食べられなかった一杯
「──いや、1度は食べてみたかったなぁ」
そんな吉岡さんの呟きを聞いたのは、昼食時にいつも通っている店に向かっている時のことだ。
彼の視線の先には一軒のラーメン屋があった。
職場の同僚である吉岡さんは、趣味がラーメンの食べ歩きという無類のラーメン好きであった。
健康のために回数を減らしたと言いながら、それでも週に1度は必ずラーメン屋を巡って回るという彼と昼食に行く時は、決まってラーメン屋に寄ることになっていた。
「今日はあそこにします?」
そう言ってから、吉岡さんの言葉がおかしいことに気付いた。
彼が見ていたラーメン屋は、これまでに何度も一緒に行っていた。職場の近くのラーメン屋は、そこともう一軒しか無いからだ。
だが彼の口振りは、まるで食べたことの無いようなそれだった。あるいは、もう食べられないかのような。
首を捻りながら彼を見ると、困ったような顔で言われた。
「ああ、ごめん。あの店の話じゃないんだ。つい思い出してね。
とりあえず昼飯にしようか」
いつものようにチャーシュー麺を頼み、それを平らげて水を飲みながら一息ついていると吉岡さんが口を開いた。
「さっきのはさ、ラーメン屋の看板を見てつい思い出してしまったんだ」
「思い出したって、何をですか?」
少し遠い目をして彼は言った。「幻のラーメンさ」と。
その表情に惹かれてか、吉岡さんに詳しく教えてくれとせがむと、彼はポツポツと話し始めてくれた。
♦️
吉岡の実家と前の職場は近くにあり、またその周辺は地域全体がラーメン好きと言えた。
ラーメン屋がとにかく多かったのだ。
同じ通りに三軒並んでいたり、道路を挟んで向かい合う店があったりと、やたらラーメン屋ばかりがあった。コンビニよりも多いほどだ。
だからだろう。自然と吉岡はラーメンが好きになり、よく食べるようになった。
職場からの帰り道にもラーメン屋は何軒も立ち並び、選り取り見取りであった。
その日の気分で店を変え品を変え味を変え、さすがに毎日とは言わないが2日に1度はラーメンを食べていた。
そんな吉岡だが、地域のラーメン屋を食べ尽くせてはいなかった。
一軒だけ、入れたことの無い店があったのだ。
前の職場に程近い、住宅街の隅にひっそりと佇むその店は、どうしてか吉岡が足を運んだ日に限って休みだった。
初めて行った時は臨時休業日だった。
店の前には、2日間店主の都合で休む旨が書かれた紙が貼り出されていた。
仕方ないと数日空けて出直せば、その日は定休日だった。
確認すれば良かったと後悔しながら、木曜定休だと心に刻んだ。
しばらく間を置いた後に行ってみた時も、臨時休業と書かれていた。秋の彼岸だから仕方ないか。そう思った。
その後も全て空振りだ。
営業時間外なら仕方ない。
クリスマスだから仕方ない。
春休みだから仕方ない。
ゴールデンウィークだから仕方ない。
早仕舞いなら仕方ない。
夏休みになるから仕方ない。
お盆だから仕方ない。
秋の連休だから仕方ない。
気付けば、1年が過ぎていた。
しかし、その店には1度も入れていなかった。
ふと思い立って来てみた日は、全て休みで項垂れて帰った。
さすがにおかしいとは感じていた。
しかし吉岡が店に寄らないと決めている時、例えば仕事で外出中に店の前を通った時など、は店の前に幟が立てられ駐車場には車が停められているのが見えた。
それはその日も同じだった。
仕事帰りに寄ってみたが、店は例によって休みであった。
ドアに貼り付けられた紙には、店主が不在で休みだと書かれていた。
なら仕方ないか。
そう思い、車に戻ろうとした時だった。
『──あの……』
吉岡が振り向けば、そこには1人の女性が立っていた。
犬の散歩中のようで、リードに繋がれたダックスフントがパタパタと動いている。散歩の続きをねだっているようだ。
その様子から、近隣の住宅街に住んでいるだろうことが分かった。
女性はおずおずと吉岡の後ろを指差して言った。
『そのお店、潰れましたよ』
『え!』
驚きだった。だが、同時に納得もした。
そうか。潰れてしまったなら仕方ない。
そんな吉岡の様子を見て、どうしてか女性は顔を青くした。
『いえ、その……。もっと前です』
女性の声は震えていた。
吉岡はその言葉の意味が分からず、聞き返した。
『もう、3年くらい前に潰れたんですよ。そのお店』
嘘だろう。その呟きは、吉岡の口から出る前に霧散した。
女性の顔つきは怯えながらも真剣そのもので、嘘を吐いているようには見えなかった。
勢いよく店の方を振り向けば、吉岡の目に飛び込んできたのは、ボロボロになった看板だった。
日に焼け、風雨に痛み、文字を読むことも出来ない。そこで吉岡は、自分が店の名前を知らないことにようやく思い至った。
さっきまで見ていたはずの貼り紙など無く、入り口にはシャッターが下ろされていた。
誰が見ても、この店はもう営業していないことが分かる。
さあっと吉岡の血の気が引いた。
ならば、今さっきまで見ていた店は何なのだろうか。
女性が閉店した事情を話してくれていたが、吉岡の耳にそれは入ってこなかった。
とうに閉店していたはずの店に1年通っていた事実に、吉岡の心は困惑と共に怖気に震え、それ以上にその店でラーメンが食べられないことを悲しんでいた。
吉岡自身呆れてしまうが、この不可思議な話よりもラーメンを気にしてしまっていた。
それからしばらくして身体を壊して職を変えた吉岡は、しかしあの店のラーメンへの思いを忘れられずにふとした時に思い出すのだ。
♦️♦️
その話をしてくれてから、3ヶ月か4ヶ月くらいした頃に吉岡さんは亡くなりました。
食道がんを患ってしまったそうで、すごい勢いで広がってしまって、最期の方には何も食べられなくなってしまったと聞いています。
それでも吉岡さんはラーメンを食べたがっていたと、彼の奥さんは話していました。私よりラーメンが大事だったんですよ、と泣いていました。
それを聞いた時に、なんとなくですが、吉岡さんはあの話に出たラーメン屋に行ってしまったように思えました。
一体、どれほどに美味しいのでしょうか。
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