第三十二話
※
踊っている。
昼下がりの冬空はにわかにかき曇り、襟首から忍びいるような寒風が吹いている。
風を受けて氷神川水守が踊る。プールサイドを揺れるように歩き、スカートを適当に脱ぎ捨てて放り投げる。
「いい天気。今日は暑いよね」
「……」
七沼もその後に続く。プールの水が冬でも満たされているのは防火用水のため、そんなことが頭をよぎる。
校舎の裏手側にあるプール。周辺に人の気配はない。
フェンスの一部を金切りバサミで切断して忍び込んだ。日曜の校舎では運動部がわずかにいる程度で、それもプールとはかけ離れた場所にいるとはいえ、誰かに見咎められないか不安でたまらなかった。
今の彼女が、誰かに見られたらどうなってしまうのか。
「泳いだら気持ちよさそう」
プールの水は暗緑色に淀み、プールサイドも足がぬるりとすべる感覚がある。すえたような水苔の匂い、塩素の匂いはあるかなしか。
七沼は何も言えない。
ガラスの橋を渡るような感覚。足元は今にも壊れそうなほどきしみ、何かを言えばすべてが一気に壊れ、千尋の谷に落下していくような。
休日とはいえ、学校職員も少しは出勤している。プールのフェンスには目隠しの板があるが、近所の住人に気付かれないとも限らない。何より破壊したフェンスは隠しようもない。
すべては不可逆なところまで壊れている。
それがいつからなのか、誰が壊したのか、あるいは最初から壊れていたのか。
壊れているのはどちらなのか……。
氷神川は下着を脱ぎ、ローファーと靴下も脱ぎ、それから上着を脱ぐ。何もかも適当で、順番などどうでもいいという気だるさ。
そして飛び込みのブロックの上に立ち、片足をそっとプールの上に差し出す。
「氷神川さん」
七沼が止める。一糸まとわぬ少女は首を巡らせ、七沼を見る。
やはり顔はない。
記憶の中ではその人物の外観というものがない。
セーラー服という記号だけがあり、その人物そのものの姿を覚えていない。裸体を直視するまいと思っていたためか。それとも七沼だけの認識の歪みなのか。
これは本当に、現実に起きたことなのか。
「なに」
氷のような。
触れれば指が凍てつき、砕けそうな気配。
「……お」
言葉が喉に詰まる。舌の根を指で挟まれていると感じる。
「泳ぐのは、やめたほうが」
ようやくそれだけを言うと、氷神川はくるりと反転して、別の飛び込みブロックに飛び移る。
「じゃあ七沼くん、代わりに泳いで……」
「いいよ」
腕が意思を離れて動き、衣服を脱ぎ捨てていく。
操られるように、命令を与えられた狩猟犬のように。
そして下着以外をすべて脱ぎ落すと、ためらいなくプールに降りる。
瞬間、全身の細胞がぎゅっと縮まるような感覚。骨にまで届く寒さに生命の危機を覚える。固く歯を食いしばる。
わずかな水流だけで刺すような寒さ。全身の皮膚がむしられるような痛み。
だが何も言わず、ばしゃばしゃと泳ぎ始める。吹雪の中ですらそうしただろう。
死に近づくことに甘い誘惑がある。これは当然の結果なのだと。この場で彼女に殺されるなら、それが何よりの救いなのだと。
水中では空気中に比べ、25倍の速度で体温を奪われると言われる。
衣服を身に着けていなかった場合は急速に低体温に近づき、水温10から15度の場合、意識を保っていられる時間はおおよそ1時間から2時間、腋の下や膝の裏、頭部などを水につけるとさらに熱が逃げやすくなり、動けばなお危険が高まる。
そしてたっぷりと残酷に、七沼は何度もプールを往復する。ばしゃばしゃと孤独な水音。氷神川は見ているのかいないのか、裸のままでぼんやりと座り込む。
やがて力尽きたように、七沼が動きを止める。
さほどの時間は経っていないが、すでに全身を真っ青に凍てつかせている。すでに震えることもできず、心臓の拍動や呼吸もだんだんと遅くなる。
氷神川はプールのヘリに座ったまま、足先を宙にふらつかせる。
「……ひ、氷神川さん」
「どうしたの」
ふいに話しかけられたように、ぼんやりと応じる。思考力の落ち始めている頭で七沼は言う。
「そんな恰好じゃ、寒いよ……」
そう言う七沼の顔を、氷神川は表情を変えずに見下ろす。何を考えているのか、何をしようとしているのか、あるいは泳いでいるのは誰なのかを考えるような顔。
ようやくその名を思い出したかのように、彼女は口を開く。
「七沼くん、私のことどう思ってる」
「魅力的だよ、誰よりも」
ぼやけ始める思考の中でも、揺るがない答え。
だがそれを聞いて、氷神川はうんざりしたように背骨をそらす。
「七沼くん、何かがおかしいと思わなかったの」
「……何が?」
「なぜあなたは、私のことを魅力的と形容するか分かる? なぜクイズ研のお別れ会で三年はあなたしかいなかったと思う? なぜ誰も私の進路を知らないのか理解できる? それはもちろん私が一人を望んだからだよ。でもそれは世の中の意見と合致していた。私は一人でいることを望んだし、世界も私から遠ざかっていたの」
「何を、何を言っているのか……」
「あなたには、私が絶世の美女にでも見えるの?」
立ち上がり、両腕を広げて体をさらす。昼下がりの逆光を受けてそのシルエットがくっきりと見えたはずだ。
だが何も見えない。記憶の中の彼女の姿は曖昧であり、セーラー服という記号の他に何も見えない。
「私は自分の姿が嫌いだった。具体的なカタチがどうこうじゃない。一目見た時の印象、鏡を見た時に自分を見返してくる不敵な顔。どうしようもなくにじみ出る小ずるい印象。世の中を斜に構えたような顔が嫌いだった。それを超えて魅力を放つような美しさは持ってなかった。それが七沼くんには分かっていない。私にだけ特別な感情を向けてると思ってた。あるいは誰にも分け隔てなく接する心の広い人と思ってた」
「何、を……」
「七沼くんは、人の美醜が分からない」
一瞬、寒さすら遠ざかるような。
己が深海の底に落ちていくような感覚が。
「七沼くんを満たしてるのはクイズへの信仰。何かに深く没頭して、卓越した強さを持つ人への憧れだけ。でもそれも身勝手な自分だけのルール。あなたの価値観に合致しない人間は容赦なく切り捨てる。あなたの世界のクイズ王は、つまりはあなたに選ばれた人」
「そんなことは……ない」
寒さに震える中で、自分が何を思考しているのかも分からない。思考がいくつにも分裂するような感覚。
「誰よりも勝った人が、誰よりもクイズを愛しているわけじゃない……。君は勝利が欲しかっただけ……。きっと、世界のどこかには、誰よりも純粋で尊ぶべき、完全無欠のクイズ王が……」
「そうよ、私は勝利が欲しかった。勝利した瞬間だけ、みんな私のことを見てくれる。それが私の人生でのわずかな慰めになると思った。それの何がいけないの」
つま先で水をかきまぜる。それだけで七沼のまわりの体温の膜がはぎとられていく。
「世の中を見て。この世に勝利できる人間は悲劇的なほど少ない。トーナメント表はいつも気が遠くなるほど大きくて、生まれ持った差はどうしようもなくて、ほんの少しの偶然で人生の粗筋が決まってしまう。それは受け入れられなかった。だから私は偶然を制御しようとした。偶然に干渉できるクイズは魅力的で、私の眼から見れば公平だった。少なくとも、今はね」
「……」
「やがてそれも終わる。クイズ王たちの中の一握りの異端。怪物と紙一重の強さを持つ人たち。それはきっと排除されてしまう。芸能人か、あるいは番組の機微をわきまえたプロのクイズ王しかテレビに出なくなる。それは当然だよね。番組は怪物たちのものじゃない。テレビ局のものなんだから」
その言葉は速度を増し、彼女自身にも何を言っているか分からないように思えた。
「ねえ七沼くん。あなたには、私が何に見える……?」
「……」
手足の感覚が遠くなる。意識は朦朧として、心臓からも熱が抜けていく気がする。
「王冠をかぶったクイズ王? それとも牙と爪を持って、泥を這いずる怪物……?」
「氷神川さん、は」
七沼の唇が、あるかなしかの言葉を紡ぐ。
「憎んで、いるんだね……この、世界、を」
「そうだよ」
七沼の濡れた髪を氷神川が掴む。水没しかけていた七沼を助けるというより、水中に逃げさせないために思えた。
「ある時、私は理解した。私はこの社会に向いてない。私の思考はいつも秩序に反してる。私のやる努力は世界を壊す方向に向かう。まともな勉強とか、社交性を学ぶことに反吐が出るの。私が社会と接する唯一のことは勝負事だけ。だからクイズしか無かったのよ。傑作でしょう? 私は私が嫌いで、世の中が嫌いで、社会を作るすべての人が嫌いで、競争に見せかけた馴れ合いが嫌いで、社会に組み込まれるしかない18歳までの人生すべてが嫌いで」
そして、と息を呑んで。
「あなたのことは、好きだったよ、七沼くん」
もはや意識もあるのかどうか。
あるいは急性の心不全かショック症状か。七沼の生命の火は消えかけていて。
どぼんと大きな水音がして。
暗黒に満たされた意識の中で。呼吸するたびに温かい空気が肺を満たすような夢を見て。
そして夢の中で、氷神川の顔は汗だくで、真っ赤に紅潮していて。
――七沼くん、さっきの勝負、なぜあなたが勝てたか分かる?
――私は、これまで生きてきた18年のすべてを賭けたけど。
――あなたはきっと、これからの人生すべてを賭けたんだね。
心臓の拍動が止まる。
意識が無へと落ちていく。
聞こえる言葉は、夢か幻か。
本当にこの世界の言葉なのか。
――だから七沼くん、私の代わりに探して。
――誰もが認めるような、素晴らしいクイズ王を、死ぬまで探してね。
――だから七沼くんに、私をあげる。
――秩序を壊す考え方。ルールの穴を見つける小ずるい眼。それをあげる。七沼くんは私を連れて、死ぬまでクイズの世界で生きていって。
胸部に強い圧迫。
腹部に感じる熱。
やがて心臓が。ゆるやかな、微弱な。
動き出すことを、ためらうような、拍動を――。
――死んだぐらいじゃ、やめられないかも、しれないけれど。
※
強烈な陽射し。乾ききった空気。
頭に濡れ布巾を置き、汗だくの顔でじっと腕を組むのはコゥナである。
「お前たち、大事ないか」
黒猫はかなり乱暴な着陸をしていた。ねじれ風を避けるために急な舵を切ったことが、船体のダメージになっていたようだ。
太陽鳥の船員が何人も乗り込み、黒猫側の人員を担ぎ出してくる。
ぐったりしてるのは主にランズワン・ムービーズのスタッフであり、船酔いだったり、転んでどこか打ったりという者が多い。
「捻挫が数名、あとは軽い怪我のようです。あとで医師にも見せますが、入院までは行かないでしょう」
「うむ、よかった。これもお前たちの操船の技ゆえだな」
そして。スタッフの肩を借りて出てくる白髪の老人。
さほど高齢ではないはずだが、かなり老け込んで見えた。あれほどの揺れに耐えてクイズを戦っていたのだ、当然だろうとコゥナは思う。
ズシオウが話しかける。
「カイネル様、大丈夫ですか? 無理なクイズに付き合わせてしまいました。お詫びするとともに、戦っていただいたことを感謝いたします」
試合の前には挨拶する暇もなかったため、ズシオウは今更ながらに深々と頭を下げる。
「ヤオガミの国主どの……もはや正確には王籍もない私に、そのように礼を示していただき感謝する」
カイネルは何かを観念するように、あるいは大きな荷を下ろすかのように礼を返す。
「フォゾスの姫君も……あれほどの押しを見せるとは思っておらなんだ。その実力に敬意を払いたい」
「いいや、ユーヤという男の作戦あってのことだ。実力では完全にカイネルどのが勝っていた」
「謙遜なさるな、これも妖精の導き。それにこの飛行船追い抜きクイズも、無茶ではあるが、なかなかに心躍る部分も……」
ざわつく気配。三者が揃って首を向ける。
夜猫側のスタッフが騒ぎ出している。
「どうした?」
とコゥナが尋ねれば、暑さのためだけでなく汗だくになった男が、言いづらそうに報告する。
「その……乗っていないのです。いま総員で確認しておりますが」
「乗っていない……まさか! 誰か落ちたのか!?」
コゥナの声にズシオウらも血相を変えるが、しかしスタッフたちは顔を見合わせ、さらに小声で確認しあってから言う。
「いえ、人ではありません。点呼も取れております。その……妖精が」
「妖精?」
「夜猫側に乗っていた七彩謡精がいないのです」
籠いっぱいの宝石で呼び出すという、世界で最も貴重な妖精。
それは数十億の国家財産が行方不明であることを示す。
だがコゥナはさらに蒼白になっていた。ほんの数日前、ユーヤから聞いていたパルパシアでの異変のことが連想される。
「まさか……!」
「七彩謡精だと!」
コゥナの肩を掴んで前に出てくる。それは白髪の老人。
「確かなのか! 同室にいたスタッフはどうした! 司会の男は!」
「その……全員が気絶していました。すでに目は覚ましましたが、何も覚えていないと」
「カイネル先王……?」
老人は激しく爪を噛み、目を一杯に見開いて早口で独り言を呟く。
「まずい……何が起きるか分からぬ。だがなぜだ。何に反応している。我らに鏡を使う意思はないはず……ツチガマの戦いは飛行場での予定だったが、そういえばアッバーザ遺跡はほど近い。まさか影響が……」
「カイネルどの! 何か知っているな! 教えてくれ!」
コゥナが叫ぶが、老人の反応は鈍かった。奥歯を強く噛み締めてから、ゆっくりとコゥナの側を向く。
「何も……何も知らぬ。この数十年。発掘されたいくつかの碑文。山のような古文書。そんなものをいくらひっくり返しても分からなかった。ただ一つ、言えることは」
「……言えること、は?」
「この大陸は、妖精に支配されている」
「そして古き神々は、妖精の王に滅ぼされた……」




