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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 2
112/176

2-9-1【Lord Cassius Julius James Northam】

朝の教室には紙の擦れる音や、低くかわされる会話がわずかに響いていた。まだ席に着いたばかりの生徒たちは、期待をはらんだ声でお互いにささやき合っている。そんな中、最上段の席に腰掛けていたのは、メイ=シュエン・ユウ。初日からこの場所を自分の定位置に決めている。彼女の手には、折りたたみの扇子が軽く握られ、その静かな姿勢が落ち着いた雰囲気を引き立てていた。彼女は毎朝、人影まばらな教室へ最初に入り、差し込む朝の光の中で、一日の慌ただしさが始まる前の静謐な時間を楽しむのが習慣だった。


閉ざされたドアの向こうから薄く漂っていたざわめきが、徐々に大きくなる。メイは首をかしげ、扇子をわずかに動かすと、扉のほうへ視線を向けた。


やがて扉が開く。


まず姿を現したのは、クラスの生徒ではなさそうな少年。無言のまま扉を支え、続く人物がスムーズに入れるようにしている。すると、メイの扇子がふわりと開き、その下半分の顔を隠しながら、鋭い目つきで様子をうかがった。


カッシウス・ノーサムが教室に足を踏み入れる。


まるで空気が一段と重くなるような感覚が走った。高身長でスリムな体躯でありながら、目を奪うほどの存在感を放つ。丁寧に仕立てられた制服は朝日の下でボタンがきらりと光り、銀灰色の髪が整った顔立ちを際立たせている。灰青色の瞳は教室をじっくり見渡し、一歩一歩の歩みがまるで意図的に響いているかのようだった。


後ろにいた少年は、そのまま廊下へ下がるように扉を静かに閉めると、外のざわめきが遮断される。教室内は妙な沈黙に包まれ、誰もが彼に注目していた。


「……あれは?」


「ノーサムの跡取り……。」


「まさか本当に来るとは。」


メイはわずかに扇子を動かしてカッシウスを見つめる。顔や名前は既に知っているが、実際に会うのは初めてだった。彼の仕草や姿勢は、まるでこの世界が自分の足元に跪くべきだと思っているようにも見える。メイは扇子の裏で短く微笑む。

中段の席からは貴族の少年が立ち上がり、興奮と緊張が同居する声で言った。「お越しいただき光栄です、ノーサム公爵家の継承者。わたしはコンプトン家の者でして、直接ホイットリンガムにお仕えしているわけではありませんが、従来より貴家との関係を大切にしてきました。」


カッシウスは歩を止め、その少年を一瞥すると、まるで物理的な圧を伴うような視線を向ける。やがて、柔らかな笑みを浮かべ、その声は落ち着いた貴族らしい響きを帯びていた。


「コンプトン家、ですか。たしか造船の長い伝統を守りつつ、革新も怠らない家柄と伺っています。」


少年――頬を紅潮させ、「は、はい、ノーサム卿。我々は――」と答えかけると、


「肩書は要りませんよ」

カッシウスはそう優しく制しつつ、友好的に手を差し伸べる。「これからは同級生です。余計な形式ばかりでは困るでしょう?」


少年は瞬間的に戸惑うが、彼の手を握り返す。「フレデリックといいます。」


カッシウスはその手を離し、微かな声で名を繰り返す。「フレデリック……いい響きですね。わたしはカッシウス・ノーサム。よろしくお願いします。これからは家同士だけでなく、わたしたち自身も互いを支え合いましょう。」


そう言って一歩進み、既に視線は上段へ注がれていた。その先にはメイが座っており、わずかに扇子を下げたまま彼を見つめている。カッシウスが階段を上がりきると、最上段で立ち止まり、静かに姿勢を正す。メイは扇子を畳み、ゆったりと立ち上がって彼と向かい合った。


数秒の沈黙ののち、メイは胸の前で手を合わせ、華夏(ホアシャ)の伝統的な挨拶をするように上体を沈める。その衣装がかすかに擦れ合う音が聞こえた。「わらわはメイ=シュエン・ユウと申すのじゃ。姓の“尤”は卓越を意味し、“美萱(メイシュエン)”とは美しさと萱草という忍耐の花を示しておるのじゃ。わらわは、華夏皇帝・趙文殊(チョウ・ブンシュ)陛下のご尊敬なるおじ上に仕える使節、尤遠(ユウ・ユエン)尤舒蓮(ユウ・シュリエン)の娘なのじゃ。」


一礼を終え、柔らかな笑みを浮かべて彼を見やる。「どうぞ、『メイ』と呼ぶがよいのじゃ。」


カッシウスは満面の柔和な笑みで応じ、貴族らしい仕草で胸に手を当て、軽く会釈した。「わたくしはカッシウス・ジュリアス・ジェイムズ・ノーサム。ホイットリンガム公爵家の跡取りです。よろしく、メイ。ここでの学びが互いにとって有意義なものとなることを願います。」


メイはこくりと静かにうなずき、その瞳には小さな光が揺れる。「その“願い”が正しいかどうか、見極めたいのじゃ。」


カッシウスは一瞬ためらったのち、穏やかな問いを口にする。「失礼ですが……あなたはホアシャの“茶の姫君”と呼ばれる方でしょうか?」


メイは扇子をわずかに傾け、唇に微かな笑みを浮かべた。「まさか、わらわが年老いたご婦人か何かとでも思っておったかの?」


カッシウスは控えめに笑い、「はい、正直言えば、『お茶の価格を左右するほどの茶姫』という伝承から、もっとご高齢の方を想像していました。」


メイはくすりと笑う。「わらわはお茶の値段など動かせんのじゃ。美味しいと思ったものを正直に伝えておるだけじゃよ、カッシウス殿。」


するとカッシウスは柔らかく切り返す。「正直かどうかはともかく、あなたの言葉は茶商にとって黄金だ、と聞きます。茶に詳しい方が評するなら、商人は当然飛びつくのでしょう。」


メイは静かにうなずく。「かもしれぬが、真に評価されるのはお茶そのものであって、わらわではないのじゃ。」


カッシウスは微笑みを消さず。「謙虚、というわけですね。わたしが学びたいことの一つかもしれません。」


メイは興味を帯びた眼差しを向け、扇子を軽く揺らす。「一つ噂を聞いたのじゃ。幼少の子どもが、誰の支援も得ずに商会を立ち上げ、大きく伸ばしたと。作り話かと思ったが、それがあなただったとはのう。なかなか見事ではないか。」


そう言って扇子をたたみ、柔和な笑みへ移行する。「商いをゼロから起こすなど、経験豊富な商人でも難しいこと。よほどの才と努力が要るはずじゃ。」


カッシウスは深く頷き、敬意を示す。「ありがとうございます。両親が“失敗は人生の教師”だと説いており、幼い頃から挑戦を許してくれました。人目を引くつもりはありませんでしたが、頑張れば注目はついてくるものですね。」


メイは彼を見つめ、「努力だけでなく、そなたの資質そのものが功を奏したということじゃろう。ノーサムの名などなくても、十分に印象的なのじゃ。」と評する。


カッシウスは少しだけ表情を緩め、「その言葉は身に余る光栄です。もっとも、幸運もありました。家族からの公的支援こそなくても、最低限の道筋は用意されていましたので。」


メイは穏やかな眼差しで扇子を一気に閉じ、「運が門を開いても、そこを歩むのは自分次第じゃ。そなたは歩いた。それが結果として現れた、というだけのことのじゃ。」


ところが、そのとき教室の扉が勢いよく開き、強い衝撃音が静かな空気を揺らす。アイリャ・ヴォイジーが険しい表情で入ってきたのだ。いつもの軽妙で挑発的な雰囲気はどこへやら、鋭い動きと苛立ちを露わにして席へと足を運び、前列へどかりと腰を下ろす。その硬い姿勢は普段の気ままな余裕とは程遠かった。


メイは手に握る扇子が微かに震えるのを感じながら首を傾げ、アイリャに問いかけた。

「「そなた、何かあったのじゃ?」


アイリャはメイを見ずに答えた。

「ええ。邸へお茶に伺う際に話そ」


カッシウスはその様子を注視し。「あれがヴォイジー家の後継者ですか。」


メイが答える前に、アイリャは鋭い瞳でカッシウスをにらみつけた。明らかな敵意がその瞳に凝縮され、一瞬教室全体が凍りつく。


しかしカッシウスは微塵も動揺せず、その灰青の瞳にわずかな興味を宿してイリィを見返す。まるで争い慣れしているかのような落ち着きと、どこか楽しむような気配さえ漂わせていた。

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