第4話 セドリック①
新しい婚約者がマルフィレアに来て三日。
セドリックは執務室の壁に貼った世界地図の前に立ち、自国の右斜め下にある島国を指でなぞった。それは自分が子どものころには存在しなかった――いや、八十年間姿を消していて、誰にも見えなかった幻の国だ。
「私があの竜を見てから八年か」
「はい、殿下」
セドリックのつぶやきに、側近のダリルが作業の手を止めて頷く。
海に囲まれた島国クリエラがこの世界に帰ってきて、約八年の時が経っていた。
この世界には竜がいる。
人がその姿を目にすることはほとんどないが、セドリックは八年前、白い竜が空に昇るのをはっきり見たことがあった。長い眠りについていた竜が目覚めたのだ。
クリエラ国は、八年近く前まで竜の寝床だった。
この世界には数多の竜がいて、竜が眠るとき寝床にされた場所は世界から隔絶される。文字通り切り離されるのだ。その期間は数年から数百年と、期間はさまざまである。
クリエラが消えた後はもともと島国だったこともあってか、小島さえもない海が広がるだけだった。
一方竜の寝床になってる場所はその間、穏やかな気候に恵まれ、外敵からも守られるという。
ただ、たまたま国外にいた人は帰ってくることはかなわず、反対になんらかの理由で滞在していた者も国に帰ることができない。
今まであった互いの文化や物資のやりとりがなくなり、クリエラではしばらく混乱が続いたらしい。
――――だが基本的には平和だった。
竜が眠っている間、マルフィレアは多くの天災に見舞われた。
大地が荒れれば人も荒れていく。
竜が眠ることによっておこることを知識として知ってはいても、それはどこでいつ起こるかわからないものだ。災厄が己に降りかかると考えるものは少なかった。
セドリックの祖父が十代という若さで王位についたのは、隣国からの戦が原因だった。国が衰退しないよう祖父は力を注ぎ、そのあとをセドリックの伯父が。彼が亡くなった後は年の離れた弟であった父が王になった。
セドリックが生まれた頃にはずいぶんと平和になっていたが、築き上げたものを簡単に壊していく天災は年々大きくなるばかりで、それは国民全員の悩みであり苦しみだった。
だがようやく竜が目覚めた。
「あれが終わりの合図……いや、始まりと言えば始まりだったんだろうな」
晴れた夏の午後。
セドリックが青い空にのぼっていく白い竜を見た直後、空気がかわった。よどんだ室内の窓という窓を開け放ったかのように、澄んだ気に満たされた気がした。
そしてその日を境に、大きな天災がなくなった。
王族は竜の血を引いているという。
セドリックが知る限り、どの国でもそう信じられていた。
古代、この世界が一つの国だったことに起因しているのだろう。
とはいえ、竜の血と呼ばれる気は王族全員に現れるものではない。全くでない代もあるという。
だがその縁をつなぐことで、竜の眠りによる世界からの孤立を防いだり、その期間を短く抑えることができると考えられてきた。
八十年前はただの迷信だと考えられてたが、実際クリエラが消え、やがて戻ったことで考えが改められた。
竜の清浄な気にあふれたクリエラが、マルフィレアには必要だった。
一方、この世界に戻ったばかりのクリエラには、外にある危険から国を守る力が必要だった。
クリエラに目を付けたのはこの国だけではない。
だが侵略ではなく、対等な同盟を真っ先に申し入れたマルフィレアをクリエラは選んでくれた。
その縁を強化するための方法が、この結婚だ。
それはセドリックにとってはただの義務。
それでもこの国のために来てくれる女性のことは、どんな人であっても敬い、一生大切にすることを心から誓っていた。政略結婚とはいえ、人質ではない対等な立場での結婚なのだ。
実際婚約者だったアマーリアは面白い女性だったし、二人の間に友情があったのは間違いなかった。しかしそれが解消になったとき、本音を言えば「やはり」だった。
彼女の違和感に気づいたのも専門家を送ったのもセドリックなのだ。
(アマーリアを死なせずに済んでよかったよ)
大事な友人の命を救えたことに安堵し、同時に困ったとも思った。だが彼女の妹が代わりに来ると聞いてホッとした。
これで国民を守れる――。
チェーリアはアマーリアが可愛がっていた妹だったし、きっと彼女に似た少女がくるのだろうと信じていた。それが……。
「チェーリア様は、アマーリア様とは全然似てませんでしたね」
少しだけ面白そうにこちらを見ているダリルに気づき、セドリックは地図を念入りに確認しているふりをして顔をそむけた。ダリルはあの港に一緒にいて、セドリックの行動はほぼすべて見られているのだ。
「そうだな。想像と全然違って驚いたよ」
三日前、港で彼女を迎えられたのは偶然だった。
城で出迎える予定が急な仕事が入り、ちょうど終わった頃合いと船が入って来るのが同じ頃だったのだ。だが正式な迎えは別にいるため、本当は挨拶だけして一旦別れるつもりだった。
それが船でチェーリアを見た時、セドリックは脳天から雷が突き抜けたような衝撃を受けた。
一緒にいた侍女よりずっと背が高い彼女は、凛とした美しい女性だった。
ドレス姿がとても似合っているのに、「かわいい」よりも「かっこいい」が似合う生きた女性なんて初めて見たのだ。
女神だと思った。
城には創世記の神話の絵画がいくつかある。
その一つに、戦士と肩を並べた女神の絵がいくつかあった。母をはじめとした知っている女性とはまるで違う存在。
連作で五枚あった絵画には、元は物語もついていたのかもしれない。
戦う姿の女神もいれば、夫か恋人と思われる男性に身を寄せ微笑みを浮かべる姿や子を抱き慈愛にあふれる姿もある。
それらは幼いセドリックに、理想の女性像として焼き付いた。
そう。ぜったい人にはいるはずがない存在として。
「まさか殿下自ら馬車に乗せるとはね」
すっかり休憩にするつもりらしいダリルが、うん、と背伸びをする気配を感じる。視線を彼に戻せば、ニヤリとウインクをよこしてきた。
「殿下ご機嫌でしたもんね」
「うるさいぞ」
浮かれていた自覚があるため、わざとぶっきらぼうになる。
女性を見てあんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。
近くで対面したチェーリアは背が高く、目線の高さがほとんど変わらないためか、心を覗かれたような不思議な感覚になる。
空色の目は美しく、風になびく淡い金色の髪はやわらかそうだ。そして儚げだったアマーリアとは対照的に、大輪の花が咲いたかのような華やかな顔立ち。艶やかな唇に一瞬目を奪われ、そんな自分に驚く。
本音を言ってしまえば、あまりにも理想そのままの女性が目の前にいて、今自分が起きているのかさえ心もとなかった。
もともと彼女とは出会うはずだった。
しかし、それはあくまで妻の補佐としてだ。
アマーリアは可愛らしい女性だったが、実は少し――いや、実はけっこう気が強くていたずら好きだ。
勉強は苦手だったが、心根はやさしく観察力があり、あの可憐さで人心は確実につかんだだろう。アマーリアの話から、チェーリアは彼女の足りない部分を完璧に補佐したであろう。それはつまり、アマーリアのそばには常にこのチェーリアがいたはずだったということだ。
(あぶなかったな)
こんなにも一瞬で心奪われる存在なのに、本当だったら指一本も触れられない相手だったのだ。
それに気づいた瞬間、セドリックは自分の運の良さに歓喜した。
しかし彼女の魅力に完全に撃ち抜かれたのは、この直後におこった出来事だった。




