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ベアトリスは学院の正門から伸びる荘厳な道を歩いていた。
その数歩後ろを、エドワードが控える。
朝の空気はひんやりとしていて、風に乗って木々の葉ずれの音がかすかに耳をくすぐる。
ふと、ベアトリスの目が何かを捉え、ぱっと輝いた。
小道の脇を、つややかな黒猫がのんびりと歩いていたのだ。
「サー・イヴァン!」
彼女は小さな弾むような声でそう呼びかけると、スカートを揺らしながら小走りで近づく。
軽やかにしゃがみ込み、その黒々とした毛並みを優しく撫で始めた。
エドワードは少し遅れて追いつくが、慎ましく距離を保って足を止める。
「おはよう、サー・イヴァン」
ベアトリスは楽しそうに声をかける。猫はころんと転がって喉を鳴らし、そのしぐさにベアトリスは微笑みを深めた。
この黒猫は学院周辺を気ままに歩く野良で、学生たちからは“伝説の騎士サー・イヴァン”にちなんだ名を贈られていた。
古い伝承で獅子に変身する英雄の名にあやかったという。
辺りを用心深く見回したあと、ベアトリスは鞄から細切れのビーフジャーキーを取り出す。
その仕草に気づいたエドワードは、わずかに溜息をついた。
「お嬢様、また餌をお与えになるおつもりですか?」
「ほんの少しだけよ」
ベアトリスはまるで秘密の相談をするような声を出す。
エドワードは半ば呆れたように、「あえて反対はしませんが、これが続くと、猫が完全にお嬢様を頼るようになりますよ」と言った。
ベアトリスは温かな笑みを浮かべ、ジャーキーを猫の前にそっと置く。
「別に困りませんわ。こんなにもかわいいんですもの。」
サー・イヴァンが夢中でその切れ端を食べ始める姿を、ベアトリスはうれしそうに見守っていた。通りかかる生徒の中には、その様子にくすっと笑ったり、ベアトリスの庶民的とも言える行動を微笑ましく思う者もいる。
エドワードは静かに見つめながら、ほのかな誇りを胸に秘め、(見るがいい、価値のない凡人どもよ――わが主君の高貴なる御姿を心から崇めるがいい)と内心で思っていた。
しかしふと、彼は視線を先にやり、遠方から二人の少女が腕を組んで歩いてくるのを認める。
その後ろには、眠たげな表情のメイドがついていた。
「お嬢様、少々失礼します。セルヴィリア・アディントン様とテレッサ・バークレー様がお見えのようです。」
「ありがとう、エドワード」
ベアトリスは彼が示す方向を見つめ、そう答える。
エドワードは大きく距離をとり、視界から外れるように下がる。一方、近づいてくる貴族二人の執事もまた、同様に主君を陰から守る距離を保ちながら、ポニーテールの黒髪を揺らして周囲を警戒している。
「おはようございます、ベアトリス様」
背の高いほうが先に口を開く。
セルヴィリア・アディントン、その落ち着いた佇まいは見事で、自然と気品を漂わせていた。
「おはよう、ベアトリス。サー・イヴァンにもおはようですわよ~」
もう一人、やや小柄な少女――テレッサ・バークレーは金色のツインテールを揺らしながら、セルヴィリアの腕に寄りかかりつつ微笑んでいる。猫を見て、楽しげに言った。
猫は気だるげにあくびを返すばかり。
ベアトリスはすっと立ち上がり、優雅に一礼する。「おはようございます、セルヴィリア様。テレッサ様。そして……マーガレットもおはよう。」
不意に名前を呼ばれ、後ろのメイド――マーガレットがどきっとした様子で背筋を伸ばす。
「あ、はい。ベアトリス様、おはようございます……。」
テレッサは猫のそばにしゃがみ、ふわりとツインテールが揺れる。「サー・イヴァン、きょうは元気そうですわね~」
その声は甘い口調だが、どこか気まぐれな響きがある。
ベアトリスもその横に膝をつき、動作は淑やかだ。
「いつも元気なんですよ。ほら、見てください。」
笑みをこぼすと、彼女のスカートがかすかに地面をさらって音を立てる。
「ベッドから引っ張り起こされた誰かさんとは違うわね」
セルヴィリアがくすっと笑いながらテレッサに視線を送る。
ベアトリスは吹き出しそうなのをこらえる。
「……だって、学校なんて行きたくありませんでしたもの~。昨夜は父のお手伝いをしていて、くたくたですわ。猫になれたら、一日中ぐーたらしてたいのに。」
テレッサはややすねた調子で猫を撫でる。
「わたしだって行きたくなかったわ」
セルヴィリアは誇らしげに口元を上げる。
「でも文句を言わずに来てるのよ。カシウスが来るとしても、ね。」
テレッサは顔をしかめる。「あの人、最上段に座るの?」
ベアトリスはこくりとうなずく。「ええ、メイから歓迎式のときに聞きました。」
テレッサは大げさにため息をつく。「いや~ですわ……女の子ならよかったのに。」
セルヴィリアも肩をすくめる。
「わたしたち、歓迎式に出なかったし、知ってたらクラスを変えてもらったのに。」
テレッサは夢見るような口調で、「わたくしたちが離ればなれだなんて、耐えられませんわ~……セヴィと違うクラスなんて想像できませんもの~」と頬を染める。
ベアトリスは微笑んで、「お二人は本当に仲が良さそうで、うらやましいです。」と暖かな声で言う。
セルヴィリアは思いがけない言葉に少し驚き、「あなたもミス・ベルと親しいのでは?」と問いかける。
「はい」
ベアトリスは、どこか誇らしげに微笑んだ。
それを見たセルヴィリアは、なぜか気恥ずかしそうに目をそらす。
「ですけど、わたくしたちほどではありませんわ~」
テレッサは立ち上がりながら、再びセルヴィリアの腕にしがみつく。
その満ち足りた笑顔は眩しいほど。
そのとき、動きに驚いた猫がびくっと身を翻し、茂みの中へ姿を消してしまった。
「あ……行ってしまいましたわ」
テレッサはがっかりしたように呟く。
「またあとでね、サー・イヴァン」
ベアトリスは優しく声をかけ、遠ざかる猫の影を見送る。
セルヴィリアはそれを見て、楽しそうに微笑む。
こうして三人の貴族は揃って教室へ向かい始めた。
その姿は目立つもので、通りがかった上級生までもが少し気にするほどだった。
「ベルさんはどこかしら?」
テレッサが何気なく尋ねる。
「たぶん図書館ですね。きょうは朝からそこにいたみたいです」
ベアトリスが答える。
三人が優雅に校舎へ向かうと、彼女たちの執事たちは一糸乱れぬ距離感で従う。
エドワードはベアトリスからやや離れた位置に下がりつつ、同じように他家の執事と並んで歩く。
エドワードはちらりと横目をやり、同僚のポニーテール執事へわざとらしく同情的な声をかける。
「いや~、悩ましいですよね?」
しかしポニーテール執事は顔を動かさず、視線を正面に固定したまま返事をしない。
エドワードは気にせず調子をあげる。
「俺も……、あの方は嫌いなんですよ。いや、嫌いっていうか、あまり好ましくない、というか。同じことの繰り返しで。普段ならお嬢様を教室の前までエスコートできるのに、彼女がいるとわざわざ離れて待たないといけない。それが昼休みまで続くんですよ!」
ポニーテール執事は微動だにしないが、ほんの僅かに眉が動いたようにも見える。
彼がエドワードの話を聞いている証拠だろう。
エドワードは大げさに胸を押さえ、「男に近づかないでください、だなんて……不便極まりないですよね。わたしの主がもしあんな感じだったら……想像するだけで地獄です。それどころか、メイドに交代などと言いだされたら、目も当てられません」と嘆いてみせる。
ポニーテール執事は沈黙を崩さないが、
「メイドに交代」というフレーズが出た瞬間、わずかに目を見開いたように思われた。
しかしエドワードは気づかず、深刻ぶった口調を続ける。
「けど、俺のお嬢様はそういうことをなさらない方ですからね。優しく、ほんとうに優秀なお方です。ただ、世の執事の中には不運な者もいて……ある朝突然、『あなたはもういいわ』と捨てられ……」
そのとき、ポニーテール執事はほんの一瞬、視線をエドワードに向けた。
わずかな反応だが、エドワードが言うことを確かに聞いているようだ。
エドワードは声を落とし、相手も聞いているかどうかわからないまま話を締めくくる。
「でも、もしそんなことが本当に起きたら……可哀想すぎますよね。メイドに仕事を奪われるなんて……。」
やがて二人は話を切り上げるように黙り、砂利道を踏む穏やかな足音だけが響き始める。
遠くで学院の朝のにぎわいが増していく中、エドワードのぼやきは風に流れて消えていくのだった。




