへ向き直る形になった。
イアンもまた、逃げ場を失い、まっすぐオフィーリアの正面に視線を合わせざるを得なくなる。
さらに、狭い車内が一層狭く感じられる。
オフィーリアは身動きひとつせず、微笑みもしない。ただ、確信めいた声で口を開く。
先ほど別れ際に名乗ったときの、礼儀正しくよそよそしい雰囲気は消えていた。今は偽りのない圧力――自分が話を主導するという意思が、言葉の節々に込められている。
「構いませんよ、イアンさん。エドワードと話をすればいい。わたしはただの傍聴人。港へ用事があって同乗しているだけです」
一見、穏やかな物言い。しかし “ほとんど脅迫” とも取れる圧力が、そこにはあった。
そして、わずかに首を傾げて言う。
「それとも……わたしも交ぜてもらえますか?」
軽く問いかけるように聞こえるその言葉が、馬車の中の空気をさらに重くしたのは言うまでもない。




