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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 2
110/176

2-8-1【Different Shades of Morning】

図書館の静謐な空気は、朝早くから勉強に励むベルにとって、混乱の一日が始まる前の数少ない安息だった。

大きく弧を描く窓から柔らかな光が差し込み、背の高い書棚に整然と並ぶ本を照らす。

その壮麗さにもかかわらず、ベルの姿はまるで場違いのように浮いていた。

周囲から向けられる微妙な視線は、彼女が“同等の仲間”ではなく、“場違いな存在”と見なされていることを静かに物語る。


中央近くの小さなテーブルに腰かけたベルは、土木工学の分厚い本に目を落としている。

その重たい書物の隣には、ここ一週間かけて丹念にまとめたノートが並び、誰が見ても味気ないと思うかもしれないが、ベルにとっては改革のための扉だった。

“セインツ・スカラー”という肩書が示すのは、貴族たちのあざけりを受けながらでも前へ進む――そんな責務を意味している。


控えめな足音が、図書館の静寂をやわらかに乱した。

顔を上げると、二人の貴族の娘が彼女のテーブルを通り過ぎていく。

そのくすくすとした笑い声は、広い空間のはずなのに、なぜか耳障りなほどはっきり響いた。


ベルは本を戻そうと席を立ち、棚へ歩み始める。

そのとき、小声のひそひそ話が聞こえてきた。


「レディ・ベアトリスがいないと、まるで野良みたいね。」

「ご主人様にリードを緩められたのかしら? ま、どうせそのうち戻ってくるでしょ。ベアトリス様は“ペット”をしっかり躾けてるんだから。」


ベルは本を握る手に力をこめ、会話を聞き流すように前を向いたまま歩き出す。

彼女たちは後をつけるように続き、わざとらしくベルを囲むようにしていた。


やがて、一人が棚の前で意地悪く立ち止まる。

にこやかに「失礼」とは言うが、道を譲る気配はない。

ベルは小さく息をつき、「邪魔じゃないわ」とだけ短く言い、なるべく品位を保ちながらすり抜ける。


背後では、くすくすと笑いの続きが聞こえてくる。

その笑い声は図書館の空気に不釣り合いなほど刺々しかった。


だが、空気が一変したのはその直後。

エディス・マウントバッテン=カエルウィスクが、しんとした気配を纏って姿を現す。

彼女の歩みはあくまで優雅で、一瞬で周囲に意識を向けさせるほどの存在感があった。

先ほどの貴族娘たちも、エディスを見て身を正す。


「エディス、見た? あの子、あなたのクラスメイトなんでしょ? どう思う?」

娘の一人が、まるで面白がるように問う。


エディスは遠目にベルを見据える。

今はちょうど棚に集中しているようだ。

「ここは図書館ですわ。騒ぎなど起こさぬようにお願いしたいものですわね。」

彼女は柔らかな声でそう言うが、その言葉には反論を許さない力があった。

娘たちは一瞬で笑いを引っ込めたものの、そのうちの一人が小さく口を開く。


「でも、あのセインツ・スカラーってわりに見かけ倒しよね?」

鋭い舌を潜ませながら続けるが、エディスはそれに笑みとも言えないわずかな口角の動きで応じ、足早にベルへと近づく。

その所作には無駄がなく、あらゆる視線が彼女へ集まっていく。


「ベルさん。」

控えめな声が静けさを断つ。


ベルは振り返る。

表情は平静だが、腕に抱えた本をぎゅっと握る指先が白くなっているのがわかる。

「エディス様。」と落ち着いた声で返す。


エディスはベルのテーブルに置かれた参考書類を軽く一瞥し、それからベルの顔を見て微笑む。

「朝早くから、たいへん熱心ですわね。素晴らしいご様子。でも、こんなに貴族だらけの場所で……居心地はよろしいのかしら?」


ベルはわずかに表情を曇らせるが、「勉強に集中しているので、居心地など気にしていません。」と返す。

その声にはかすかな緊張がにじんでいる。


エディスは首をかしげ、その口元の笑みをわずかに深める。

「まあ、賢いお考えですこと。けれど、そのようなお立場で人の目を集めるのは不可避ですわ。称号を持つというのは、良い注目ばかりとは限りませんもの。」


「わたしは注目されるために、この称号を受けたわけではありません。

背負うべき責務があるからこそ、いただいたんです。」

ベルは声を落ち着かせ、きっぱりと答える。


「責務、ですのね……。ご立派なお考えですわ。

でも一つ忠告して差し上げます。『根なし』と見られる以上は、あまり目立たない方がよろしいのではなくて?」

エディスの声は柔らかいが、その裏にある鋭さはベルにもはっきり伝わる。


ベルは胸の奥で鼓動が強くなるのを感じながらも、視線を逸らさない。

「責務のためなら、目立つこともいといません。」


一瞬だけ、エディスは微笑みを止める。

周囲の貴族たちは、息を詰めたように二人のやりとりを見守っていた。

やがてエディスはわずかに距離を取り、目を細める。

「“力”というのは、与えられるものではありませんのよ。

自ら掴み取り、保持する力がなければ、あっという間に失うものですわ。

セインツ・スカラーの称号を持とうと、まだそれを守る強さが足りませんわね。

……つまり、自分の立ち位置をもう少しわきまえた方が身のためですわ。」


そう言い残してくるりと体をひるがえし、彼女の取り巻きもついていく。

そのうちの一人が、すれ違いざまにベルの積んでいた本を肘で軽くはね、床へ派手な音を立てて落とした。

図書館のあちこちから視線が集まり、彼女らは小さく笑いながら去っていく。


床に散らばった本を拾い上げるベル。

その最後の一冊は表紙が古びており、金文字で『橋梁の基礎と社会的影響』とあった。

橋――人々を繋ぐ存在。

だが、土台の強さがなければ崩れ去る。

期待も責務も、それを支える力がなければ潰れてしまう――その思いが頭をかすめる。


本を抱え直し、テーブルへ戻る彼女の足取りには、わずかな緊張とそれを押し返す強い意志が混在していた。


遠目でそれを見つめるエディスは椅子に腰掛け、冷静な視線を送り続ける。

まるで、先ほどのやりとりへのベルの反応を余さず観察しているかのようだ。

取り巻きの一人が何事か囁き、エディスが軽く微笑むが、その目は依然としてベルへと注がれている。

“力”は自分から掴むもの――その言葉が、ベルの胸に重く響く。


再び席に戻ったベルは、自分の書いたノートを見下ろす。

ほんの僅かに手が震え、孤独と重圧が肩にのしかかってくる。

それでも、灌漑システムや都市設計、技術革新についてまとめた言葉を追ううちに、わずかな決意の光がよみがえる。


そこへまた、新たな足音がそっと近づいてきた。

「あ、あの……ベルさん?」


顔を上げると、少し気弱そうな男子生徒が立っている。

制服の色合いからすると二年生だろうか。

腕に抱えた本の背表紙には農業や経済などの文字が見え、勉強熱心であることが伺える。

ただ、その様子には少なからぬ緊張が漂っていた。


「はい?」

ベルは静かに返事をする。


少年は周囲をちらりと見回し、意を決したように口を開いた。

「その……いつも見てて思うんです。

あなたのしていることって、すごく勇気がいる。

普通は、ああはできないって……。」


ベルは意外そうに瞬きをし、「ありがとう」とだけ小さく微笑む。

その声には、少しだけ優しい響きが宿っている。


少年は本を握り直し、深呼吸するようにして続けた。

「実は……放課後に“勉強会”をやってるんです。

貴族じゃない生徒が集まって、色々と意見交換するだけの小さな集まりで……。

それでも、皆が少しでも良くなる方法を考えたいって。」


ベルはわずかに眉を寄せる。

「勉強会、ですか……。」


少年はこくこくとうなずき、「公式なものでもなんでもなくて、ただの助け合いです。

無理に発言しなくてもいいし、聞いてるだけでも構わない。

もし興味があれば……。」と話を続ける。

その熱心さは、控えめな人柄ながらも真摯さを感じさせる。


ベルは彼をしばし見つめ、「教えてくれてありがとう。検討してみるわ。」とやわらかく答えた。


少年はほっとしたように表情を緩め、「東側の生徒会棟の一室でやってます。

もしよかったら……。

場所はちょっとわかりにくいけど、部屋を見つけさえすればすぐわかるかと……。」

と告げ、軽く会釈すると去っていった。

足取りはまだ少しぎこちないが、確かな目的意識を感じる。


ベルはまたノートへ目を落とす。

自分の努力がわずかでも伝わっている――それを思うと、わずかながら孤独が和らぐような気がした。

同時に、革新的アイデアを進める道がまだ残されていることを感じ、もう一度深く息をつくのだった。

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