流れ星が見たい
とある森の奥深く。そこには一人の魔女と一人の男が住んでいました。人も踏み入らない森の奥で、魔女と男は仲睦まじく平和な暮らしを営んでいました。
「流れ星は、願い事を叶えてくれるんだ」
男は口癖のようにそう言いました。
「もう何度も聞いたわ。私と出会わせてくれたと言うんでしょう?」
「あぁ、素敵な人と出会えますようにと願ったら、星の落ちていった先に君がいたんだ」
男の言葉に魔女は笑います。
「たまたまよ。それより、星なんて問題にならないくらい、私がどんな願いでも叶えてあげるわ」
魔女の言葉に男は微笑んで、いつも同じ答えを返します。
「僕の願いは、君がそばにいてくれることだけだよ」
「またそうやって誤魔化すんだから。そんなもの願いじゃないわ。私があなたのそばにいることは太陽が東から昇るくらいに当たり前のことよ」
そんな平和な暮らしは、何年も、何十年も続き、これから先も何百年と続くことを魔女は願っていました。しかし、魔女は老いを知らず、男は老いを知っていました。
20年が経つ頃には男には皺が目立つようになりました。
40年が経つ頃には男の髪が抜け落ちていきました。
60年が経つ頃には男は自力で立ち上がれなくなりました。
それでも魔女は男を変わらず愛していました。
「ああ、あなたを奪われるなんて私は我慢ならない。何か生き延びる方法があるはずだわ」
魔女はそう言うと、男の世話をする使い魔を残し、自分は男を救う方法を探すべく旅に出ました。
魔女はまず北の塔に住む賢者を訪ねました。
「人が老いを克服する方法を教えて欲しいのです」
と魔女が言うと賢者は失笑しました。
「失礼、わざわざ魔女様自らがお出ましになるとは何事かと思えば……そんなお話ですか」
「何がおかしいと言うのです」
「いえいえ、死を恐れる。人として至極真っ当なことです。思うに……どなたか入れ込んだ人がいて、その人がやがて老いて死ぬことを察した、というところでしょうか」
「私の事情などどうでも良いでしょう。方法はあるのですか」
苛立ちながら魔女はなおも尋ねます。しかし賢者は馬鹿にするように笑うばかりでした。
「ありませんよ。少なくとも僕は知りません。だからこそ、僕もこのような辺鄙なところに一人で住んでいるのです。人に出会わなければ、別れもありませんから。魔女様も意外と愚かでいらっしゃる。始めからわかっていたことでしょう。なぜ人間などに惚れ込んだのですか」
「……余計なお世話です」
「なら、余計なお世話ついでに言わせてもらいますが、その人間のことなどもう忘れてしまえば良い。魔女様ならばご自分の記憶操作くらい簡単でしょう? すべて忘れて生きていくこと、それが僕のできるアドバイスです」
魔女は賢者と別れると、次に東の村に住む老婆を訪ねました。
「貴女はそれは長く生きておられると聞きました。どうすればそのように長寿になれるのですか」
と魔女が尋ねると、老婆は皺だらけの顔で丸まった背中を揺らして笑いました。
「はるばる魔女様が訪ねてきたとは何か大事かと思いましたが……ワシはたまたま運が良かっただけのこと。長くとはいえ、それは人の尺度で見ればの話。魔女様には敵いますまい」
「私には別れ難き人がいるのです。どうかその人に生きて欲しい。それとも……貴女も私を愚かと思われるのでしょうか」
肩を落とす魔女に老婆は優しく問いかけます。
「どなたかに愚かと言われたのですかな?」
「……賢者様に、別れを知りながら出会うとは愚かなことだ、と」
老婆は穏やかに微笑むと、言いました。
「賢者様から見れば、なるほどワシらは愚かかもしれない。しかし、魔女様はその方と出会ったことを悔いていらっしゃるのですか? 出会わなければ良かったと」
「いいえ! そんなはずありません! 私にとって……あの人は……!」
その先に続ける言葉を魔女は持ち合わせていませんでした。何よりも愛おしく、失い難く、生きがいでもある大切なその人に抱く感情を表すには、魔女の知る限りの言葉を尽くしてもなお、あまりに足りなかったのです。しかし、老婆は心得たように頷きました。
「えぇ、えぇ。わかりますよ。そのお気持ちが大事なのです。ワシから言わせて貰えば、別れを恐れて出会いを避ける賢者の方が余程愚かに見える」
そこで一呼吸置いた老婆は、続けて言います。
「けれども、老婆心ながら言わせてもらうと、こうしている間にも貴女はその人のそばにいるべきなのではありませんか? 魔女様がこうして各地を旅することを、本当にその方は望んだのですか?」
「望んで…………いるはずです」
魔女は自分に言い聞かせるように答えました。男はずっと「そばにいること」を願っていたのですから。これから先もそばにいるためには、男は長く生きなければなりません。
「まぁ、ともかく。ここに貴女の求めるものはございますまい。今一度、その人のためにどうすべきかよくよく考えてみると良いでしょう」
意気消沈した魔女は、次に南の街に住む薬師を訪ねました。
「貴方は稀代の薬師だと伺いました。不死の薬をご存知ありませんでしょうか」
と魔女が尋ねると才能溢れる若き女薬師はぶっきらぼうに答えました。
「ねぇよ。そんなもん」
「お願いします。噂だけでも良いのです」
「噂ァ? そんなら腐るほどあるさ。けどな、どれも眉唾モンだ。だいたい、そんなものがあれば誰もが血眼になって研究してるだろうさ」
「では……本当にないのですか……?」
薬師は肩をすくめます。
「…………どっかには、あるのかもしれねぇ。けど今はない。少なくともオレは知らねぇ。用がそれだけならもう帰れ。オレは忙しい」
「そう、ですか…………」
絶望したように肩を落として佇む魔女を見かねたのか、薬師は言葉を選びながら語りかけます。
「…………なんだ……多いんだよ。この仕事してると、そうやって、助けてくれって泣きついてくる奴。オレだって全力は尽くす。けど、薬でできることなんて限られてて……だから、つまりさ、そういうもんは、覚悟しとくもんだ…………と、オレは思う」
「覚悟……ですか?」
「あぁ、いつか死ぬもんだと、別れが来るもんだと覚悟して付き合う。できねぇならできるまで足掻く。自分勝手な生き方かもしれねぇ。けど、そんなのはお互い様だ。先に死んだ方が、裏切った方が勝ちなんだ。それでも自分が傷つくことを覚悟して、オレは人にとことん入れ込んでる。魔女さん? もさ、納得いくまで足掻けばいいと思うぜ」
魔女は薬師の言葉を噛み締めるように聞いていましたが、やがて静かに「ありがとうございます」と呟きました。
薬師と別れた魔女は、最後に西の教会にいる神父を訪ねました。
「私は信徒ではございませんが、無礼を承知で伺います。不老不死、あるいは、死者の蘇生に纏わるお話があれば聞かせていただきたいのです」
魔女が神妙な調子でそう言うと、神父は穏やかに微笑みました。
「信徒ではなくとも、皆等しく神の子。遠慮は要りません」
次いで、顔を曇らせます。
「しかし……人は無力なもの。死に抗うことなど不可能なのです。この世にありながら死を避けられる者がいるとすれば、それはこの世とあの世を自在に行き来する神のみでしょう」
「そうなのですね」
半ば予想していた結果に魔女はそれでも肩を落としました。神父が宥めるようにその肩に手を置きます。
「どなたか、大切な方が死に瀕していらっしゃるのですか?」
「……はい」
「ならば、祈って差し上げなさい。死んだ者は神の元へ召されるのです。その方の行く末を祈り、その魂の善なることを信じなさい。死んで終わりではないのです。死後の世界でこそ、その方が幸せであるよう祈りなさい」
神など信じたことのない魔女にとって、神父の言葉はどこか空々しく聞こえましたが、愛しい彼が完全に消えてはしまわないのだと語るその言葉は、魔女にとってとても優しい嘘に思えたのでした。
神父と別れ、男の待つ森へと戻ってきた魔女は、記憶にあるよりも一層老け込んだ男に愕然としました。
「………………ごめんなさい……私は……何も……」
ようやく魔女が発した言葉は掠れ、震えていました。老爺は優しく微笑みます。
「いいや、また君に会えて嬉しい」
「あなたに……生きて欲しかったの」
過去形の言葉は、魔女を酷く息苦しくさせました。
「あぁ。ありがとう」
「…………星を、笑えないわね。私は……あなたのただ一つの願いさえ叶えられなかった……」
そう自嘲するように笑った魔女に老爺はゆっくりと首を振りました。
「そんなことはない。君はずっとそばにいてくれた」
「私は、あなたを置いて行ったのよ」
「僕は別に距離の話をしているんじゃない。君の心はずっと僕に寄り添ってくれていたよ。なぁ……最後に一つ、願ってもいいかい?」
控えめにそう問いかける男に魔女は苦い笑いを返しました。
「最後なんて言わないで。いくらでも叶えてあげるわ」
今にも男の命が尽きようとしていることを、二人ともよくわかっていました。
「流れ星が見たい」
そう呟いた男に「任せて」と答えると、魔女は右手を一振りしました。すると天井が消え、眩しい青空が露わになります。続けて左手を一振りすれば、青空は途端に星々が煌めく夜空に変わりました。最後に魔女がフウッと息を吐けば、夜空を切り裂くように星が降り始めます。星々は次第に勢いを増し、数を増し、あっという間に流星の尾が夜空を埋め尽くしました。
そこまで確認した魔女が男を見下ろすと、老爺は微笑んで魔女を見ていました。
「私ではなく、星を見たら?」
「あぁ、そうだな」
そう答えながらも、男の瞳は魔女を捉え続けます。
そうしてしばらく見つめ合っていた二人でしたが、やがて男がゆっくりと口を開きました。
「君が、旅に出てから、僕はずっと星に願っていた。窓から流れ星が見えるたびに、『明日、君が帰ってきますように』と。だが、ついぞ叶わなかった」
「……どうして? 私は帰ってきたわ」
老爺は悲しげに微笑みます。
「昨日は曇っていて、星が見えなかったから願っていないんだよ」
老爺は、「だから」と言葉を続けます。
「君の勝ちだ。確かに、星なんて問題にならないくらいに君は僕の願いを叶えてくれた。毎日、『そばにいて』という願いを叶え続けてくれた。美しい流れ星を見せてくれた。星は、そんな君に会わせてくれただけだ。ありがとう、僕は幸せ者だ」
その言葉を最後に、男は瞳を閉じました。その体から生気が抜けていくのを、魔女はただ黙って見ていることしかできませんでした。
「あなたのこと、忘れないわ」
やがてぽつりと呟いた魔女の言葉を聞く者はもういません。それでも、魔女は続けます。
「賢者様の言う通り、私は愚かだわ。お婆様の言う通り、あなたの気持ちを考えられていなかった。薬師様のように覚悟も決められない。神父様のように神様に縋ることもできない。けれどね」
魔女は夜空を振り仰ぎました。そこにはなおも尽きることなく星々が降り続けています。
「私は信じるわ。きっといつか、私たちはまた出会うのよ。あぁ、私たちを巡り合わせてくれた流星よ、私の願いもどうか叶えて」
一つ息をついて、魔女は凛と張る声で願います。
「素敵なあなたに、また会えますように」
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その後も流星は、3日に渡って空を覆い続けました。各地で空を見上げた人々は、その美しくも儚い光景をこう言い表しました。
「まるで、空が泣いているようだ」
と。