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没落女伯爵の婚活事情

作者: ポメロ

20世紀前半の没落貴族ぽいお話

 エルドリッチ城の石壁に冷たい風が吹き抜け、古い扉や窓が軋む音がまるで幽霊のささやきのように響く。

 電灯の頼りない光がかすかに揺らめき、薄暗い部屋の隅々に影を落とし、消えていく。

 家政婦長室の小さな部屋で、マーガレット・ロズモア女伯爵は古びたカップを手に取り、琥珀色の瞳を伏せた。


 肩にかかるウェーブがかった薄茶の髪が、繊細なシルクのドレスに流れ落ちている。

 その姿は、遠目にはたおやかな貴婦人そのもの。

 しかし、年季の入った古びたドレスのおかげで、亡霊と見間違われても、不思議ではない。


 かつてこの城には使用人たちがせわしなく行き交い、幼いマーガレットは毎日を不自由なく過ごしていた。

 それが今では、不況が直撃し、事業の失敗に高騰する人件費。

 いまや一人で暮らすのが精一杯だ。

 広々とした寝室から引っ越し、今住んでいるのは階下の家政婦長室。

 女伯爵の住まいにそぐわないが、キッチンの隣という便利さには代えられない。


 薄く冷めた紅茶をすすりながら、マーガレットはふっと微笑んだ。


「でも、こんな生活とは、もうすぐおさらばよ!」


 机の上には、社交界デビューの案内状が輝いている。

 晴れの舞台でレディとして“デビュー”すれば、裕福な殿方をゲットして財政を立て直すのも夢じゃない。

 厳格で冷徹だった父も今はおらず、時代は変わりつつある。

 だからこそ、自分の人生は、自分で何とかしないといけない時代なのだ。


 もっとも、その婚活の選択肢には初恋を諦める、という心苦しい付け合わせがついてくる。

 未来への希望と切なさの入り混じる思いに浸っていると──


「マーガレット、ちょっといいか?」


 静寂を破る聞き慣れた声に、マーガレットは平静を装い、カップを置いて振り返った。

 そこには幼馴染のウィリアムが立っている。

 夕暮れに照らされた金色の髪にサファイアのような青い瞳。

 見た目はまさに“王子様”風だが、マーガレットの本物の王子様には決してなってくれない残酷な相手でもある。


 マーガレットはわざとらしくため息をつき、少し皮肉を込めて言った。


「まぁ、ロズモア領の救世主、有能会計士のウィリアム様じゃありませんか」


 ウィリアムは軽く笑って彼女の横に立ち、真面目な顔をして小声で告げた。


「隣のグレイホルム家が破産したって記事、読んだか?」

「えっ、何ですって?」


 新聞など取らなくなって久しい彼女には、まさに青天の霹靂だった。

 ウィリアムの提案で、二人は急ぎグレイホルム家へと向かうことになった。


 貴族が次々と没落していく現実が、自分にも訪れるかもしれない不安を呼び起こす。それでも、長い付き合いのあったグレイホルム家の無念を思うと心が痛んだ。


      -------✂--------✂--------✂---------


 グレイホルム邸の庭先には、家具や調度品が所狭しと並べられ、見物人たちが値札を見つめながら品定めしている。

 華やかだったグレイホルム家の応接室も、今では無機質な値札が並ぶのみ。


「マーガレット……来てくれたのね」


 振り返ると、目を赤くしたグレイホルム夫妻が肩を寄せ合いながら立っていた。

 マーガレットは二人のもとに駆け寄り、悲しげな表情を浮かべる夫妻をしっかりと抱きしめた。

 お互いのぬくもりが、かつての社交界で過ごした栄光の日々をかすかに蘇らせるようだった。


「どうか気を落とさずに……」


 マーガレットはしっかりと夫妻に語りかけ、ふと目をやった先には美しい黒檀の置時計が綺麗に磨かれて光っている。


「それはね、娘の誕生を祝って、使用人たちが心を込めて贈ってくれたものなの」


グレイホルム夫人が涙ながらに語った。


「何があっても、この時計だけは手放したくなかった。でも、今となっては……」


 年月を経た黒檀の木枠は、精巧な彫刻が施され、所々に傷があるものの温かみを感じさせる存在感があった。


 マーガレットはそっと時計に手を触れた。


「心配しないで。これは私が預かります。いずれ、あなた方が取り戻せる時が来るわ」


 彼女はすぐに入札を済ませ、時計はマーガレットの手に渡った。夫妻の顔に安堵の色が浮かび、マーガレットもほっと胸をなでおろした。


 帰り道、マーガレットは時計を膝に抱え、窓の外をぼんやり眺めた。

 グレイホルム家の今後を案じながらも、同じ運命を辿るかもしれない不安がふと胸をよぎる。


「また、貴族がひとつ……消えてしまったわ。うちも、そうなるのかしら」


 ハンドルを握るウィリアムはためらうことなく答える。


「大丈夫だよ、マーガレット。堅実な経営さえしていれば、生き残れるさ。それに……俺もいるし」


 ウィリアムの冗談めかした励ましに、マーガレットはわずかに頬を染め、時計を抱え直した。

 彼の温かい支えがなければ、ロズモア伯爵家はとうに破産していただろう。

 ウィリアムの優しさが愛おしい半面、ずっと頼りっぱなしでいる現状がどうにも心苦しい。


(……これ以上、あなたに負担をかけたくないわ)


 心の中で呟きながら、運転中のウィリアムの横顔を眺める。


 ウィリアムに支払える顧問料は微々たるもので、彼が今も助けてくれるのは、マーガレットの叔母リディアが奨学援助をしてくれた恩返しでしかない。


 父の急逝で未成年のまま伯爵位を継いだとき、途方にくれるマーガレットが遺産相続や領地の管理ができたのも彼のおかげ。

 ウィリアムはすでに十分な恩返しを果たしてくれた。

 彼をロズモア伯爵家というお荷物に縛りつけておく理由などもうないのだ……。


 マーガレットは心の中で決めていた。

 社交界で裕福な相手を見つけ、領地を立て直し、ウィリアムを解放するのだ。


 これ以上、ウィリアムへの恋心が膨らんでしまう前に──。



      -------✂--------✂--------✂---------



 社交シーズンが始まる毎年五月、デビュタントたちが王族の謁見に望む。

 マーガレットにとっても待ちに待った大舞台だ。


 周囲には、同じくデビューを果たす若い令嬢たちが白いドレスと羽飾りを身にまとい、背後に長いベールを引きながら、宮殿の入口で静かに名前が呼ばれるのを待っている。

 マーガレットもまた、純白の手袋をはめ、小さな白いブーケをそっと握りしめていた。

 豪華なシャンデリアの輝きが宮殿の大広間を照らし、彼女は他の令嬢たちと一列に並び、息を詰めて自分の名前が呼ばれるのを待っていた。


「午前中は混むわね……でも、女王陛下に謁見できるのは午前中だけだから人気なの。午後からは王太子夫妻の御前となるから」


 隣で語りかけるのは、後見人として付き添い役を務める父の従妹、ベイリー伯爵夫人。

 デビュタントを引き立てる控えめながらも美しい装いで、輝くダイヤモンドのティアラを纏っていた。

 既婚者に許されるティアラの華やかさにマーガレットの視線は釘付けになる。


「マーガレット、私がしてあげられるのは社交界デビューの後見だけ……。夫が植民地の提督職に就くことになって、来月には向かうのよ。領地や屋敷も手放すことにしてね……」


 伯爵夫人の声には、わずかに諦めがにじんでいた。

 貴族社会の現実がどんどんと変わっていく様子にマーガレットも胸が締め付けられるようだった。



 そしてついに、女王陛下の御前に片膝をつき、静かにお辞儀をする瞬間が訪れた。

 たった数十秒間だが、マーガレットは全神経を注いでレディとしての品位を示し、謁見の間で大人の女性としての一歩を踏み込んだのだ。


 その夜、社交界デビューを祝う晩餐会であるデビュタント・ボールが開かれた。

 会場には、上流階級の令嬢や、その家柄を称えるために集う人々が満ちあふれ、このボールはデビュタントたちの初の正式な社交場であり、彼女たちの未来が決まるかもしれない重要な場所だった。

 古き時代の慣習と、新しい時代への希望が交錯する中、社交界は未だに若い令嬢たちにとって『将来を決める場所』だった。


 マーガレットは華やかなドレスに身を包み、シャンパンのグラスを手にしながら、友人たちが次々と裕福な年上の紳士たちに紹介されていく様子を見つめていた。

 値踏みするような視線が自分にも向けられ、市場に出された仔牛のような気分になりながらも、背筋を伸ばし毅然とその場に立ち続ける。

 ここで裕福な結婚相手を見つけなければ──その思いがじわじわと心を焦がしていた。


「ロズモア女伯爵でいらっしゃいますね?」


 ふと背後から、落ち着いた声が投げかけられた。

 振り返ると、そこには控えめな微笑みを浮かべた一人の紳士が立っていた。

 誰よりも背が高く、戦争で負ったと思われる一筋の傷が頬に刻まれ、深い青い瞳にはどこか物憂げな光が宿っている。


「お会いできて光栄です、ヴィルヘルム・フォン・バッテンバーグです」


 彼は丁寧に名乗り、礼儀正しく会釈をした。


「はじめまして、バッテンバーグさま」


 マーガレットも深く礼を返しながらも、彼の格式高い優雅さに、胸がときめいてしまう。

 バッテンバーグはマーガレットを眩しそうに目を細めて見つめ、低く響く声で問いかけた。


「踊っていただけますか?」


 その手が差し出され、マーガレットはシャンパンのグラスをそっと置き、彼の手を取った。

 ゆったりとしたリズムで二人が踊り始めると、まるで周りの喧騒が遠ざかっていくかのように、マーガレットは心地よい夢の中にいる気がした。


 彼のまっすぐな視線にはいやらしさもなく、デビューしたての雛鳥を温かく見守っているかのようだ。

 しっかりとした手でリードされながら、マーガレットはただそのリズムに身を任せた。


 曲が終わると、彼は軽く会釈し、「では、また後ほど」と柔らかな声で告げ、会場の奥へと姿を消した。

 マーガレットは彼の背中を見送りながら、魔法にかけられた心地になっていた。


 晩餐会が終わった後、マーガレットはベイリー伯爵夫人に尋ねずにはいられなかった。


「ベイリー従叔母(おば)様、バッテンバーグって方をご存じ? 踊りに誘っていただいたのよ」


 伯爵夫人はその名を聞くと少し驚き、ゆっくりした声で語り始めた。


「ええ、バッテンバーグ侯爵のことはよく知っているわ。……リディアに夢中だったのよ」


「リディア叔母様…?」


「エステリア公国のご子孫で、彼のお父様が女王陛下の末娘に見染められて、婿として我が国に招かれたの。ヴィルヘルムは次男だから爵位は無縁だったのだけど、長男が戦死されて継ぐことになって......リディアも彼の求婚に頷いていれば侯爵夫人だったのに……」


 勿体ないというようにベイリー伯爵夫人は言葉を濁した。


 未婚のまま亡くなった叔母にそんなロマンスがあったとは……。

 眩しそうにマーガレットを見つめたバッテンバーグ侯爵は、叔母を懐かしんでいたのだとマーガレットは納得した。

 親子ほど年は離れているけれど、紳士で富豪なバッテンバーグ侯爵は、没落貴族のマーガレットにとって理想的な結婚相手だ。

 マーガレットの期待は膨らんでいった。


 数日後、マーガレットの元にバッテンバーグ侯爵から一通の手紙が届いた。


「ロズモア女伯爵、もしご都合がよろしければ、静かな場でお話できればと思います。貴女のご負担にならぬことを願いつつ、お返事をお待ちしております」


 控えめで温かな文体に、マーガレットの胸は高鳴り、すぐに了承の返事を出したのだった。


      -------✂--------✂--------✂---------


 数日後、バッテンバーグ侯爵からの招待を受けたマーガレットは、王室御用達の名門ホテル、クレドのレストランへと足を踏み入れた。

 シャンデリアの豪華な輝きとほのかな花の香り、そしてクラシック音楽の優雅な旋律が流れるその空間に足を踏み入れた瞬間、胸の奥で高鳴る期待を抑えきれず、彼女は少し頬を紅潮させながら周囲に見とれた。


 バッテンバーグ侯爵の邸宅ではなく、こうした公の場を選ぶという配慮に、マーガレットは少しだけ気が楽になった。

 貴族が次々と没落していくこの時代に、こうした華やかな場は彼女にとって久しぶりの贅沢だ。

 思わず隅々まで目を配り、贅を尽くした内装に心が躍る。


「このような場所は初めてです」


 控えめに告げるマーガレットに、バッテンバーグ侯爵は穏やかな微笑みを浮かべ、彼女の喜びを暖かく受け止めているかのようにうなずいた。


 最初に運ばれてきたのは、銀の器に盛られた新鮮なオイスター。

 クリーミーなソースが添えられており、ひと口頬張ると、海の香りと濃厚な風味が口の中に広がった。

 マーガレットはその豊かな味わいに、思わず顔を綻ばせる。続いて供されたのは、ふんわりと焼かれた鴨肉のパテ。

 程よい酸味のピクルスとともに味わうと、芳醇な肉の香りが舌に染みわたり、今までの食事とは別格のものであると感じられた。


 メインディッシュとして運ばれたのは、柔らかく煮込まれた仔牛のフィレ・ミニョン。

 美しいソースが流れるように飾られ、付け合わせのアスパラガスが優雅な彩りを添えている。

 ナイフを入れると簡単に切れる柔らかさで、ひと口頬張ると、口の中で肉がとろけるように消えていく。

 マーガレットはこの上ない洗練された味わいに感動を覚え、贅沢なひとときを心ゆくまで満喫した。


 食後には、熟れたベリーが美しく飾られたフルーツタルトが登場し、その繊細な風味に彼女は思わずうっとりとした表情を浮かべた。


 彼がこのひとときを自分のために設けてくれたのだと思うと、彼女の中には、ウィリアムへのほろ苦い恋心とは異なる、ときめきが静かに芽生え始めるのを感じた。

 もし彼が自分に好意を抱いているのなら、ロズモア家に再び安定をもたらし、彼女の未来も一変するかもしれない──そんな期待が、淡く胸を焦がした。


 ふと視線を向けると、侯爵が彼女にワインを注ぎながら微笑んでいる。

 その余裕ある仕草に、思わずドキリとした。


「時代は変わりましたね。昔は、こんなふうに未婚の女性を招いて過ごすことすら許されなかったものですが……」


 侯爵の言葉には、どこか過ぎ去った日々を懐かしむような響きがあった。

 マーガレットは胸が少しぎゅっと締めつけられるように感じる。

 この余韻が物語るのは、やはりリディア叔母様への想いなのか……少しずつ膨らんでいた淡い期待が、冷や水を浴びせられたように急速に萎んでいく。


「バッテンバーグ侯爵と叔母は、懇意だったのですね?」


 彼女は心が揺さぶられるのを感じながら、静かに問いかけた。

 侯爵は深い哀愁を込めた目で静かにうなずいた。


「彼女が亡くなったと聞いたとき…私の人生から大切なものが一つ消え去ったように感じました」


 バッテンバーグ侯爵は視線を落とし、グラスの中のワインを軽く揺らした。

 マーガレットはその言葉を聞きながら、複雑な思いを胸に抱えた。

 バッテンバーグ侯爵がリディア叔母に対して抱いていた特別な感情は深く、今も彼の中に生き続けているのだと気づかされる。

 マーガレットの淡い期待は少しずつ霧散し、胸にはちくりとした寂しさが残る。


「一度、リディアの眠る地を訪ねてよろしいでしょうか。ロズモア女伯爵の許可をいただきたい」

「もちろんです。叔母も喜ぶでしょう」


 バッテンバーグ侯爵の切実な頼みに、マーガレットは心から敬意を込めてうなずいた。



 マーガレットの婚活はふりだしに戻ってしまったが、ヴィルヘルムの一途な愛に触れたことで、誠実な愛情に対する憧れが、胸を満たしていた。


      -------✂--------✂--------✂---------


 数日後、マーガレットはヴィルヘルムをロズモア領の片隅にある、リディアの墓へと案内した。

 墓石は領地を見渡すように佇み、その周りには風のささやきと穏やかな静寂が広がっている。


 ヴィルヘルムは墓の前で膝をつき、持参した花束を優しく置いた。

 目を伏せる彼の顔には、長い年月をかけて大切にしてきた想いがにじみ出ているようで、マーガレットの心はそっと揺さぶられる。


 そこへ後方から足音が近づき、声がかけられた。


「マーガレット、ここにいたんだな」


 振り返ると、少し驚いた表情でウィリアムが立っていた。

 彼はマーガレットとヴィルヘルムを交互に見つめ、その表情が微かに強張った。


「バッテンバーグ侯爵。こちら、会計士のウィリアムです」


 マーガレットが慎重に言葉を選びながら紹介すると、ウィリアムは一礼し、ややぎこちない態度で侯爵に向き合った。


「はじめまして、ウィリアム・スミスと申します」


 侯爵はゆっくりとウィリアムに視線を向け、名前を確かめるようにゆっくりと呟いた。


「ウィリアム……?」


 侯爵は振り返りリディアの墓を見つめて、立ち尽くす。

 墓前での沈黙が続き、気まずさを感じたマーガレットは、場の空気を和ませようと侯爵に微笑みかける。


「バッテンバーグ侯爵、よろしければお茶でも召し上がりませんか? リディア叔母様が好きだった焼き菓子も用意してます。ぜひお楽しみいただければ。ウィリアムもどう?」


 エルドリッチ城に戻ると、三人はマーガレットが用意した銀のティーセットを囲んだ。

 ティータイムのテーブルには、彼女が心を込めて焼いたレモンドリズルケーキが置かれ、切り分けたケーキから立ち上るさわやかなレモンの香りが部屋いっぱいに広がり、ほのかな甘酸っぱさが包み込む。

 バッテンバーグ侯爵はケーキを一口食べ、目を細めた。


「懐かしい味がする……」

「叔母のレシピをもとに作りました」


 その言葉に、侯爵はケーキを見つめ、感慨深げな表情を浮かべていた。


 リディアは貴族の令嬢として厳しく育てられ、普段は家事に携わることは許されていなかった。

 しかし、慈善活動の際だけは特別に焼き菓子を作ることが許されていたのだ。

 マーガレットは幼いころ、叔母の手伝いをしながら菓子作りの基礎を学んだ。

 今では、その経験が彼女の一人暮らしを支えている。


 静寂の中、ウィリアムはぎこちない手つきでカップを手にし、マーガレットが侯爵に微笑みかけるたびに、その顔にわずかな緊張が走るのが見て取れた。


「領地の学校にも差し入れに持って行ったんですよ。ウィリアム、あなたも食べたよね?」

「……ええ、子供たちはいつも楽しみにしていました」


 ウィリアムに話題を振るが、彼の返事には、どこか上の空な様子が漂う。

 微妙な沈黙が訪れた後、侯爵はカップを置き、ウィリアムに柔らかな口調で尋ねた。


「会計士として働いているそうだが、王都のどの事務所に?」

「サイモンズ会計事務所です」


 ウィリアムが答えると、侯爵はわずかに眉を上げ、感心したように頷いた。


「なるほど、伝統ある事務所じゃないか。どんなに優秀でも、簡単には入所できないと聞いているが……」

「リディア様が推薦状を書いてくださったおかげです。もし彼女がいなければ、今の職に就けなかったでしょう」


 ウィリアムがぎこちなく言葉を継ぐと、侯爵は納得したように深く頷いた。

 侯爵とウィリアムの間には、言葉に表せない静かな緊張が漂っていた。マーガレットはその空気に微かな嵐の予感を感じながら、二人のやり取りをただ見守った。


      -------✂--------✂--------✂---------


 バッテンバーグ侯爵が帰り、エルドリッチ城に静寂が戻ると、まるで雷が落ちる前のような緊張感が漂っていた。

 マーガレットはじっと黙っていたが、ウィリアムの視線をひしひしと感じる。

 彼の目には、隠しきれない苛立ちが見え隠れしていた。


「社交界デビューしたばかりで、二回りも年上の男性を連れてくるなんて、一体どういうつもりなんだ?」


 ウィリアムの低く鋭い声が、冷たい刃のようにマーガレットの心を刺した。


「違うの……!」


 言い返そうとしたが、言葉が喉に詰まり、思わず目をそらしてしまう。

 確かにほんの数日前までは確かに婚活相手としてバッテンバーグ侯爵を見ていたが、リディア叔母を今でも愛していると知り、そっと身を引いた。それだけのはずなのに。


「バッテンバーグ侯爵は、ただリディア叔母様のお墓に花を供えたかっただけなのよ。彼にとって、叔母様は今でもかけがえのない存在なんだから……」


 精一杯反論するマーガレットだがウィリアムはため息をつき、冷たい目で見つめ返した。


「はあ? それはただの口実だろう。リディア様を好きだった男が、彼女にそっくりな君に興味を持ってないとでも思うのか?」


 彼の無遠慮な言葉にマーガレットは悔しさで胸が締めつけられる。

 バッテンバーグ侯爵の一途な愛を知らないから、こんなひどい言葉が言えるのだ。

 ウィリアムが心配してくれるのは嬉しいが、辛辣な物言いに怒りが込み上げる。


「もし、そうだとしても何が悪いのよ?バッテンバーグ侯爵は大富豪よ。ロズモア領を守る力があるわ。私はロズモア家を守るために、最善の選択をしているだけなのよ」


 言葉を吐き出しながら、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

 自分のためにどれほどウィリアムが支えてくれているかは知っている。

 それでも、これ以上頼るべきではないと思ったのだ。

 だから、社交界デビューをして富豪を捕まえるために婚活している。

 彼の未来を縛る一因に自分はなりたくないから──それが彼女の決意だった。

 だが、ウィリアムはまるでその選択が軽率で愚かな行為であるかのように受け取っているようだ。


 ウィリアムは視線をそらし、苦い顔で言葉を絞り出した。


「俺はずっと、君がそんな“身売り”みたいな真似をしないよう、領地を健全に経営するために努力してきたんだ。君が心から好きな人と結ばれるために」


 マーガレットの心にチクリとした痛みが走った。

 彼に本当の気持ちを伝えたくて堪らない。

 心から好きな人はあなたよ!と叫びたい気持ちがこみ上げるが、彼女はぐっと言葉を飲み込んだ。

 やっと口に出た言葉は、冷たく響いてしまう。


「あなたには関係ないわ! 口うるさい兄みたいに、私に指図しないで」


自分でも意図しない冷たい響きが、ウィリアムに突き刺さるのを感じた。


「もう、叔母様の恩を私で返そうとするのはやめて!」


 感情が高ぶり、声が震える。

 ウィリアムがどれだけ尽くしてくれたかは、痛いほどわかっている。

 だけど彼の支えが自分のせいで犠牲を伴っていると思うと、胸が締めつけられる。彼の未来を縛る一因にはなりたくなかった。

 ウィリアムが側にいることで、マーガレットの恋心がどんなに膨れるのか、ウィリアムは知る由もないのだ。


 マーガレットの拒絶の言葉に、ウィリアムは静かに息をのんだ。

 彼の顔がわずかに歪んだ。何かを言いかけたが、結局、唇を閉ざして黙ってしまった。

 そして無言のまま、背を向けてエルドリッチ城を後にする。


 マーガレットはその背中が遠ざかっていくのをただ見送ることしかできなかった。

 胸に押し寄せる想いをかみしめ、唇を噛みながら、彼の背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


      -------✂--------✂--------✂---------


 王都の会計事務所に戻ったウィリアムの心には、怒りと後悔が渦巻いていた。

 マーガレットを思うあまり、あんなふうに感情的になってしまったことが悔やまれてならない。

 彼女を守りたいとずっと願ってきたのに、結局、傷つけることしかできていない。


 事務所に入ると、同僚たちの雑談が嫌でも耳に入ってきた。


「新大陸の成金が、貴族の若いお嬢さんと婚約だってさ!」

「時代も変わったもんだね。今じゃ貴族令嬢も“富豪の餌食”か……」


 軽口の一つ一つが耳に刺さり、ウィリアムは無視しようとしたが、思わず新聞に視線が引き寄せられる。

 そこには大きな見出しが目に飛び込んできた。


「成金富豪と没落貴族令嬢の結婚!」


 ウィリアムの目は新聞の写真に釘付けになった。

 憔悴した表情を浮かべた若い女性が、頭が禿げかけた成金の腕に手を添えている写真まで載っている。

 もし、こんなふうにマーガレットが困窮の果てにバッテンバーグ侯爵と結婚を決めたとしたら……その考えが頭を離れず、暗い気分に沈んでいく。


「なぁウィリアム、“ロズモアのレディ”の婚活はうまくいってるか?」

「はは、あんたのお嬢様もいよいよ結婚市場に登場か!」


 同僚たちの容赦ないからかいが聞こえてきて、ウィリアムは眉間にしわを寄せながら席につき、新聞を乱暴にたたんだ。

 彼女の未来を思うと、耐えがたい憂鬱さと焦りが胸を支配してくる。


 ふと頭をよぎるのは、幼い頃の記憶だった。ウィリアムは領地の片隅にある農家で育ち、両親は貧しいながらも一生懸命に彼を育ててくれた。

 実の親ではないことには早くから気づいていた。

 身寄りを探そうとする気持ちは湧かなかったが、なぜ実の親に捨てられたのか、その疑問が時折、心にぽっかりと穴を空けるようだった。


 そんな彼の幼少期に救いを与えてくれたのが、ロズモア伯爵令嬢、リディアだった。

 学校を視察に訪れた彼女は、学業で努力するウィリアムを認め、温かく微笑んでくれた。

 リディアが自分を誇りに思ってくれている、それがどれほど大きな励みになったことか。


 やがて時代は、貴族にとっての冬の時代へと傾き始めた。

 不況と新大陸の台頭が貴族社会にも影を落とし、ロズモア伯爵家も経済的に苦しい時期を迎えた。

 しかしそんな中でもリディアはウィリアムの学業を支援し、推薦状まで書いて会計事務所で簿記係として働く道を開いてくれた。

 経験を積みながら勉強を続け、ウィリアムは会計士の認定試験に合格できたのだった。


 だがその矢先、リディアが病に倒れ、ほどなくして領主である伯爵も亡くなった。

 後を継いだのは、リディアに生き写しのような容姿を持つマーガレットだった。

 まだ若い彼女が抱える重責を思うと、ウィリアムは手助けを申し出ずにはいられなかった。


 マーガレットは、家名と領地を支えようと懸命に努めていた。

 その小さな肩にかかる重責を知る彼女の姿は、次第にウィリアムの中で特別な存在となり、いつしかウィリアムはマーガレットを守りたいという強い想いを抱くようになっていたのだ。


 それは単なる領主と使用人の関係を超えた感情だった。

 マーガレットに妥協で結婚を決めてほしくない、彼女の笑顔を奪う未来だけは見たくない──そんな願いが、ウィリアムの中に刻まれていた。

 だが、そんな理想が叶うほど現実は甘くないは、ウィリアム自身も痛いほどわかっていた。


 その日、ウィリアムのデスクに訪問者が現れた。

 堂々とした佇まいにウィリアムの心臓は跳ね上がる。

 鋭い眼差しで彼を見つめるバッテンバーグ侯爵がウィリアムに近づいてきた。


      -------✂--------✂--------✂---------


 バッテンバーグ侯爵の低く落ち着いた声が、張り詰めた弦のようにウィリアムの胸の奥で響き渡る。


「ウィリアム、少々お時間をいただけませんか?」


 突然の訪問に、一瞬言葉を失ったウィリアムだったが、招かれた理由を問う間もなく、応接室へと侯爵を案内することにした。

 侯爵はゆっくりと腰を下ろし、ウィリアムをじっと見据える。

 その視線には揺るぎない決意が感じられ、ウィリアムも自然と背筋を伸ばさずにはいられなかった。


 重厚な皮のファイルが侯爵の手によって机上に置かれ、開かれたページには整然とした会計資料が並ぶ。侯爵は冷静な口調で切り出した。


「こちらが、私の財産の会計報告です。精密な管理をあなたにお願いしたいと思っています」


 その言葉は丁重であったが、財産の規模は尋常ではなかった。

 膨大な資産と投資記録が並ぶ豪奢な内容に、ウィリアムは圧倒されるばかりで、冷静さを保とうと努めながらも侯爵の視線を避けるようにページをめくった。


「お引き受けいただければと思います。もちろん、正式な契約書も用意しておりますが……」


 侯爵は穏やかな口調で続けたが、その声の奥には何か別の意図が潜んでいるようにも感じられた。

 ウィリアムもそれを察しつつ、言葉を選びかねていた。

 侯爵は間を置き、さらに踏み込むように言葉を重ねた。


「実はもう一つ、個人的なお願いがありまして……ある重要な確認のために、同行していただきたい場所があるのです」


 ウィリアムはさらなる戸惑いを覚えたが、侯爵の真剣な眼差しが言葉以上の意図を伝えていた。

 断る理由も見つからず、彼の申し出を受けることを決意したのだった。



      -------✂--------✂--------✂---------


 ウィリアムが連れてこられたのは、山々に囲まれた、ひっそりと佇む異国の小さな病院だった。

 真っ白な建物が深い緑に囲まれ、遠くには雪を抱く山々が見える。

 澄んだ冷たい空気が肌を刺し、彼の胸の中には何とも言えないざわめきが広がっていた。

 バッテンバーグ侯爵は一言も発さずにウィリアムを応接室へと導いた。


 部屋に入ると、院長が古いカルテの束を差し出し、その一枚を開くと、何枚かの写真が挟まれているのが目に入る。

 ウィリアムが手に取ると、そこには赤子を愛おしげに抱きしめるリディアの姿があり、彼は思わず息を呑んだ。


「……リディア様?」

「彼女が抱いている赤子が、誰か分かるかね?」


 侯爵は静かにうなずき、問いかけた。

 その一言に、ウィリアムは戸惑いと驚きを隠せない。

 どうやら侯爵の視線は、自分が想像している通りの答えを求めているらしいが、あまりにも衝撃的で現実として受け入れるには衝撃的だ。


 病院を出た後、侯爵は近くのカフェにウィリアムを誘った。

 冷えた空気に温かな紅茶の香りが満ち、ウィリアムの心も徐々に落ち着きを取り戻していく。

 彼が少し冷静になったのを見て、侯爵は静かに口を開いた。


「ウィリアム、君の育ての親について少し話してくれるか?」


 唐突に問われ、ウィリアムは少し驚きながらもゆっくりと話し始めた。


「私を育ててくれたのは、ロズモア領内の農民の夫婦です。貧しいながらも、本当に愛情深く私を育ててくれました。ただ……実の親ではないことは、子供心にも感じていました。けれど、それを深く詮索する気にはなれず、自分の生い立ちについて詳しく知ることもなく、今まで来てしまいました」


 ウィリアムの脳裏に、幼い頃の記憶がよみがえり、心の片隅に残っていた小さな違和感が、弾けだす。


「母が育てた薔薇はとても美しかったんです。毎年、領内の品評会でいつも優勝していました。特に見事な薔薇が咲くと、母の代わりに私はその花をエルドリッチ城のリディア様のもとへ届けに行くように言われて……」


 花束を作る母の背中は、微かに切なさが漂っていた。

 幼い自分が薔薇の花束を抱えてエルドリッチ城へと向かう姿を、じっと見送っていた母の面影が浮かぶ。


「もしかすると……あの薔薇は、ただの贈り物ではなかったのかもしれませんね」


 ウィリアムの声が震えを帯びたのを察したのか、侯爵は静かにうなずいた。


「そうだな。リディアは、信頼できる領民に君を託すことで、ずっと見守っていたんだろう」


 侯爵の言葉が静かにウィリアムの胸に響いた。


「“ヴィルヘルム・フォン・バッテンバーグ”……これが私の名だ。ヴィルヘルムはエステリア公国風の名で、こちら風に直すと“ウィリアム”となる」


「つまり…バッテンバーグ侯爵は、リディア様と深い関係が…?」


 ウィリアムの問いに、侯爵は一瞬目を伏せ、遠い記憶を呼び起こすようにしばし沈黙した。

 その瞳には、過去の面影が浮かんでは消えている。

 やがて、彼は慎重に言葉を選ぶように話し始めた。


「私は次男で、爵位を継ぐ予定がなかった。リディアの兄であるロズモア伯爵は、そんな立場の私を決して認めなかった。リディアとは駆け落ちも考えたが、戦地に行かねばならなくなり、結局、離れ離れになってしまった」


 侯爵は微かに苦笑を浮かべた。


「そして…兄が戦死し、戦争も終わり、私は突然爵位を継ぐことになった。地位を手に入れた今なら、ふたり一緒に歩めるかもしれない。そう思い、再びリディアに求婚したんだ」


 侯爵の声は少し震えていた。

 あの時のリディアの表情、痛ましい記憶を思い出しているかのようだ。


「ようやく、彼女の兄である伯爵も賛成してくれることになった…だが、彼女は私にこう言ったのだ──『領地を離れることはできない』と。それどころか、自分のことを忘れてほしいとまで……」


 侯爵の目には、長い年月を経てきた哀しみが深く滲み、声には過去の痛みと悔恨が込められている。


「当時の貴族社会では、未婚の女性が子供を持つことなど決して許されなかった。何よりも、彼女の兄、ロズモア伯爵もそんなことを絶対に赦さなかっただろう。リディアには、君を手放し忘れ、侯爵家に嫁ぐという選択もあったはずだ。しかし、彼女は君を密かに見守る道を選び、私には何も告げず、領地に留まることを決意したのだ」


 ウィリアムはその言葉にただ聞き入るほかなく、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

 ずっと実の親に見捨てられた子供だと思っていた自分が、実は何よりも深い愛情と覚悟のもとで守られてきたことが、彼の心を深く揺さぶった。


「知らなかったとはいえ、君をほったらかしにしていたこと……そのことを心から謝りたい。本当に、すまなかった」


 侯爵の声には申し訳なさが込められており、ウィリアムはその言葉をしばらく受け止めるほかなかった。

 リディアの隠された愛情と侯爵の秘められた悔恨。

 それらすべてが明らかになる中で、ウィリアムはただ静かにその真実を受け止め、深い息を吸い込んだ。


      -------✂--------✂--------✂---------


 ロズモア領の自宅に帰り着いたウィリアムは、玄関先に広がる薔薇の庭に目をやった。

 母が愛情を込めて育てていた薔薇たちは今も美しく咲き誇り、風に揺れるたびに優美な香りを漂わせている。

 ウィリアムは、疲れた体をそっと休めるように一輪の花を撫でた。

 そこに母の面影を感じ、思わず深く息を吸い込んだ。


 家に入ると、居間には父が座っていた。

 年老いた父の顔には深い皺が刻まれ、彼の肩にも長い年月が積み重なっているようだった。


「父ちゃん、どうして今まで黙ってたんだよ……リディア様のこと」


 ウィリアムの問いには、心に長年抱えてきた思いが込められていた。

 父はしばらく息子を見つめた後、急に盛大に笑い出した。


「ははっ! お前さん、賢いのに鈍いのぉ。まさか今さら気づくとは!」

「ひどいよ、父ちゃん! そんな風に言うことかよ!」


 ウィリアムが口を尖らせると、父は口元に優しい笑みを浮かべ、肩をすくめた。


「子どもに恵まれなかったわしらに、お前を預ける決断をされたあの方の気持ち……わしらが勝手に話すわけにはいかんだろう。それに気づくヒントは、あちこちに転がっていただろうに!」


 あきれたように笑う父の言葉を聞き、ウィリアムはふと黙り込んだ。

 父と母がどれほどの愛情を注いでくれたのか、改めて胸に迫るものを感じた。

 彼らが秘めてきた思いを受け止め、ウィリアムの心には新たな決意が芽生えた。


「そうか……ありがとう、父ちゃん。俺は、父ちゃんと母ちゃんの子供だよ」


 ウィリアムは父の肩にそっと手を置いて感謝を伝えると、父はにやりと微笑んだ。


「おっと、そういや昨日、ロズモア女伯爵さんがケーキ持ってきてくれたぞ」

「……マーガレットが?」


 ウィリアムは一瞬驚いたが、マーガレットが自分を気にかけてくれていることが嬉しくて、自然と頬が緩んだ。

 父が差し出してくれたケーキを一口食べると、しっとりとしたレモンの風味が口いっぱいに広がり、彼女へのわだかまりが溶けていくようだった。


 ふと目を上げると、窓の外には母が大切に育てた薔薇が色鮮やかに咲き誇っている。


「父ちゃん、ちょっと出かけてくるよ」


 ウィリアムはすぐに外へ出て、鮮やかに咲いた薔薇の枝を摘み取り、手早く花束に仕立てた。

 そして薔薇を胸に抱き、エルドリッチ城へ向かう道を歩き始める。

 途中で広がる青空を見上げ、彼は心の中で静かにマーガレットと向き合う覚悟を決めていた。


      -------✂--------✂--------✂---------


「マーガレット、話があるんだ」


 ウィリアムの真剣な声に、マーガレットは驚きと緊張が入り混じった表情で振り返る。

 金色の髪が陽光を浴びて輝き、サファイアのように深い青い瞳がまっすぐに自分を見つめている。

 思わず息を呑み、胸が高鳴るのを感じた。


「この間は、怒らせてごめん。……いろいろ考えた末に、やっと気づいたんだ。俺が望んでいるのは、君のそばで、ずっと君を支えたいってことなんだ」


 マーガレットは驚きと期待で目を見開いた。

 ウィリアムが真剣に見つめ、気持ちを吐露している。

 彼のサファイアの瞳に吸い込まれそうになり、頬がほんのり赤く染まるのを感じながら、彼女はドキドキしつつ次の言葉を待った。


「マーガレット、君がどれだけ大事か、やっと分かった……」


 彼の甘い声がさらに心を蕩けさせていく。

 まるで夢のような展開に、マーガレットの心臓は今にも飛び出しそうだった。


 しかし、次の瞬間、ウィリアムは心底嬉しそうな笑みを浮かべながらこう続けた。


「実はね、リディア様が俺の母親で、バッテンバーグ侯爵が父親だってことが分かってさ。つまり、俺たちって血の繋がった“従兄妹”ってことになるんだ」

「……え?」


 マーガレットは思わず瞬きした。

 心臓が高鳴っていたはずなのに、急激に冷え込むような感覚が胸を駆け抜ける。

 ウィリアムはさらに話を続けているが、彼女の頭は情報過多でついていけない。


「だから、これからは君の“従兄”として、ずっと君を見守っていくつもりだよ」

「……ええ?」


 その瞬間、膨らんでいた期待が一気に霧散した。

 マーガレットは呆然とし、続いてこみ上げてきたのは、怒りとがっかりした気持ち。


「…何よ、それ!」


 彼女は思わず声を上げ、首を振った。

 ウィリアムはいたって真面目な顔で、高らかに宣言した。


「これからは領地のことも、婚活のことも、関係者である“従兄”として遠慮なくチェックさせてもらうからね」

「い、いらないわ!そんな“従兄”なんて!」


 彼女の叫びがエルドリッチ城の廊下に響き渡る。

 ウィリアムは満足そうに腕を組み、得意げな笑みを浮かべている。

 その態度がまた、なんとも腹立たしい。……けれど、惚れた弱みか、嬉しそうな彼の顔につい見惚れてしまう自分がいるのが、もっと悔しい!


 心の中で、マーガレットは叫んだ。

 欲しいのは、心から愛してくれる王子様!(できれば裕福であることが望ましい!)

 なのに現実は、マーガレットの気持ちにまるで気づかない、兄貴面した鈍感な“従兄”の監視宣言!


 ため息をつきながら、マーガレットは小さく肩をすくめた。

 どうやらロズモア女伯爵の婚活の道のりは、まだまだ険しいようだ……。

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