第八話
「なんだあの構えは……まるでトカゲではないか」
コゥナは困惑の顔である。おそらくほとんどの人間はそうであろう。
アテムが問いかける。
「ズシオウどの、彼女は何者だ、あんな妙な構えで戦えるのか」
「わ……分からないんです」
ズシオウも戸惑いに翻弄されている。
「ただ、聞いたことはあります。かつて大将軍クマザネの御前にて、ロニの称号をかけて争った二人の話を。それがベニクギとツチガマなんです」
「ロニの候補だった……だと。だが、あの構えは……」
「……僕の世界にも、地功拳とか地趟拳とか言って、地面に転がりながら戦う武術はあった」
己の記憶に呼び掛けるかのように、ユーヤが口を開く。
「だが、それは相手の意表をついたり、油断を誘うための技だったはず。まして刀を持って転がるなんて……」
その、銀の背鰭が。
周囲で打ち上がる水柱。瞬時に最大の速度を得た刀が半円を描く。ベニクギが後方に飛ぶ。
蛙が躍りかかる。
そう錯覚するような一瞬。ツチガマが這ったまま跳躍してベニクギの側面に、そして全身を回転させての伸び上がるような逆袈裟。
すんででかわすベニクギの背後に泥が打ち上がり、気配が背後に回ったことを察してベニクギの刀が舞う。光が弾けて数合を打ち合う。
「圓相の型! 流燕若螺!」
神速の薙ぎ払い。一瞬、雨景色すらも上下に分かたれる。
ツチガマの足が溶けて体が沈む。足を前後に開いたのだと理解した直後に腰薙ぎの軌道で刀が飛ぶ。ぎいん、と打ち合わされると同時に上半身が真後ろに反り返り、倒れたと思った瞬間には顔を狙う角度で蹴りが突き出される。
「ぐっ……!」
蹴り足が耳をかすめる。ベニクギは瞬時に刀を引き上げて地を狙う突き。柳の葉のようにツチガマの体が刀を避け、直後に刀の側面を狙う蹴りが。
反応して刀をそらさんとするベニクギの顔面が弾ける。土中からすくいとった水を高速で放ったのだ。一秒の間に数手を繰り出す高速の攻防。
水風船が弾けるように飛沫が散り、一瞬視界を失うベニクギの首に、前からの刀が。
赤が回転する。後方に倒れこみながら、強靭な下半身を使っての宙返り。跳ね上がる刀が緑の影を突き抜ける。煙のように逃げるツチガマの、逃げる先めがけて踏み込む。
「疾相の型! 雷影黄獣!」
「――豸舌」
落雷のような打ち下ろし。矢を放つような突きの交錯。
そして。
「手ごたえ、あり……」
ずるりと、軟体生物のように後方に動くツチガマの。
その刀に、赤い雫が。
血の華が。
ベニクギの胸から、左の二の腕から鮮血が散る。それは豪雨に流され、足元に広がる。
「ベニクギ!」
叫ぶのはズシオウ。だが驚愕は場の全員であろうか。
今の攻防でいつ斬ったのか、互いに何合打ち交わしたのか、誰の眼にも見えなかった。速いというだけでなく、あまりにも変則的な動きのために。
「……肘か」
コゥナが奥歯を噛みつつ言う。
「肘……?」
「あの女、動く瞬間に肘で地面を打ち付けている。それで反動をつけて跳んでいるのだ。それだけではない。膝を、肩を、あらゆる場所を支点に動いている。信じられぬ体術だ」
あの動きに技術的な理屈があるとして、コゥナの見立てはごくごく一部に過ぎないだろう。
だが、あれが武として成立していることは分かった。あまりにも異端であり、かつ脅威を秘めた武であると。
「……烈相の型、銀雨蝉林」
ベニクギは歯を食い縛り、意思の力があるかのように出血が止まる。
緋色の残像が速度を増す。高速で四方へ飛び、それを追うように濃緑色の異形も動く。そして鋼が打ち合わされる。
ユーヤは、その動きを追えぬながらも思考する。
(……確かに、道理かもしれない。接地箇所を増やすことでグリップを高め、機動性を生めるのかも)
(だが、あの異端の動き、あの域に至るまでに、どれほどの……)
雨の薄膜の向こうで、銀の音がかき鳴らされる。ツバメの旋回するようなベニクギの刀と、蛇が鎌首を繰り出すようなツチガマの刀。
「――遅い!」
一秒に数回の閃光。
そして、一瞬だけ網膜に映る光景。
長太刀の先端が、ベニクギの腹を。
「が……!」
そして、全身から。
無数の刀で同時に斬られたかのような。
破裂するような血しぶきが。
「ベニクギ!!」
瞬間、とっさにズシオウを押さえる。背後にいたメイドたちもそうした。幼い体とは思えない力。泣き叫ぶ声が雨の町に拡散していく。
次に叫ぶのはカイネルだった。
「ツチガマ! 殺してはいないだろうな! 殺せば交渉どころではないぞ!」
「ひ、ひ、わかっておるわいのお」
がし、と倒れ伏したベニクギを踏みつける。鮮血が緋色の裳裾と溶け合っている。
「ベニクギよ、のうベニクギよう、刀ではわしの勝ちじゃのう。さあ白の妖精を使うて立てえよ。まだ雷問の勝負が残っておろうがよう」
ツチガマは下卑た笑みを浮かべている。口の端から喜悦を垂れ流し、恍惚の極みの声で言う。
「のうそこの国主さま。はよう妖精を出してやらにゃあ血を流しすぎておっ死ぬぞ。白夜の花を出さねばなあ」
ズシオウを見る。その小さな体は軒先から歩み出ており、雨に打たれて震えていた。
それは涙を隠すためでもあったのか、国主代理たる矜持を精一杯に示し、唇を嚙み締めて毅然と立っている。
「……ありません」
「ああ……?」
「ごく最近、事情があって使ってしまったのです。ベニクギは白夜の花を持っていません」
ツチガマのつけた面、その眼の部分が白く見える。面の奥で目を見開いたのだと分かった。
「使ったと……。侍を連れてきておるかのお」
「国屋敷の者たちはシュネスハプトにおります。白夜の花を得るには、戻らなければ……」
「ち」
舌打ちの音。ツチガマはのっそりと振り返る。大量の水気を含んだ裳裾が水袋のように垂れ下がっている。
彼女は何かしらの疲労のためか、それとも戦いの熱に浮かされているのか、よろめくように歩いてカイネル先王の方へ。
「カイネルよ、手当してやれ、死なすわけにはいかんのじゃろお」
「……勝手な言い草だな」
カイネルが腕を掲げれば、数人の男たちが周囲から出てくる。
そして雨は次第に弱まり、上空の雲は湯に溶けるようにその姿を失いつつあった。
「このような場所では話もできぬ。こちらへ来られよ」
※
案内されたのはランズワンの中央に近く。二階建てのそれなりに大きな邸宅である。
本来はホテルとして使われているらしく、正面玄関の奥にはカウンターがある。
控えているのは軽鎧を着た男たち。アテムの連れていた衛兵たちと似た姿だが、黒い布で口元を覆っている。
ベニクギは担架に乗せられて奥の部屋へと運ばれた。ズシオウが後をついていこうとしたが、男たちに制止される。
「服の替えを用意しよう」
「要らぬ」
アテムはきっぱりとそう言い、ズシオウとコゥナも何かへの抵抗を示すように、背中を合わせて立ち尽くす。
カイネルは厚手のコートを部下に預け、襞襟のついたシャツに黒の上着という貴族風の衣装となる。
「アテムよ、我が息子ながら事あるごとに意見が分かれていたが、その強情さは誰に似たものか」
「ふざけたことを、こちらは死人が出てもおかしくなかった。今もベニクギどのが深手を負わされて……」
ずちゃっ。
そんな音が響き、ユーヤがそちらを見れば、ロビーの片隅でツチガマが裳裾をすべて地面に落とすところだった。
その姿。背丈は高く手足が長い。肌は驚くほど白く、肩から腰までは見事な女性らしさがある。全身に古傷が残っているが、あれは彼女の鍛錬の歴史か、それとも戦闘の記憶だろうか。
そして胸のさらしと下帯もするすると床に落とし、身に付けてるものとなれば鷲鼻の面だけになる。
「ツチガマ!」
「は、おなごの肌ぐらいで動じることもなかろうよ。契約以外のことで指図されるいわれもないのお」
敵方のメイドたちが、やや慌てた様子でタオルと替えの裳裾を持ってくる。ツチガマは乱暴にひったくって体を拭く。
コゥナに袖を引かれた。
「ユーヤよ、見すぎではないのか。そんな場合ではなかろう」
「え、ああ、ごめん……」
「アテムよ、できればお前とはじっくり話し合いたいのだがな」
「ふざけたことを言うな、と告げたはず」
アテムは濡れた髪をかき上げ、挑発的な眼で言う。
「こんなことで我々を人質にでも取ったつもりか。太陽鳥が戻らねば数えきれぬ程の兵が押し寄せるぞ。そこの女が規格外の実力者だとしても、このランズワンにどれほどの兵力がいようとも、最後に砂に伏すのはお前だ」
「人質? そんなつもりはない。そもそも、私はバッハパテラの氏族を割るつもりなどないのだ」
そこで、衛兵がズシオウたちに集まる。
丸太のような腕を持つ屈強の男たちが、ズシオウとコゥナの細腕をとらえている。
まずコゥナの弓と矢が奪われた。
「……」
ズシオウは何も言わず、ただ烈火のような怒りを眼に込める。
その袖が大きくまくり上げられ、二の腕にあった九角形の飾りがもぎとられるまで、ずっと睨み付けていた。
「ふむ……聞いていた通りだな。やはりヤオガミにも存在したのか」
カイネルは部下からそれを受け取り、しげしげと眺める。他の鏡よりはだいぶ小さく、手の平に収まるほどの大きさだが、その複雑玄妙な輝き、溶けた真珠を器に満たしたような神秘的な輝きは、確かにこの世のものではない。
銀散花釉紋袖飾。
そう呼ばれている、ヤオガミに伝わる妖精の鏡である。
アテムが苦々しげに言う。
「そんなものを手に入れてどうする。ヤオガミの鏡は効果が伝わっておらぬはず。まさか使う気なのか」
「そうではない。なあアテム、私はお前の玉座を脅かすつもりはない。楽隠居の身を返上してまで、この国を再び治めようとは思っておらぬのだ。この痩せ衰えた老人には、余生でかなえたい願いなどさほど多くない。あと一つで良いのだよ。お前があと一つだけ願いを聞いてくれるなら、この鏡も返そうではないか。そう、この鏡こそ人質なのだよ」
「願い、だと……」
「ズシオウ、ちょっと聞いてくれ」
ユーヤがそっとそちらに歩み寄り、頭を撫でるしぐさをしながら顔を寄せる。
そしてカイネル先王は、鏡を顔の高さに掲げて言う。
「アッバーザ遺跡を埋め戻せ」
「……!!」
「あの遺跡は今の世界にそぐわぬ。古き神、泥濘竜の名を遺す街など不要なのだ。この世界は妖精王により万全に支配されておる。泥に這う竜など忘れたままのほうがよいのだよ」
「馬鹿な……! あの遺跡がどれほど貴重なものか分かっているのか。研究対象としてだけではない。観光資源としても……」
「そもそも観光などくだらぬ。シュネスに外国人が押し寄せてそれでどうなった。いくつかの町では治安が悪化し、いくつかの氏族に武器や妖精を呼ぶ媒体を買い付けるルートを与えてしまった。国が乱れる元になっている」
「その物言いはあまりに極端すぎる! 外国への門が開かれたことで、金山の奪い合いをやめ、観光で生きていく道を見つけた氏族も……」
「カイネル先王、それはよくない」
ピアノの鍵盤を平手で打つように、強調の極みの声で発言するのはユーヤ。髪を無理に後ろに撫でつけて、できる限りではあるが背を伸ばして堂々とした構えを見せる。
「……何がよくない、と言われるのかな? 客人よ」
「本来の計画を外れるのは良くない、ということだ」
「……」
白髪の老人は顎を引き、ユーヤを警戒するような構えを見せる。ユーヤにとっては実に分かりやすい反応。深い動揺と、動揺を見せまいとする構えだ。
「あなたに与えられた計画は鏡を奪うことだけ。本来はヤオガミの鏡を奪い、それをある人物に届ければ、引き換えにシュネスの鏡を返却するという約束だったはず」
本物が戻ってくればの話だが、という一言は口中だけにとどめる。
「鏡を奪って優位に立ったからと言って、計画にない望みなど叶うわけがない。今はシュネスの鏡は国内にある。当初の目的は満たされているはずだ。それで満足するべきだ」
「……そなたは何者か?」
「セレノウのユーヤ」
カイネル先王の眼が強い警戒の色を見せるが、表面上は平静を装って言う。
「セレノウに何の関わりがある。余計な口出しは無用に願おう」
「妖精の王は争いを嫌う」
ぐ、と、喉にものが詰まるような気配。
「死人を出さないことにこだわっていたのは察している。あなたは結局のところ、僕たちに力づくのことができない。かといってアテムを幽閉したり、拷問にかけて意思を曲げさせる猶予もない」
「……いよいよとなれば手段など選ばぬ」
「だから妖精はクイズを与えた」
ユーヤは慎重に場の気配を見ている。誰か一人が逆上すれば壊れてしまう、危うい交渉。特にこちらに背を向けているツチガマ、あれをどう動かすかが打開のカギだと感じる。
「クイズで決めればいい。そちらのツチガマと、こちらのベニクギ、双方の決着はまだついていないはず。剣の勝負と知の勝負、ヤオガミ風に言うなら雷問での勝負が残っているのだろう?」
「ベニクギはいつ戦える。はよう死合いたいものじゃのお」
裳裾を替えたツチガマが、大股で割って入ってくる。その動きにカイネルは眉をしかめる。
「いいえ!」
そして鷲鼻の面の前に立つのは、同じく面で顔を隠した人物。
ズシオウが、場の全員に言い渡すように声を張る。
「私が! あなたとの勝負を引き継ぎます!」