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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 2
111/176

2-8-2

ベアトリスは学院の正門から伸びる荘厳な道を歩いていた。

その数歩後ろを、エドワードが控える。

朝の空気はひんやりとしていて、風に乗って木々の葉ずれの音がかすかに耳をくすぐる。


ふと、ベアトリスの目が何かを捉え、ぱっと輝いた。

小道の脇を、つややかな黒猫がのんびりと歩いていたのだ。


「サー・イヴァン!」

彼女は小さな弾むような声でそう呼びかけると、スカートを揺らしながら小走りで近づく。

軽やかにしゃがみ込み、その黒々とした毛並みを優しく撫で始めた。


エドワードは少し遅れて追いつくが、慎ましく距離を保って足を止める。


「おはよう、サー・イヴァン」

ベアトリスは楽しそうに声をかける。猫はころんと転がって喉を鳴らし、そのしぐさにベアトリスは微笑みを深めた。


この黒猫は学院周辺を気ままに歩く野良で、学生たちからは“伝説の騎士サー・イヴァン”にちなんだ名を贈られていた。

古い伝承で獅子に変身する英雄の名にあやかったという。


辺りを用心深く見回したあと、ベアトリスは鞄から細切れのビーフジャーキーを取り出す。

その仕草に気づいたエドワードは、わずかに溜息をついた。


「お嬢様、また餌をお与えになるおつもりですか?」


「ほんの少しだけよ」

ベアトリスはまるで秘密の相談をするような声を出す。


エドワードは半ば呆れたように、「あえて反対はしませんが、これが続くと、猫が完全にお嬢様を頼るようになりますよ」と言った。


ベアトリスは温かな笑みを浮かべ、ジャーキーを猫の前にそっと置く。

「別に困りませんわ。こんなにもかわいいんですもの。」


サー・イヴァンが夢中でその切れ端を食べ始める姿を、ベアトリスはうれしそうに見守っていた。通りかかる生徒の中には、その様子にくすっと笑ったり、ベアトリスの庶民的とも言える行動を微笑ましく思う者もいる。


エドワードは静かに見つめながら、ほのかな誇りを胸に秘め、(見るがいい、価値のない凡人どもよ――わが主君の高貴なる御姿を心から崇めるがいい)と内心で思っていた。


しかしふと、彼は視線を先にやり、遠方から二人の少女が腕を組んで歩いてくるのを認める。

その後ろには、眠たげな表情のメイドがついていた。


「お嬢様、少々失礼します。セルヴィリア・アディントン様とテレッサ・バークレー様がお見えのようです。」


「ありがとう、エドワード」

ベアトリスは彼が示す方向を見つめ、そう答える。


エドワードは大きく距離をとり、視界から外れるように下がる。一方、近づいてくる貴族二人の執事もまた、同様に主君を陰から守る距離を保ちながら、ポニーテールの黒髪を揺らして周囲を警戒している。


「おはようございます、ベアトリス様」

背の高いほうが先に口を開く。

セルヴィリア・アディントン、その落ち着いた佇まいは見事で、自然と気品を漂わせていた。


「おはよう、ベアトリス。サー・イヴァンにもおはようですわよ~」

もう一人、やや小柄な少女――テレッサ・バークレーは金色のツインテールを揺らしながら、セルヴィリアの腕に寄りかかりつつ微笑んでいる。猫を見て、楽しげに言った。


猫は気だるげにあくびを返すばかり。


ベアトリスはすっと立ち上がり、優雅に一礼する。「おはようございます、セルヴィリア様。テレッサ様。そして……マーガレットもおはよう。」


不意に名前を呼ばれ、後ろのメイド――マーガレットがどきっとした様子で背筋を伸ばす。

「あ、はい。ベアトリス様、おはようございます……。」


テレッサは猫のそばにしゃがみ、ふわりとツインテールが揺れる。「サー・イヴァン、きょうは元気そうですわね~」

その声は甘い口調だが、どこか気まぐれな響きがある。


ベアトリスもその横に膝をつき、動作は淑やかだ。

「いつも元気なんですよ。ほら、見てください。」

笑みをこぼすと、彼女のスカートがかすかに地面をさらって音を立てる。


「ベッドから引っ張り起こされた誰かさんとは違うわね」

セルヴィリアがくすっと笑いながらテレッサに視線を送る。


ベアトリスは吹き出しそうなのをこらえる。


「……だって、学校なんて行きたくありませんでしたもの~。昨夜は父のお手伝いをしていて、くたくたですわ。猫になれたら、一日中ぐーたらしてたいのに。」

テレッサはややすねた調子で猫を撫でる。


「わたしだって行きたくなかったわ」

セルヴィリアは誇らしげに口元を上げる。

「でも文句を言わずに来てるのよ。カシウスが来るとしても、ね。」


テレッサは顔をしかめる。「あの人、最上段に座るの?」


ベアトリスはこくりとうなずく。「ええ、メイから歓迎式のときに聞きました。」


テレッサは大げさにため息をつく。「いや~ですわ……女の子ならよかったのに。」


セルヴィリアも肩をすくめる。

「わたしたち、歓迎式に出なかったし、知ってたらクラスを変えてもらったのに。」


テレッサは夢見るような口調で、「わたくしたちが離ればなれだなんて、耐えられませんわ~……セヴィと違うクラスなんて想像できませんもの~」と頬を染める。


ベアトリスは微笑んで、「お二人は本当に仲が良さそうで、うらやましいです。」と暖かな声で言う。


セルヴィリアは思いがけない言葉に少し驚き、「あなたもミス・ベルと親しいのでは?」と問いかける。


「はい」

ベアトリスは、どこか誇らしげに微笑んだ。

それを見たセルヴィリアは、なぜか気恥ずかしそうに目をそらす。


「ですけど、わたくしたちほどではありませんわ~」

テレッサは立ち上がりながら、再びセルヴィリアの腕にしがみつく。

その満ち足りた笑顔は眩しいほど。


そのとき、動きに驚いた猫がびくっと身を翻し、茂みの中へ姿を消してしまった。


「あ……行ってしまいましたわ」

テレッサはがっかりしたように呟く。


「またあとでね、サー・イヴァン」

ベアトリスは優しく声をかけ、遠ざかる猫の影を見送る。


セルヴィリアはそれを見て、楽しそうに微笑む。


こうして三人の貴族は揃って教室へ向かい始めた。

その姿は目立つもので、通りがかった上級生までもが少し気にするほどだった。


「ベルさんはどこかしら?」

テレッサが何気なく尋ねる。


「たぶん図書館ですね。きょうは朝からそこにいたみたいです」

ベアトリスが答える。


三人が優雅に校舎へ向かうと、彼女たちの執事たちは一糸乱れぬ距離感で従う。

エドワードはベアトリスからやや離れた位置に下がりつつ、同じように他家の執事と並んで歩く。


エドワードはちらりと横目をやり、同僚のポニーテール執事へわざとらしく同情的な声をかける。

「いや~、悩ましいですよね?」


しかしポニーテール執事は顔を動かさず、視線を正面に固定したまま返事をしない。


エドワードは気にせず調子をあげる。

「俺も……、あの方は嫌いなんですよ。いや、嫌いっていうか、あまり好ましくない、というか。同じことの繰り返しで。普段ならお嬢様を教室の前までエスコートできるのに、彼女がいるとわざわざ離れて待たないといけない。それが昼休みまで続くんですよ!」


ポニーテール執事は微動だにしないが、ほんの僅かに眉が動いたようにも見える。

彼がエドワードの話を聞いている証拠だろう。


エドワードは大げさに胸を押さえ、「男に近づかないでください、だなんて……不便極まりないですよね。わたしの主がもしあんな感じだったら……想像するだけで地獄です。それどころか、メイドに交代などと言いだされたら、目も当てられません」と嘆いてみせる。


ポニーテール執事は沈黙を崩さないが、

「メイドに交代」というフレーズが出た瞬間、わずかに目を見開いたように思われた。


しかしエドワードは気づかず、深刻ぶった口調を続ける。

「けど、俺のお嬢様はそういうことをなさらない方ですからね。優しく、ほんとうに優秀なお方です。ただ、世の執事の中には不運な者もいて……ある朝突然、『あなたはもういいわ』と捨てられ……」


そのとき、ポニーテール執事はほんの一瞬、視線をエドワードに向けた。

わずかな反応だが、エドワードが言うことを確かに聞いているようだ。


エドワードは声を落とし、相手も聞いているかどうかわからないまま話を締めくくる。

「でも、もしそんなことが本当に起きたら……可哀想すぎますよね。メイドに仕事を奪われるなんて……。」


やがて二人は話を切り上げるように黙り、砂利道を踏む穏やかな足音だけが響き始める。

遠くで学院の朝のにぎわいが増していく中、エドワードのぼやきは風に流れて消えていくのだった。

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