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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 2
114/176

2-9-3

テレッサは自分の席のほうに目をやると、途端に身体をこわばらせた。近くに座る見知らぬ人物を見つめ、その表情が露骨な不快感に歪む。


「うぐっ…」

まるで吐き気をこらえるように息を吐き、

「お願いですわ、あの方と話させないでくださいまし…」

と、か細い声を漏らした。


サーヴィリアはこの反応を予期していたのか、テレッサの手をそっと握り込む。

「分かってるわ。」

静かながらも、どこか優しい理解を含んだ声色。


そう言ってから数瞬、サーヴィリアはベアトリスのほうへ向き直る。落ち着いた優雅さを崩さないまま、しかし普段よりも少し頼みごとを含んだ口調で問いかけた。

「わがままに聞こえるかもしれませんが、ベアトリス様。少しの間だけ、わたしたちからカッシウスの気をそらしていただけませんか? せめてテレッサが落ち着くまで…」


テレッサはカッシウスを見まいと視線を逸らしたまま、小さく息をつく。

「ごめんなさい、ベアトリス…」


それでもベアトリスの表情は柔和そのもので、その笑顔はいささかも揺らがない。

「大丈夫ですよ、テレッサ様。」


その真摯な声色に、テレッサの緊張は幾分か緩み、ほっとしたように微笑んだ。


そしてベアトリスはさりげなく歩調を速め、サーヴィリアとテレッサより一歩先を行く。彼女たちは少し遅れてついていくかたちになった。


上段の席に座っていたメイは、そんな三人の様子を観察していた。扇子をさっと開き、そのやり取りを面白そうに眺める。声は聞こえないが、視線や仕草から何があったのかを読み取っているようだった。


わずかに歩みを遅らせる二人。意図的な時間稼ぎ。


メイの鋭い目は、サーヴィリアがいつもより少しだけ歩を落としたこと、テレッサがその腕をわずかに強く握ったこと、そしてベアトリスが歩幅を大きくして先に進んだこと――その全てを捉えている。


やがてメイは何かを悟ったように、ぱちんと扇子を一気に閉じた。会話の内容こそ聞こえなかったが、意図は推し量れたのだろう。


ベアトリスが自分の席のある最上段へ近づいてきたところで、メイは先手を打つように軽い調子で声をかけた。

「そなた、遅かったのじゃ、ベアトリス。まさかサー・イヴァン殿とまた遊んでおったのじゃろう?」


その名を聞いたとたん、メイの隣で穏やかに座っていたカッシウスの眉がわずかに動く。


(ベアトリス、か…)

彼は頭の中でその名を反復し、静かに思考を巡らせる。


(“黙して語らぬ姫”――)


彼の家門で囁かれていた、ほとんど外へ出ることなく育ったという謎めいた王族。貴族の間でも、好奇の視線とともに噂される存在。

だが今、彼女はメイと気さくに言葉を交わしている。


ベアトリスは穏やかに微笑んで答えた。

「ええ、少しばかりお付き合いしていましたわ――」


そう思いつつも、カッシウスの表情は崩れない。しかし興味を引かれたのは事実らしく、瞳にはわずかな探究心が揺らめく。


カッシウスはすっと立ち上がると、滑らかな所作でベアトリスの視線を正面から受け止め、恭しく一礼した。

「これはお初にお目にかかります、カエルイスグ家のベアトリス様。わたくし、ウィットリンガム公爵家の跡継ぎ、カッシウス・ジュリウス・ジェイムズ・ノーサムと申します。こうして直接お話しできるとは光栄に存じます。」


ベアトリスは動じることなく、その礼を上品に受け止める。

「ベアトリス・アメリア・イザボーと申します。お目にかかれて光栄ですわ、ノーサム卿。新聞でしか存じ上げておりませんが、そちらのご活躍はどれも素晴らしいですね。」


カッシウスはわずかに微笑を浮かべる。

「ご丁寧にありがとうございます。ただ、失礼ながら先日まで、わたくしはベアトリス様のことを詳しく存じ上げませんでした。ここにお越しになると聞いて、実に興味深く思っていたのです。もし差し支えなければお伺いしたいのですが、カエルイスグ家のどの分家筋にあたるのでしょう?」


その率直な問いかけに、周囲の貴族たちは息をひそめて聞き耳を立てる。机に向かい退屈そうに本をめくっていたエディスも、ページをめくる手を止めて目だけを上げた。


ベアトリスはカッシウスの視線を見返す。これを曖昧に流しては、かえって憶測を呼ぶだけだ――そう悟っていたのだろう。彼女は短く息を整えたあと、はっきりと告げる。


「わたくしの父は、リヒトブルク公爵アレクサンダー・カエルイスグ。母はアシド出身の名門、ポンス・デ・カエタリア家のアメリアです。」


教室には重い沈黙が漂った。


ただの驚きや困惑ではなく、それ以上の何か――。


貴族たちは皆、「アレクサンダー王子」の名を知っていた。かつて軍功を立て、東フランキアで公爵位に就いた人物。王位継承権は放棄し、東フランキアの領地を治める道を選んだと知られている。そして、王子アレクサンダーには東フランキアの姫を正妻として迎えたという噂も広く流布していた。


しかし――

カッシウスは興味を押し隠すように、少し身を乗り出す。その指先は組まれ、声色は落ち着いているが、一言一言に重みがある。


「皆が承知しているのは、アレクサンダー王子は東フランキアで公爵となり、こちらの王位継承には縁遠い存在だということ。さらに、東フランキアの王女殿下を正妻に迎えた――それだけです。」


一拍おいてから、カッシウスはベアトリスへと目を向ける。その視線は鋭く、観察するようだ。


「ですが、“第一夫人” の話は、あまり聞いたことがありませんね。」


教室の空気が変わった。

ざわ、と波が起こるように、何人もの貴族生が意味ありげに視線を交わす。ようやく、ある可能性に気がついたのだ。


カッシウスは首をかしげつつも、言葉を続ける。

「つまり、ベアトリス様はアレクサンダー王子の ‘最初のご息女’ であるということ……」


ベアトリスは静かにうなずいた。

「はい、わたしは父の第一子にあたります。」


一瞬の静寂――

そして今度は、ささやきが一気に広がり始める。


「もしかして…“グランド・プリンセス” ってやつ?」

「将来的に女王となる可能性もある、ということか…?」

「まさか…そんな…」


教室の貴族生は誰もが落ち着きをなくし始めた。真面目に姿勢を正す者もいれば、目を伏せる者もいる。平民出身の生徒の中には、どう振る舞えばいいか分からずに固まる者もいた。


すると、誰かが沈黙を破る。


「こ、これは失礼をいたしました……グランド・プリンセス・ベアトリス殿下。正確なご身分も存じ上げず、不躾にお声がけしてしまい…」


中段の席にいた子爵家の少年が、あからさまに動揺しながら頭を下げる。エディスも机に向かったままではあるが、わずかに肩を強張らせていた。


メイは軽く扇子を持ち上げ、その目の奥に潜む好奇心を隠す。

アイリャも半ばだらしなく椅子にもたれていたのを正し、少し身を乗り出して様子を見つめている。


ここ数日、皆はベアトリスを“王家の血を引く貴族”程度だと考えていた――しかし、実際にはもっと重大な立場だと知り、空気が一変した。


ベアトリスはそれでも穏やかな微笑みを保ち、柔らかな声で言う。

「公式の場ではありませんし、どうか“ベアトリス” と呼んでください。」


その口調は優しいが、微かな戸惑い――慣れていない状況へのぎこちなさも感じられた。


その一方で、カッシウスは表情こそ変えないものの、その瞳に知的な光を宿し、さらに興味を深めたようだ。


「ポンス・デ・カエタリア家……」

彼は本の表紙をトントンと指で叩きながら呟く。

「アシドの交易に深く関わる名門ですね。そちらでは随分お過ごしになったのでは?」


ベアトリスは小さく首を振る。

「いいえ。一度もアシドには行ったことがありません。プロウノニダの外に出たことすらないのです。」


カッシウスは瞬きをし、興味を深めた。「一度も、ですか。それは……」

彼は一瞬言葉を切った。驚いたのは、彼女が母方の故郷であるアシドを訪れたことがないという事実だけではない。彼女が 一度も都を出たことがない ということだった。


慎重に言葉を選び、彼は言った。「――意外ですね。」


メイは扇子の奥で目を細めるが、カッシウスは問いを重ねる。

「とはいえ、お母上のご実家とのご関係は、それなりに続いているのでしょう?」


ベアトリスはわずかにうなずく。

「ええ、叔母様がときどき手紙をくださる程度で、わたくしはほとんど存じません。」


その寂しげとも取れる言い方に、カッシウスは考え込む。

名高い家柄でありながら、この距離感…。彼は無言のまま、軽く本を叩くように指を動かす。

「ふむ……これほどの家柄でありながら、あまり聞かないのは――」


ぱちん。

メイが鋭い動きで扇子を弾きかけたところ――それより先に、滑らかな声が場を断ち切った。


「そのへんでやめておきなさい、カッシウス。」


いつの間にか、サーヴィリアとテレッサが席についている。サーヴィリアはテレッサと指を絡ませたまま、端正な姿勢で座り、冷静ながらどこか凛とした表情をしていた。


「あなたの話し方は、人によっては重すぎるわ。」


カッシウスはしばしサーヴィリアを見やり、それから控えめに微笑む。

「なるほど、そう言われてみれば。」


一方、メイは口を開こうとしていたが、サーヴィリアが先に動いたため、扇子を口元に当てて面白そうに眺めるだけにとどめる。


テレッサは依然サーヴィリアの腕を握ったまま、あからさまにカッシウスへの興味を欠いた仕草を見せた。くるりと顔を背け、ため息混じりに息をつく。


カッシウスは短く笑い、ベアトリスへと改めて向き直った。

「失礼しました、グランド・プリンセス殿下。少々押し付けがましかったかもしれませんね。」


ベアトリスは穏やかにうなずく。

「お気になさらず、ノーサム卿。もっと落ち着いたときにでも、お話いたしましょう。」


カッシウスは完璧な礼を返しつつ、微笑を湛える。

「ええ、そのときを楽しみにしております。」


そう言いながらも、その瞳には未だ解けぬ好奇心が残っている。その謎を解き明かす機会は後ほど、というところか。


カッシウスの視線はサーヴィリアへ移る。

「いつ席に着いたのか、まったく気づかなかったよ、サーヴィリア。」


「気づかれないほうが好都合だったの。」


彼女の冷淡な返答に、カッシウスは薄く笑みを浮かべ、その眼差しもほんのわずかに柔らぐ。

「変わりはないかな?」


サーヴィリアは唇を少し歪める。笑みとも皮肉ともつかない表情だ。

「さあ、どうかしら。あなたが社交辞令で聞いているのか、それとも本気で心配しているのか……どちらだって同じよね。」


カッシウスは首をかしげる。

「なるほど。どちらであっても大差はない、ということかな。」


サーヴィリアは一瞬だけ目を伏せ、テレッサの手を握る力をほんの少し強める。

「そういうこと。わたしは自分のことは自分で面倒見るから。昔からそうだったでしょ。」


幼馴染みゆえの含みある言葉に、カッシウスは気配を読み取ったらしく、一瞬唇の端を吊り上げる。

「ならば結構。君に何事もなければいい。」


サーヴィリアは軽く息をつき、皮肉げに続ける。

「そちらこそ、ベアトリス様に絡むくらいの余裕はあるみたいだから、元気そうで何よりだわ。」


カッシウスは思わず含み笑いを漏らす。

「絡む、とはまた手厳しい。礼節ある対話を心がけただけさ。」


「よく言うわね。」


その一言には棘はなく、ただ淡々としている。二人の間に空気の隔たりを感じつつも、カッシウスはあえて深く詮索しない。視線を少し動かし、テレッサの手がサーヴィリアの腕をしっかりと掴んでいるのを見ても、何も言わなかった。


やがて彼の目は、サーヴィリアの近くに座る見慣れぬ少女へ向けられる。貴族らしい佇まいだが、どこか内気そうにサーヴィリアの腕を頼っている。


「ずいぶん新しい顔がいるようだが…?」


軽い調子ではあるが、その底には興味がうかがえる。


テレッサの唇がかすかに動くが、どう答えるか迷ったのか言葉にはならない。

先にサーヴィリアが口を開く。


「テレッサ・バークレー様よ。あなたのことはすでに知っているわ。でも、勘違いしないで。彼女は ‘特定の人’ とは話さないだけ。」


テレッサはサーヴィリアの袖をきゅっと握った。


カッシウスはその細かな反応を見逃さず、唇に微かな笑みを宿す。

「なるほど、 ‘特定の人’ ね。興味深い。それはわたくしのことも含まれるのかな?」


彼はテレッサをちらりと見るが、彼女はあくまで視線を合わせようとしない。

「まあ、言葉を交わせないのであれば、せめて声だけでも耳に届けば十分でしょう。バークレー様、無理を強いるつもりはございませんので、ご安心を。」


テレッサは何も言わないが、サーヴィリアは小さく鼻を鳴らすようにして「それでいいわ」と言わんばかりの態度を見せる。


カッシウスは彼女から視線を外すと、サーヴィリアをもう一度見る。


サーヴィリアは淡々とした声で応じる。

「あなたこそ、じろじろ見すぎよ。ほら、先生がいらした。」


彼女の言葉に合わせたように、年配の女性がゆっくりと入室するのが見えた。きちんとまとめられた灰色の髪。モーガン教授だ。その隣では、ベルという少女が山のような本を抱え、慣れた様子で教授机の近くまで運んでいる。


教授は自分の手に持っていた資料を机に置くと、ベルのほうを向き、にこやかに声をかけた。

「助かるわ、ベルさん。あなたは本当に頼りになるわね。」


ベルは背筋を伸ばし、丁寧に一礼する。

「いえ、モーガン教授。大したことではありません。」


ベルが自分の席に戻ると、教室は自然と静かになっていった。授業前特有の小声と衣擦れの音、書物の紙をめくる音だけがかすかに残る。


とはいえ、小声の中には、まだ気になる話題を続ける者もいるようで――


「またモーガン教授のお手伝いなのじゃ? ベル。」

メイが気軽に扇子を持ち上げて声をかけると、ベルは席に腰を下ろしながら軽く肩をすくめる。


「図書室でたまたまお会いしただけよ。」


そのやりとりを横目に、カッシウスはベルをじっと見やる。上段の席に座る平民の少女――だが、このクラスでは特に批判的な視線は向けられていないようだ。むしろ慣れた空気すら感じられる。


(“セイント・スカラー”……なるほど、彼女がそうか。)


カッシウスが黙考に入ったところで、メイがわざとらしく扇子を顎に当て、したり顔をする。

「のう、ベル。そなたはベアトリスがグランド・プリンセス殿下だと知っておったのじゃろう?」


その言葉に、カッシウスは本をめくる手を止める。


「もちろん知っていたわ。」

ベルは即答し、続けて少し得意げな表情になる。

「メイはまだベアトリスの屋敷に行ったことがないんでしょう? 部屋に素敵なティアラがあるのよ。知ってるのはたぶん、わたしとテレッサ様、それにサーヴィリア様ぐらいじゃないかしら。」


メイは目を丸くしてベアトリスのほうへ向き直り、茶化すような声で言った。

「へぇ? ベアトリス、わらわには内緒だったのかの? これはなかなか大事なのじゃないか?」


ベアトリスはくすっと笑い、肩をすくめるように軽く流す。

「そんなに大げさなことじゃないわよ。」


ベルはおどけたように肩をすくめる。

「案外、大したことなんじゃないかしら。」


カッシウスは黙ってそれを見つめる。


(平民の少女が、こうも気安く大公女と交流しているとは……)


いくらこのクラスが特別だとしても、想像以上だ。カッシウスは本の表紙を軽く叩きながら、クラス内の人間関係を改めて考え直す。


しかし、その思考を断ち切るようにモーガン教授の声が教室全体に響いた。


「メイさん――」


教授が前方で本を並べ終えたらしく、静かながら明確な警告を含んだ調子で名を呼ぶ。

するとメイは素早く扇子を閉じ、まったく動じない笑みを浮かべながら一礼する。

「失礼したのじゃ、モーガン教授。」


こうして教室には、授業開始を告げる静けさが戻ってきたのだった。

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