第三十四話
「七彩謡精……!」
そう呟いたのは誰だったか。
それはいきなり起きる。視界の上に黒い影がかかり、一瞬後にすさまじい轟音。
それは柱。
角柱状の物体が天井付近から出現し、泥濘の竜の頭を、翼を、胴を、尾を押さえつける。
鉄ならば数万トンに達する重量。脳内に響くのはノイズのような絶叫。
「ぐうっ……!」
アテムがうめく。まるで脳内にモーターを放り込まれたような思念の波。いきりたつ馬をなんとか押さえる。
――体
「あれは、鉄の柱か……? 攻撃されているのか」
「そんなことが……泥濘竜といえば古い神にござる。なぜ妖精と敵対するのか」
――斬る
びしりと、その思念は痛みのような強烈さで来る。虫歯の激痛か、あるいは蜂に首筋を刺されるような。
「た、耐えられぬ……! 何という苛烈な。泥濘の竜よ、シュネスの古き神よ。余に何を言わんとしている。一体、何を……」
――死
「体、斬る、死……。体、斬る、死……そう、それを繰り返している」
ユーヤの呟く先で、竜を押さえつける鉄杭にさらに力がかかる。上空には淡く発光する高位の妖精。その美しい顔には何らの意思も見えず、ただアルカイック・スマイルだけを浮かべている。
ごう、と炎のうなる音が。
鎖で巻かれた顎から、その牙の隙間から炎を漏らす。人間など一瞬で灰になりそうな豪炎を。
「ぐ……ベニクギ! おんしゃあに何か言っておるのではないか! 体を斬って鎖から逃してくれと言っておるぞ!」
ツチガマも思念の波には耐え難いのか、うずくまって脂汗を流している。ベニクギが刀を抜く。
「し……しかし、果たして竜の鱗を、この琉瑠景時で斬れるのか……」
顎を切り裂き、鎖の呪縛から逃れた竜が、火を吹いてあの妖精を倒す。
そのイメージは正しいのか。
(違う……それは変だ)
ユーヤは思念に揺さぶられながらも思考する。
鎖はかなり厳重に巻き付いている。あそこから脱出できるほど体を斬って、竜は無事でいられるのか。
仮に竜がそれでも生存できるとして、あの七枚羽の妖精に勝てるのか。
(そして、そう……それ以前に)
なぜ、人間が泥濘竜の味方をすると思うのか。
――体
「竜よ! 何が言いたいんだ! もう少しだけでいい! 具体的な何かを!」
ユーヤが叫ぶ。だが竜も妖精もその声には反応しない。ただ思念だけが送られる。
――斬る
「なぜだ……さっきはもっと具体的なイメージが来たじゃないか。なぜ端的になる。余裕がまったく無いのか……」
その鉄杭にかかる力はますます強く。ぬかるんだ大地に竜を押さえつけ、さらに岩盤を砕き、土を押し下げてなお強く。
「だめでござる、もはや脱出させるなど不可能……」
「……」
――死
ひときわ、巨大な柱が降り注ぐ。
それは断面が家一軒ほどもある黒柱。竜の背骨を砕き、臓腑を潰す勢いで降り注ぎ、泥が波のように打ち上がる。
地面が傾斜する。ついに破滅的な力によって大地すら崩壊しつつあった。
「いかん! 全員下がれ!」
アテムが馬を引いて後退。くるぶしまで埋まる泥が竜の方向へと流れていく。
「ユーヤ! 乗れ!」
「ツチガマ、走れるでござるか!」
「くそ、まだ死ねぬわ!」
黒柱に押しつぶされ、竜は泥の中に消えつつある。
口腔からとどろくのは断末魔の唸り。牙から漏れるのは炎の吐息。やがてそれも泥に沈む。
ユーヤは強引に馬上に引き上げられ、そして手綱が鳴る。馬が優秀なのかアテムの馬術か、ぬかるんだ斜路であっても力強く走る。
そしてユーヤが最後に後ろを振り向くとき。女神もかくやと思える妖精が天井をすり抜け、竜は地の底に消え、そしてユーヤは、ずっと口中で呟いていた。
「体、斬る、死……」
※
氷神川水守は学校から姿を消した。
卒業式にも出ず、地元にも残らずにどこかへ消えたのだ。
破壊されたプールのフェンスについては、自分の仕業であると七沼が名乗り出た。
しかし教員の反応は穏やかなもので、内々に反省文を一枚書いただけで済まされた。受験のストレスで気がまいっていたのだろうと寛大な処置にされたのか、受験を控えた時期に事を大きくしたくないと判断されたのか。七沼自身よりも、彼の受験を優先するような反応だった。
自分のいる世界は実に小さく、どう行動しても何も変えられず、生暖かい大人たちの寵愛の中で生きているのだと、そんな風に思った。
氷神川の名を最後に聞いたのは、社会人になってからのことだ。
同窓会で誰かがその名を口にした時、誰もがすぐに顔を思い出せず、ややあって様々な言葉が飛び交った。
「氷神川さんは確か……東京でミュージシャンになったとか聞いたけど」
「そうだっけ、沖縄で料理屋やってるって聞いたよ」
「韓国に行くって言ってたはず」
「なんかパンクなことになってるらしいよ、全身にタトゥー入れてるとか」
誰もが適当なことを言い、誰もあまり興味はなさそうだった。そういう人物だったのだと、ようやく客観的に見られた気がする。
「そういえばクイズ研だったんだよね。七沼くん知らない?」
「知らないよ」
そうとだけ答える。みんなそれ以上に追求もしない。
ただ一つ言えることは、彼女はおそらく外見を変えている。
姿を変え、居場所を変え、性格すらも変えて。
18歳までの自分をすべて捨てて、まったく別の人間になったという予感がある。
雑踏の中にいると、彼女の残像とすれ違うことがある。
それはロングコートに身を包んだホステスであったり、重そうなカバンを持った会社員であったり、あるいはベビーカートを押した若い主婦であったりする。
彼女たちは曖昧な笑みを浮かべ、世の中を皮肉げに笑いながら七沼とすれ違う。
あるいはそれは、すべて彼女なのか。
優れた力を持ちながら世の中に埋没し、独特の視点で世界を観測する人々。牙を抜かれてもなお、炎を胸に秘めた竜なのか。
「氷神川さんって、七沼くんと付き合ってたの?」
いつか聞いたような質問だ。大して気になるわけでもないだろうに、義務のように聞いてくる。
「付き合ってないよ」
いつぞやと同じ答えを返す。
ふと、そう尋ねてきた女性が実は氷神川水守ではないか、という妄想に襲われる。
同窓会のハガキをくすねて、別人になりすまして出席し、何食わぬ顔で己に質問を投げるのか。
「同じクイズ研だったんでしょ、どっちが強かったの」
「そうだね……」
すべては酔った上での錯覚。
そう理解しつつ、七沼は皮肉げに笑ってみせた。
「僕は結局、一度も彼女に勝てなかったよ……」
※
砂漠の都。ゴルミーズの街は様々な噂で沸きかえっていた。
まずは世界に二隻だけの装甲飛行船、それが前後に並んで飛び、あろうことか風の道の中で追い抜きをかけたという話。
そしてラジオに奇妙なチャンネルが生まれていたと語る男。そのチャンネルではひたすら早押しクイズの問い読みを行っていたらしい。新しいラジオ局の試験放送ではないのかと、一部の商売人たちがざわめいている。
そしてランズワンでの建物の倒壊騒ぎ、アッバーザ遺跡の一部で崩落が起きたという話。
それらをすべて関連付けられる人間が、果たして一人でもいただろうか。
ごく一部を知っているランズワン・ムービーズの社員、あるいはゴルミーズの騎士たちなど。それらの存在は今後の世界でどのような意味を持つのか、まだ誰にも見通せぬ話である。
「ユーヤ、ここにいたのか」
そこはゴルミーズの低層、一般にも開放されている図書館である。まだ早い時間のためか利用者は少ない。
コゥナは体のペイントは控えめに、羽飾りは少なめであった。起きたばかりで時間がないから、という理由ではなく、朝はそのように簡略化した飾りになるらしい。
「ちょっと気になることがあって」
「調べ物か、もうシュネスの問題は解決したのではないのか?」
あの騒動から一夜。
騎士たちは水庭の階段を登った先にいた。彼らからはアテムの方が急に消えたように見えたらしい。妖精か竜か、どちらかの干渉があったのだろう。
カイネルとツチガマ、カイネルの傭兵たちなどは拘束された。
一連の事件については国民に伏せられることとなり、表面上は何も起きていないことになっている。
噂が流布することは避けられないであろうし、多宗教化に絡む問題や、氏族間の紛争。シュネス全体の政情不安が解決されたわけではないが、それはまた今後の課題であろう。
泥濘竜の事はコゥナとズシオウたちにも話したが、さすがにあまりにも突飛なことで、信じられないという感情がまずあった。
だが、コゥナにも身に覚えはあった。
「思えば今回の事件。ずっと妖精が見え隠れしていたぞ」
「……そう思う?」
「うむ、バラマキクイズで何度もハズレを引いたこともそうだし、飛行船追い抜きクイズでは普段より遥かに強い風が吹いた。ぎりぎり偶然の範囲ではあるが、どうもコゥナ様たちを妨害していた気がしてならんぞ」
「そうだね……」
だがその妨害は、あくまでも確率的にあり得る範囲に収まっている。干渉できる事に限界があるのだろうか。
それは何故? 考え出せばきりがない。
「ユーヤよ、妖精は何がしたいのだ?」
「わからない……」
コゥナの率直な質問に対して、ユーヤは言葉を持たない。ユーヤにも、まったく何も分かっていないに等しいのだ。
「……推測ではあるけど、今回に関しては、やはりアッバーザ遺跡だ」
「遺跡か」
「泥濘竜は実在した。妖精たちはその顕現を阻止したかった。だから僕たちに干渉してきた竜を、再び地の底に沈めた……」
「うーむ」
おそらく、機会を狙っていたのは泥濘竜も同じ。自分たちに接触する機会をうかがっていたのだ。
「気になることとはそれか?」
「それもあるけど。いま考えてたのは、竜から届いた思念のことだ」
読んでいた本のタイトルを示す。
『世界の神話と竜』と書かれていた。
「何か参考になるかと思ったんだけど、泥濘竜については複雑で……」
「うむ。フォゾスにも「泥に竜あり」ということわざがあるし、ラウ=カンにも似たような竜の話がある。ヤオガミにもあるからな、実に広範囲に広がってる話だ」
想像上の獣が他国へ伝播し、他の怪物と同一視されたり、新たに設定が生まれたりして複雑化し、元々の形が分からなくなる。それもまたよくあることか。
「仕方ないね……この世界の神話は学び始めたばかりだし……」
そしてユーヤは、三枚のカードを出す。
「これがあの時、竜から届いた思念だ」
カードには左から。
「体」「斬る」「死」
とある。
「この組み合わせで何か……」
「まあそれはそれとして、アテム王が呼んでいたぞ」
「アテムが?」
「うむ、例の」
「ユーヤさーん」
と、ぱたぱたと裾をはためかせながら来るのは白装束の人物。
ズシオウが頬を赤らめて走ってくる。
「バフムスが届いたそうですよ。ぜひユーヤさんに味わってほしいと」
「こらズシオウ、いまコゥナ様が伝えようとしてたとこだぞ」
「バフムス……そういえばそんなの頼んでたね」
と、ズシオウは机の上のカードに興味を示す。
「何です? これ」
「昨日話したやつ……二人とも、もう少しだけ付き合ってくれないか」
カードの文字を、二人の方に向ける。
「この三つを組み合わせて文章を作るんだ。竜は何が言いたかったのか」
「ユーヤよ。昨日もずっと考えていたではないか。もう終わったことではないのか?」
この男には果たして休むという発想があるのか。コゥナはあきれ顔で腕を組む。
「クイズに答えられなくても、終わりじゃないよ」
ユーヤはふいに、どこか遠くを見る眼になって言う。
「生きていれば、答えられないクイズは山のようにやってくる。気の利いたことは言えないし、的はずれなことも言うし、そもそも問いかけだったことも理解してない。僕の人生はずっとそんな感じだ」
「そうなのか?」
「そうだよコゥナ。だからいつもうじうじと、過去のことばかり考えてる。あの時はこうすれば良かった。こう言えればよかった。もし次に同じ問題に出会えたら、今度こそ答えてみせる。その答えを言うために生きている。そんなどうしようもない有り様なのが僕なんだ。でも生きてる限りは、そんな人生から逃げたくないと思ってるんだよ」
「うーむ、なるほど分かるような分からんような」
「分かります」
とズシオウ。
「私もいつも思っちゃうんです。お団子じゃなくてお煎餅にしておけばよかったって。お団子だとその後のご飯が入らなくなるんです」
「…………そうね、血糖値上がるからね」
それはともかく、とズシオウは机に両手をつく。
「この三枚で、文章ですか」
「そう……いくつか意味が通るものは浮かぶけど、何だか違うような気がしてて……」
シュネスハプトの街に、ゴルミーズの黄金宮に朝が訪れる。
今日もまた妖精とクイズが世界に満ち、一見すれば足らざるものなき、平和な日々が繰り返されようとしていた。




