2,家に入れない
というようなわけで、俺は三か月ぶりに懐かしのわが家に帰った。
しかし、どうしても玄関から中に入れない。膝くらいの高さに、ピアノ線ほどの細い結界が張られている。
ならば他の部屋からと思って、庭づたいに居間に回ってみる。だめだ。やっぱり結界にひっかかる。
居間には一間の掃き出し窓があり、上は透明ガラス、下はうずまき模様の摺りガラスが入っている。摺りガラスを通して、ひろ子(妻の名ね)がご飯を食べたりテレビを見たりしているのがうかがえる。
俺からは見えるんだが、呼んでも叫んでも妻は気づかない。というより、俺が声を出しても、窓ガラスをばんばんたたいても、ガラスや空気自体が振動していない。
死ぬっていうのは、こういうことなのか。
透明ガラスから中をのぞこうと背伸びしているところ、後ろから声がかかった。
「あら、野崎さんこんばんは。いまお帰りですか」
振り向くと、お隣の前田さんの奥さんだ。
「こんばんは。いつも妻がお世話になっております」
鍛えぬかれた渾身の営業スマイルで挨拶を返す。
前田さんもにっこり笑って会釈して、どこかに行ってしまった。
気を取り直し、窓ガラスに向かって、字を書いたり、百面相をしてみる。が、ガラスの表面に変化はなく、妻も気づかない。
どうしたものかと思案していると、突然、ワンワン!ワンワン!という声がした。
見ると、ブロック塀の向こうで、Tシャツとジャージ姿の四十代後半の男性がひきつった顔で俺を凝視している。
手に持ったリードの先には、茶色の小型のダックスフント。こいつが、俺を見て興奮してきゃんきゃん吠えたてている。
まずい。不審者と思われてる。
警察を呼ばれては面倒だ。どうしようと焦っていると、眼の前に時代劇から抜け出たような老人があらわれた。
「しょうがないのう。そこのアジサイの陰に隠れんさい」
一も二もなく、後ろの山アジサイの根元にしゃがみこむ。すると、男性は俺を見失ったのか、なおも吠え続ける犬を力任せにひっぱって、去っていった。
「おまえ、周平じゃないか。こがあなところで何をしとるんじゃ」