第三十七話 エピローグその2
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その庭には緑が濃い。
葉の大きなフォゾスの植物。遠くセレノウより運ばれた優美な鉢植え。生け垣を飾る多くの花と、小さな手水石をゆったり覆う苔。
揺り椅子からは湖が見える。砂漠の中にあってぐるりと緑が取り巻き、水鳥が集まってくるオアシスの屋敷である。
ここは大砂漠に落ちた宝石。湖と林を抱く離宮。
さしわたし40メーキほどのささやかな湖だが、王族の避暑地として利用されてきた場所である。
そこを訪ねる人物は、明るめの色の開襟シャツとくるぶし丈のズボン。樹皮で編まれた桧皮色のサンダルという軽快な姿だった。金の装飾は控えめに、その人物本来の野性味であるとか、若者らしい快活さが表に出ている。
その人物は離宮の庭に出てくると、揺り椅子を見つけて口を開く。
「カイネル」
ぎい、と揺り椅子がきしむ。
呼びかけた人物。すなわちシュネス王アテム=バッハパテラは揺り椅子の横に並ぶ。
「アテム……いや、国王陛下。お越しでしたか」
揺り椅子の老人は立ち上がろうとする。アテムはそれを手をかざして止め、手近にあったツル編みの椅子に座った。
「アテムでよい……今は敬語も控えてくれ。王籍を抜けたとはいえ、実父にそのような言葉遣いをされて、心地よい訳がない」
「来られるとの先触れあらば、出迎えたものを」
互いの椅子の距離はだいぶ離れている。
およそ三メーキほど。それは何か象徴的な間合いにも思われた。二人の間にはまだ無数の壁があり、互いの言葉も、交わす視線も真っ直ぐには届かない。それをアテムは歯がゆくも思う。
アテムは湖を眺める。生垣、庭木、湖の形までがどこか人工的な印象がある。それは多数の職人の手になる美術品だから、という見方もできるだろうか。
「エンスヒュースの離宮か……。居心地はどうだ」
「何度も来ている離宮だ」
カイネル先王はこの離宮に軟禁という沙汰が降り、ここに移送されていた。そこから、すでに数日が過ぎている。
アテムは事態の収拾と関係者への口止め、何らかの被害をこうむった人々への見舞金や、起きた事態についての記録などに追われた。
それに加えて通常の政務が山のようにあり、ようやく数時間だけ時間を取り、飛行船でこの離宮まで来た次第である。
エンスヒュース宮とは王族の私邸であり、確かにシュネスでも最も美しい場所と評されている。
だが最寄りの村までは90ダムミーキ。付近にはいっさいの井戸も水源もなく、隊商もまず通らない。かつては何らかの理由で政治から遠ざけられた王族を、ひそかに軟禁するための場所であったという。
そのようなことを思い出しつつ、アテムが口を開く。
「使用人は足りているか」
「まだ来て数日だ、分からぬよ」
「希望のものがあれば届けさせよう。書籍などどうだ」
「書庫に読みきれぬほど本がある。大半は私が収集したものだが、読む機会がなかったからな。この機会に紐解こうと思っておるよ」
「カイネル」
アテムの声が、空間に形として残るようにはっきりと響き。
その後には空白の時間。続く言葉を互いが探すような時間が流れる。
それは他人には分からず、当人たちですら把握しきれぬ人生の距離。
すれ違い続けて、いつの間にか大きく離れてしまった二人が、そのあまりの距離に当惑するような一幕であった。
「……アテム王、そういえば約束を果たしておらなんだな」
ややあって、白髪の老人はそのように言う。
「約束……」
「クイズで負けたなら、私の知っていることを話す、という決め事があっただろう」
「あれは勝負のための……」
湖にて魚が跳ね、アテムは一度目を閉じてから応じる。
「話してくれ」
アテムの背を、誇りという言葉が押す。
どうあっても、この老人に気を遣わせるような真似はさせられない。その話はやはり、自分から頼んで聞かねばならぬのだと。そう決意した発言であった。
「余はもう一度、お前の話を聞きたいと思っている。いつぞやは混乱のためにまともに取り合わず、一蹴してしまった。その後も会話が成り立たぬままであった。だが今日は違う」
「……」
カイネルもまた、アテムとの距離を測りかねるようだった。悩むように唇を噛み、視線を合わせぬままにゆっくりと語りだす。
「妖精王というのは新しい神だと言われている。大乱期の終わり、つい130年ほど前にこの世界に現れた神だとな」
「そうだな……妖精王に関する伝承は、古代の文献には存在しないからな……」
「伝承には様々な神がいる。樹霊王、白猿神、棺の蝶などだが……。私は数十年に渡る研究の末、一つの結論に達した」
「……神々の、実在か」
アテムの言葉に、カイネルは一瞬、意外そうな眼をする。
だが、やがて得心が行ったように手をかるく組み合わせた。
「そうか、見たのだな」
「泥濘竜を見た。だが鎖で封印されて、かなり弱っていたようだった。妖精の攻撃により、地下の奥深くに押し込められていたように見えたが……」
「妖精王は強い力を持っている。大乱期の終わりに、他の神々を封印したと推測した。そして人間の世界に妖精と、妖精の鏡を与えた」
妖精の鏡。
その実在を知ってから、カイネルが豹変したことを思い出す。ハイアードに奪われた鏡の奪還を訴え、妖精王のみを唯一の神として崇めるべきだと述べていた。
「妖精の王だけが、他の神々と違っている」
カイネルが、慎重に言葉を選びながら述べる。
「違っている……?」
「そうだ。あまりにも深く人間に関わっている。神が悠久不変であるとするなら、人間の一生、一国の趨勢に関わる意味などないはずだ。だが妖精王は関わっている。なぜ人間に力を貸すのか。なぜ王の身柄を求めるのか。その理由は分からぬが、肝心なことは」
アテムが、ぎしりと奥歯を噛み締めて言葉を受ける。
「神々の間で、意見が分かれたならどうなるのか、ということだ……」
「まさか……!」
ふいに浮かぶ、あまりにも突拍子もない想像。
しかし、思いついてしまった直後、リアルな実感となってのしかかってくる。それはまさに先日、アテムが目撃したこと。
「神々の間で、戦いが起きる……」
「それに巻き込まれたなら、人間などひとたまりもない」
アテムは深く考えに沈み、海上で板切れを求めるように言葉を探す。
「だが……その戦いは人間とは無関係に行われるかもしれない。神々の国……というものがあるならそこで、あるいは人の手の及ばぬ秘境の彼方で……」
「アテムよ、妖精の鏡にはそれぞれ固有の効果がある、知っているか」
そのように話の矛先を変えられ、アテムは少し動揺したものの、つとめて冷静に答える。
「うむ……全てではないが、知っている。シュネスの鏡は伝承が失われていて、効果も不明だが……」
「ある古い文書を見つけたのだ」
カイネルは、いよいよもって核心を語ろうとする気配をにじませる。どこかで水鳥が枝を蹴り、空高くへ逃れる気配がある。
「それはすなわち統一歴3年。戦乱の名残りは色濃く、氏族国家であるシュネスはまだ混沌の渦中にあった。そんな時にアッバーザ遺跡が発見されたのだよ」
「何……!?」
「当時の王はその存在を疎んじた。妖精王に対抗する勢力として、泥濘竜を核として多くの氏族がまとまることを恐れた。あるいは、妖精すらも同じことを思ったかもしれぬ。そして当時の王は高齢であり、その身を国に捧げることを厭わなかった」
「何を言っている……? まさか、あの遺跡が」
「シュネスの鏡は、砂を生み出す」
「莫大な量の砂が、アッバーザの地を一夜にして砂に沈めたのだ」
「……!」
「そしてシュネスハプトが建造され、統一歴20年ごろに遷都されたのだよ。大河ユレネタゥより水を引き、水路を整備して街は育っていった。分かるかアテムよ。シュネスハプトとは言わば、アッバーザ遺跡の眠りを見張るための都なのだ。この国に泥濘竜という神が存在した記憶をかき消し、未来永劫、その竜を地の底に沈めておくためのな。シュネスハプトとは、シュネスの王とは、その役目を妖精より任じられた存在とも言えるのだ」
「……」
「世界に君臨者は一人たるべし。多宗教化はそれはそれで素晴らしい理想だろう。だが神が実在するならば。現実的な存在として肉体を持つならば。けして他の神を崇めてはならない。私の言いたかったのは、そういうことだ……」
「…………」
長い静寂。
そして、アテムが応じる。
「……にわかには信じぬ」
「ほう」
揺り椅子をきしませ、カイネルは感心したような声を漏らす。
「それでよい。伝聞を即座に真に受けるようでは、学究の徒とは言えぬ」
「だが、軽んじることもせぬ」
アテムはやや興奮して顔を赤らめていたが、その眼には哲理の火があった。簡単には揺らがぬ強い意志が、王としての誇りがあった。
「王として命ずる。カイネルよ、お前は自分の論を論文として清書せよ。余がそれを検証する。お前と同じ資料を見て、さらに多くの観点を加えて論の精度を高める。そして人が、人間が妖精や神々とどのように付き合っていくのか、余が必ず決断を下す」
「うむ……」
カイネルの細身の体から、熱気が放散されるように思える。
それは、今まで気を張っていたこの老人が、初めて肩の力を抜くような。
己一人だけが背負っていた大きな荷を、少しだけ誰かに分けることができたような、そんな安堵の気配であった。
「わかった。私の隠れ住まいに資料がある。アテム。学者を選抜し、検証に当たらせてくれるか」
「余も参加しよう。最優先で取り組む」
脳裏に浮かぶのは、あの異世界人の顔。
これより行われる研究が、あの男の旅に意味を持つという予感がある。それは投げた石が落ちるように確実な、この世の禁忌に触れる恐れの相まった予感。
時代が、世界が、変わり始めようとする、歯車のきしむ音が。
カイネルはふいに、にやりと笑ってみせた。
その皮肉げな笑みが、卓抜な学者だけが持つような尊大さが、あるいはこの老人の本来の表情なのかと思われた。
「だがお前にできるかな? 私の論文は難解すぎると学会でも忌避されていたからな。私に言わせれば学者たちが勉強不足なだけだったが」
「なめるな、余とてそこらの学者には負けぬ」
「ほう、試してみるか。問題だ、カリフーヤ朝の儀礼旗に記されている架空の」
「一本足の猫、ルニだ」
カイネルは腹の上で手を叩き、おかしそうに体を揺する。
「その通りだ。では時代を追うごとに横堀り式、旱天式、ピッツワーズ式と変化し」
「石炭。待てカイネル。余だけ試されるのは不公平だろう。砂糖貿易で栄えたワーナーグに由来する」
「砂糖天秤。なかなか古めかしいことを知っておるな。ではシュネス最古の郵便……」
砂漠の国の、砂の果て。
どこかの庭で二人の男が、ますます熱くクイズに興じ。
そして世界は。
今日はまだ、変わらず平和であり続けた。
(完)
これにて完結です。
ユーヤの旅はまだまだ続くようですが、ひとまず今回のお話はここまでとなります。
クイズ王は今後も書いていきたいと思っているので、気長に待っていただければと思います。
最後になりましたが、評価や感想など、ぜひお寄せいただければと思います。
ではまた、次の作品で。




