第三十六話 エピローグその1
宴席はシュネスハプトに来た日と同じ部屋であったが、ユーヤの主観ではだいぶ印象が違う。
絨毯や壺、タペストリの選択が違うのもあるが、メイドたちが顔の下半分を布で隠しているのが物々しい印象を与えるのか。
「ユーヤ様、こちらへどうぞ」
水色リボンのリトフェットは顔をさらしていたが、よく見ると鼻の下のくぼみにピンク色の何かが塗られている。
「その鼻のやつ、なに……?」
「无香花の顔料です。鼻を麻痺させる効果があります」
「……」
リトフェットにはいつも大勢のメイドたちが補佐についているが、それはかなり遠巻きに控えており、やはり口元を布で覆っていた。
席につけば、居並ぶ料理の奥に大きめの壺が見える。
他の王たちも席についているが、アテムはその目立つ壺の方に視線をやろうとしない。
どうも先刻より、アテムや他の使用人たちの態度がおかしいことは察している。
バフムスとやらについて熱く語っているが、その味にも匂いにもまったく触れなかったのも不自然だ。
(……なるほど読めた。キビヤックとかシュールストレミングとかのパターンか)
ならばどちらも経験済みである。テレビマンを舐めるなよ、と心の中で気合いを入れる。
「ユーヤどの」
絨毯を挟んで進み出るのはベニクギ。刀を後ろに置き、片膝と拳をついて深く頭を垂れる。ユーヤが察するに、刀を後ろに置くのは敬意の表現だろうか。
「此度は一連の事件にてご尽力いただき、心より謝辞を述べとうござる。ツチガマについてはどれほど感謝しても足りぬでござる」
「いや……僕は大したことしてないよ。ベニクギの力だよ」
「とんでもござらぬ。拙者では事態の解決に至らなかったことは明白。それだけでなく、ユーヤ殿はツチガマの心すらも……」
「ベニクギどの、そのことだが」
アテムが口を挟む。
「ツチガマの処遇についてはヤオガミに任せようと思っている。ヤオガミへ移送してもよいし、しばらくこちらで身柄を預かっても構わぬ」
「アテム王さま、いいんですか?」
「よいのだズシオウどの。あくまでツチガマはカイネルの私兵として扱う。行いについての責は問わぬ」
「ありがとうございます。ヤオガミの国主代理として、そのご厚情に感謝いたします」
ツチガマはどのような運命を辿るのか、まだ到底予想のつかない事ではあるが、少なくとも命は助かるだろう、とユーヤは予感していた。
彼女が卓抜の人材であることや、過去の事件に対する見方の変化もあるが。
何よりも、ツチガマ自身の変化のためだろうと感じる。
「コゥナ様も、今回の一件はいろいろ勉強になった。父上の教えも思い出したしな」
すでに料理に手を伸ばしつつ、コゥナが言う。
「そして、まだ世界にアレを狙う意志があることもな」
「うん……」
妖精の鏡のことは、やはり長い課題として残りそうだと感じる。
ヤオガミの鏡は戻ってきたが、鏡の存在はもはやかなりの数の人間が知っている。誰がどのような理由で鏡を狙っているか、いつ狙われるか誰にも分からないのだ、とユーヤも認識を新たにした。
「何だか里心もついてしまったしな。コゥナ様は一度フォゾスに戻ろうと思う。あれはフォゾスでは祖霊の眠りを見守る器物なのだ。再びあの場所に安置し、二度と国外に出さぬように手を打たねばな」
「そうだね……」
「さあ、では早速開けるとするか」
アテムが手を叩き、ざざ、と使用人たちが後退する。
「バフムスか……」
これは相当キツいやつが来るな、と、ユーヤなどはむしろ楽しみだった。経験を大事にするタイプである。
鼻どころか顔全体を革マスクで覆った、中世の処刑人のような男たちが出てきて、壺の蓋を開ける。
「物々しいな、たかがパンだろう」
コゥナなどは立ち上がって壺の中を見ようとする。
中から取り出されたのは、大判の辞書ほどの大きさがある狐色のパンが二枚。
全体がこんがりと焼かれたように見えるが、キノコに寄生されているはずなので、焼き色ではないのだろうか。特に糸を引いたり、胞子を出してる様子はない。
「……アテム、何だか良い匂いなんだけど。パン屋さんの匂いがする」
「バフムスの匂いはすぐに蒸散するからな。接近せねば分からないぞ」
「……そうなの? だとしても別に悪い匂いじゃなさそうだけど……」
二枚あるパンの一枚が、うやうやしくアテムに差し出される。なんだか十戒でも刻みそうな眺めだな、と密かに思った。
アテムはそのパンの表面を撫でるように手で仰ぎ、すぐにワイングラスに鼻を突っ込む。
「確かに極上の品だ。よし、まずはセレノウのユーヤに」
ユーヤは心の中で複数の芸人を思い出す。それなりのリアクションを取るのが礼儀と言うものだろう。
そして処刑人のような男が差し出すバフムスに、そっと鼻を近づけて。
瞬間。周囲の景色が吹き飛ぶ。
自由落下していた。
全身から力が抜ける。
真下に見えるのは城ほどもある巨大なパン。ユーヤの体がそこに突っ込み、驚くほどの弾力によって体全体が沈む。
服が消滅している。肌全体が熱気に包まれ、ざらざらしたパンの皮と、その奥に潜むしっとりした質感。そして鼻の奥に燃え上がるような小麦の香り、鼻梁を登って脳に達し、電光のような閃光のような、まったく経験したことのない衝撃が。
「ひぃ、ずっ」
覚醒、そして慌てて口を押さえる。
忘我の時間はおそらく0.5秒ほど。
その極小の時間に、これまでの全てのパンの経験を凝縮したような匂いが来た。
いや、今のは本当にパンの匂いなのか。警察犬や狩猟犬が感じる世界なのか。感覚器官が100倍に増えたような感覚。その官能を表現する語彙が世界に存在しない。人間では経験できない世界の香り。
端的に言うなら今の一瞬。
ユーヤは、良い香りすぎて声を出したのだ。
「なるほど、あのような声ですのね」
「割と低い声になるタイプですのね。藍映精は回ってまして」
「バッチリですわ」
「そこなんで録画してるの!」
それはセレノウ側のメイド達である。妖精を仕舞い、きゃあきゃあ騒ぎながら退散する。
「ユーヤよ、どうした? 食わんのならコゥナ様が貰うぞ」
「待って!!」
慌てて止める。まだ鼻がひくついている。今の快感が現実のことと信じられない。
アテムが苦笑する。
「コゥナ姫、残念ながら天然物のバフムスは15歳未満が味わうことが禁止されている。人工栽培のものを用意しているから、そちらを堪能されるが良かろう」
「何を言う。確かに13の祝いもまだだが、コゥナ様はもう立派な……」
と、そこでふと動きを止め、肩を落とす。
「うむ……そうだな。待てと言うなら待つべきだろう。己の年齢に合った振る舞いをするのも族長の務めと父上に言われているし……」
「? そ、そう、とにかく待ってくれ、あ、アテムこれ片付けて!」
「何を言う」
アテムはもはや面白がる様子を隠しもせず、頬杖をつきつつワイングラスを揺らす。処刑人がユーヤの背後に張り付く。
「パンは食べてこそだろう。天然物を味わえる機会などハイアードの大富豪ですら、いや王族ですら難しい。さあしっかり香気を吸い込むといい」
「ちょっと待って! 無理だから! 声が出るから!!」
「お邪魔するネ」
と、そこに現れる人物がある。
それはすみれ色の瞳と髪を持つ美女。
白の平靴から伸びるのは鶴のような脚線美。それがくびれた腰とふくよかな胸のラインに連続して、朱色の唇まで一連の美を形成する。
彼女が開け放たれていた窓から飛び込み、すたりと宴席に降り立ったのだ。言うまでもなくこの場所はゴルミーズ宮の高層部分である。
「む、たしかラウ=カンの睡蝶どの。どうしてここに」
「急ぎの用だったから外壁を上ってきたネ。ユーヤ!」
と、その人物は大股で歩いてきてユーヤに近づく。ラウ=カンの貴人のみが着るという深い赤の紅柄は体に張り付くような見事な仕立てであり、腰から肩の下まで完全に露出したスリットに周囲がどよめく。
「急いでラウ=カンに来てほしいネ! 下に馬車を待たせてるネ!」
「よしすぐ行こう」
「ちょっと待ってください!」
周りがあっけに取られる中で、立ち上がるのはズシオウ。
「睡蝶さん! 急に出てきて何ですか! それにユーヤさんはヤオガミに来ることになってるんですよ!」
「なってないけど!?」
いいえ、とズシオウが硬く拳を握る。
「ユーヤさん、セレノウのエイルマイル様にも言われてたはずです。世界を回って見識を深めるべきと。ならばヤオガミは欠かせないはずです」
「そんなのラウ=カンも同じネ。こっちには大事な用があるネ」
そこでズシオウはユーヤを見て、その仮面の下の眼でじっと異世界人を見つめる。
「ユーヤさん。ヤオガミはまだ戦乱の続く土地ではありますが、クイズ文化の流入でそれが変わりつつあります。争いの決着をクイズに託す考え方が生まれつつあるんです。今回のシュネスの一件はまさにそれです。ユーヤさんはクイズで争いを止めました。今こそヤオガミにはユーヤさんの力が必要なんです」
「そんな強く期待されても困るけど……でも、求められてる以上は」
「ユーヤだめネ! こっちだって大変な事態になってて」
「少し待ってもらおう」
ぱん、と柏手を打つような動作をして、アテムが片膝を立てる。
「ラウ=カンの睡蝶どの。このゴルミーズ宮は開かれた宮殿だから、ここまで来られたことは分かるとしよう。だがなぜユーヤがシュネスにいると分かった。ラウ=カンが知る余地はないはず」
それもそうだ、と周りの王族は思う。ユーヤはハイアードからパルパシアへと移動し、わずか数日の滞在ののちにシュネスに来たのだ。
睡蝶はきょとんとした顔で答える。
「それはまあ各国にラウ=カンのスパイいるし」
「さらりと言うんじゃない……」
アテムはあきれ顔になるが、それについて深くは指摘しない。
七か国が国境を接している大陸である。それぞれの国に密偵ぐらいいるだろう。
「だからユーヤ、ラウ=カンに来るネ」
「いや、ズシオウがああ言ってる以上は、そんなすぐ決めるわけには」
「ユーヤはスケスケのやつとか女学生ものが好きだったネ、そういうお店紹介するネ」
「おいおいこらこら、どこのどいつだそんな根も葉もないデマを垂れ流すのは」
そんなやり取りを眺めていたコゥナはやや脱力しつつ、腰に拳を当てて口を開く。
「らちが開かんぞ。ユーヤよ、これはまたクイズで決めるしかないようだな」
「クイズ……」
と、ユーヤは周囲を見て、ヤオガミ側の人々と睡蝶を見てから言う。
「よし、じゃあとっておきのクイズで対決と行こう」
「ユーヤさん、でもヤオガミはクイズはあまり……」
「大丈夫、公平にやるから。受けるよな、睡蝶」
言われた方の美脚の化身は、自分を誰だと思っているんだとばかりに豊かな胸をそらす。
「望むところネ、クイズで敵に背は見せないネ」
「じゃあメイドさんたち、ちょっとこっちで打ち合わせを……」
そして時計の針が回り。紙の鎖や紙の花、磁器の壺や絵画などで雑多に飾り付けられて。
向かい合うのは二つの椅子。
ぐるぐるに縛られまくったベニクギと睡蝶が向かい合って、その真ん中には処刑人風の男が二人。それぞれバフムスを持って背中合わせに。
メガホンを持ったユーヤが息を吸い、やや大げさなタイトルコール。
「古今東西、お顔にバフムスううー」
「ちょっと待つネええええええ!」
絶叫しつつもがくのは睡蝶、だが椅子はかなり重いものであり、リトフェットがプロの技で縛ってるためにびくともしない。
「ユーヤどの! 待って欲しいでござる! 聞いてござらぬ!」
もがくのはベニクギも同様。そこはユーヤの口八丁手八丁か、あれよあれよと言う間に見事にかっちり縛り上げられている。力を入れる余地がまったく無く、ベニクギですら抜け出せない。
「えールールは簡単。あるテーマに沿ったものを発言していって、言えなくなったりお題から外れてると負け。負けた方はこちらのですね、バフムスが一歩近づきます。3回負けるとですね、バフムスがこのお鼻のね、ご機嫌をうかがいに来ると」
誰かの真似なのか、妙に軽快な口調で説明するユーヤ。実のところそのようなバラエティ番組の演出、テレビに映らない予選会での司会進行も仕事のうちだった。
「アテム王、バフムスを顔にバフっとやるのはどうなんですかね」
「うむ、バフムスはあまりの香りの良さから、まともに嗅ぐと脳が焼けるとか、鼻に雷が落ちるだとか表現される。人間がふだん使ってない快感受容体が呼び起こされるらしい。顔にバフっとやるのは余ですら経験がないな。盛大なリアクションを期待しよう」
「なるほど、ではお二人に話を伺ってみましょう」
まだモジモジしている睡蝶に歩み寄る。裾丈が異様に短い紅柄を着てるので、かなり眼に危ない光景になっていた。観客となるのは使用人たち。ロープを張って遠巻きにさせているが、上半身を乗り出して血眼になっている。
ちなみに言えば撮影は禁止とした。
「ユーヤちょっと待って! バフムスは本気でヤバいネ! 大変なことになるネ!」
「大変なことというと?」
「…………。そ、その……あ、あられもないというか、へ、変な声が出ちゃう……から」
と、そこでユーヤは少し引いてみせる。
「無理にとは言わないぞ。ギブアップするならいつでも認めるから」
「うぐ……」
ちら、とベニクギを見て、声を潜めて言う。
「い、いや、やるネ、負けるわけないし……」
「む」
と、それを聞いて目を三角にするのはベニクギ。こちらはもがいたせいで裳裾の合わせ目がやや乱れている。さすがはロニというべきか汗は抑えているが、人間観察に長けたユーヤから見ると、やや緊張の色が見える。
「ああ言ってるけどベニクギ、どうする?」
「……ロニたるもの望まれた仕合いは拒まぬでござる。どんな勝負であろうと受けるでござる」
それに、と声を高めて言う。
「心身合一なれば針山を歩むも易し。ロニたるもの、いかような苦痛にも、まして良い匂いぐらいで動じようはずもござらぬ」
「ふーん」
と、その耳元でそっとささやく。
「ギブアップしたいなら早めに言ってくれ」
「要らぬ心配でござ」
「絶対にこれは耐えられないという快感の想像してみて」
と、ユーヤが小声でつぶやき。
「そんなものはそよ風だ」
と、言い置いて場の中央に戻る。
ベニクギはやや目を丸くしてその異世界人を見つつ。
誰も気づきはしなかったが、足元がカタカタ揺れていた。
「さて、じゃあ僕は問題を出せないので……コゥナ、お願いできるかな」
「む、コゥナ様か? よし頼まれてやるぞ」
「なるべく公平にやれるお題でね」
「任せておけ、この遊びはフォゾスでも盛んだった」
「ベニクギ! がんばってくださいねー」
「睡蝶どの、せっかくだから余はそなたの応援に回るぞ。そこの者たち、両方に声援を送れ」
舞台はいよいよ沸き立って、男どもの歓声が、というより絶叫がゴルミーズ宮にこだまする。
「よし、ではこの大族長トゥグートが一子、コゥナ・ユペルガルが進行を務めるぞ。奇妙なことにはこの二人、大陸に名だたる武人だぞ! 罰ゲームを受けるのはどちらか! 皆の者! 二人がバフムスに耐えられるか否か、その眼でしっかり見届けろ!」
うおおおお、と津波のような声が返る。観戦者は百人もいないはずだが、その熱狂は数千人の大観衆を思わせた。
「第一問だ! 激辛スナックにありそうな名前といえば」
「えっ、それ何ネ」
「はい睡蝶から」
「え、ええと、おいも大火災」
「……」
数秒沈黙して、コゥナが大きく腕を振る。
「ベニクギに1ポイントー! さあバフムスが一歩前進だぞー!」
「えええええちょっと待ってえええええ!!」
「……楽しげなことだな」
ぽつり、とこぼすアテムの言葉が、ユーヤの耳に届く。
「アテム、浮かないようだけど」
「うむ……これから難題が山積みだからな。まずは、カイネルと話をせねばならぬし」
「……」
確かにあの時、アテムは過去を深く省みて、カイネルと話し合う必要を痛感した。
しかしやはり、この最も王らしき王。生来の唯我独尊ぶりを体得する人物ならではと言うべきか。
歩み寄るということに慣れていない。過ちを認めても、そこからどう振る舞っていいか分からぬ、という風情である。
「大丈夫だ」
ユーヤが言う。
「生きていれば無数の選択があって、問いかけがある。その全てに正解を出せる人なんていやしない」
「うむ……?」
「大きな喪失、取り返しのつかない失敗、そんなことは起きて当たり前。それをいつか取り返そうともがく。今度は失敗するまいと成長しようとする。それこそがあるべき姿だ、それこそが人生なんだ」
「……そうだな。その通りだ」
たとえクイズが解けなくても。間違っても。
それでもまだ、人生は続くのだと。
ユーヤは眼の前の賑わいを見る。
クイズはいつも楽しくて、大切で、人生に示唆を与えてくれる。
次はどこの国に行くのか、どんな出会いがあるのか。
そしてどんなクイズが、ユーヤを待つのか。
ユーヤは渦を巻くような喧騒の中で、わずかにまどろむような気がした。
その一瞬の眠気の中で多くの思い出が、経験が彼を通り過ぎて。
そして竜の影が。
偉大なる存在の幻が、いつも彼を導いていた。




