第二十九話
※
最後の駒が、手描きの盤面に置かれる。
「僕の」
互いに、全身に汗がにじんでいる。部室のストーブを強めにしていたせいでもあるし、一打に全身全霊を乗せるような早押しのためでもある。
「僕の勝ちだ。14対11……」
「う……」
氷神川は膝をつき、かろうじて手で机のヘリを押さえている。全身から力が抜け、魂までもどこかに消え失せそうな忘我の心境か。
「……どうして、どうして私、が……」
「君の技術を真似した。出題の傾向、定番問題、記念日問題、ギリギリのところで競り勝った……」
「真似……」
氷神川が、ひどくゆっくりとした動作で七沼に顔を向ける。
そこに顔はない。
鼻も口も、眼も髪型も判然としない、空白の記憶。
思い出の中の彼女は己の顔を持っていない。
「そうなんだね……すごいね七沼くんは。受験勉強しながら、私の技術を自分のものにしたんだね……」
「まだ君にはとても及ばない。勝てたのは偶然だ」
それは本当にそうとしか思えなかった。コンマ一秒の競り合いと、1ポイントの増減を計算に入れる勘押し。期待値の高い択一問題で正解を拾えたのも大きかった。
「怖かったよ……」
「え……?」
氷神川のつぶやいた言葉、その意味が分からずに聞き返す。
「怖いって思った。その早押し、先読み。答えが確定してない段階での押し。きっと私たちの戦いは怖かった。人じゃない、竜や魔物の戦いみたいに見えたと思う。七沼くんに真似されて、よくわかった……」
「……いつかは、氷神川さんが戦える場所も見つかる。もっと高度で、十分に練られた問題で競い合える場所が」
「……でもそれは、きっとテレビじゃないよね……」
「……」
泣いているのだろうか。氷神川の背は震えている。
「テレビに出たかったの」
「……」
「そして勝ちたかった。それが生きてきた証になると思った。この泥に埋もれたような人生で、救いになると思った。もし出られないなら、私の人生なんて何の価値もないって……」
テレビに出て、勝利する。
ただそれだけ。それだけに人生を賭け、あらゆる努力を惜しまない人々が、かつて存在した。
氷神川もそうだったのだろうか。フラッシュ25の出場こそが人生の絶頂であり、その一点に青春をかけていたのか。
「そんなことはない!」
その体を抱きしめて、七沼は井戸の底に叫ぶように言う。
「君は誰よりも魅力的なんだ! 何にだってなれる! どこへだって行けるんだ! クイズにこだわる必要すらない、どんな分野でも、一流になれる……」
ふと、七沼の動きが止まる。
氷神川が自分を見ている。思い出の中でその顔は白い繭。表情も顔立ちも思い出せない。
だが何故か、ぞくりと背中を這うような冷気が。
「七沼くん、あなた……」
氷神川の手が。
その指が七沼の腕を掴む。指の一本一本が食い込むような、縄で縛られるような痛みが。
何かが氷神川の中で噛み合って、理解されて、それが彼女を冷静にさせている。
あるいは、心を凍てつかせている。
今ようやく、眼の前にいるのが両親の仇なのだと気づいたような、そんな気配が――。
「氷神川、さん……?」
「……七沼くん、泳ぎに行こうか」
「え……」
すらりと立ち上がる、その背後には、すっかり葉の落ちた校庭の樹。そしてさめざめと透き通る冬空。
「プールだよ……行こう。一緒に泳ごうよ……」
※
砂漠を渡る馬はそれに特化した品種であり、引き締まった細身の体と前傾の首が特徴的で、砂地を跳ねるように走る。
前方にはツチガマの駆る茶褐色の馬。続いてアテムの白馬が追い、ユーヤは黒衣の騎士と二人で騎乗している。
ユーヤの知る馬よりもかなり優秀に思える。砂地とは思えぬ速度で疾走し、どのような走り方をしているのか、大きな蹄鉄はほとんど砂に埋もれないように見える。空港は見る見る後方に遠ざかる。
やがて左右に土壁の街が生えてきて、朽ちかけた古いレンガの道を進めば、そこはもはや遺跡の中である。
「ずいぶん空港から近いんだな……3ダムミーキも離れてない」
「この一帯は草一本生えぬ不毛の地でした。砂が細かすぎて農耕も牧畜もできず、その平坦さを空港として利用するぐらいしか使い道がなかったのです。アッバーザ遺跡の発見は偶然によるものです」
「……不毛の地? かつて都市のあった土地なのにか?」
「砂漠の水脈は移動しますので」
「……」
背後からは別の馬でシュネスの騎士たちが来ており、リトフェットもついてきている。
やがて、隊列はひときわ大きな建物の前で止まる。
大きいと言っても遠目には姿が見えなかった。その部分だけがすり鉢状に掘り下げられており、砂の底に建物があるのだ。元々は莫大な砂に埋もれていたことを思わせる。
建物とは、巨大な円柱によって屋根を支える構造物。
壁が崩れているが、かつてはパルテノン神殿のような荘厳さがあったのだろう。宗教的施設か、あるいは集会場か議事堂だったのか、そのような研究は今後数十年の課題である。
ぽん、と音が聞こえる。振り返れば空港のあたりから3発、白い煙弾が打ち上がったところだ。
「勝ったか……よかった」
「このあたりでええじゃろう」
ツチガマの前にはちょうど樽のような、腰の高さまでを残して朽ちた円柱があった。濃緑色の裳裾がその向こうに動く。
「ラジオは用意しとるじゃろうの」
「もちろんだ」
ユーヤが背後をちらりと見る、水色リボンのメイドが駆けてきて、やや古びたラジオを柱に置いた。
それは円筒形をしており、外見は水筒のように見える。全体に花や蝶の絵があるが、それは漆のような樹脂で描かれていた、内部で妖精を操る機構はハイアードのものだが、ケースはセレノウにて職人が作ったものだという。
――はかない甘さとせつない苦み、リッパルド社の炭クッキー
――お値段据え置き、三割増量
チャンネルを調整すれば、流れ出すのはお菓子のCM。そのノイズの混ざった音、上ずるような男の声に、かすかなノスタルジアを覚える。
懐中時計を見れば、放送開始までおよそ180秒。
「確認しよう。僕と君との勝負はパルパシア遊興放送、昼の帯番組の「まだ見ぬあなたと」の冒頭で行なわれるゲスト当てクイズ、先に答えた方が勝ちだ」
「ひ、ひ、ええじゃろ」
「早押しの代わりにラジオを手で奪うことにしよう。ごく稀にクイズがない時や、緊急放送で番組が差し替えられることもある。クイズがあることを確認してから取ること」
「当然じゃのお」
「一問限りの勝負だ……お手付きと誤答は、もちろん相手の勝ちとなる」
「ひ、ひ……」
懐中時計を見る、まだ1分近くある。
周囲には何人かの騎士が集まってきている。アテムは周囲を見るが、ベニクギは見つからない。あの傭兵の隠密術も人間を超えているが、この異世界人が彼女を計算に入れているのかどうかは誰にも分からない。
そのユーヤはラジオの前に棒立ちとなり、窪地に吹き込んでくる風にタキシードの裾がなびく。
(……ユーヤ)
アテム王はその背を見つめる。
ついにここまで来たのだ、という感覚がある。
あの信号弾、信じがたいことだが、コゥナたちはカイネルに勝利した。
ならば、ユーヤとツチガマの戦いにおいても必ず勝つ。それは分かる。
(分からぬのは、それ以外の全てだ……)
「まだ見ぬあなたと」とはパルパシア遊興放送にて40年の歴史を持つトーク番組である。
これまでに登場したゲストは一万人を超え、長年司会を務めるクロナギ女史は国際的な知名度を持ち、大陸最大の貧困支援団体の幹部であり、女優であり作家であり、パルパシアの議員だったこともある人物だ。
ゲスト当てクイズは通常スリーヒントで行なわれる。最初に趣味や好物などの遠めのヒント。次は出身地や最終学歴などプロフィールに関すること。
最後は出演した映画や、作家なら著作物など仕事に関するヒントだ。
難易度はそこまで高くはない。アテムも最初のヒントで当てたことが何度かある。
(疑問点は3つだ)
1つ、なぜユーヤが戦うのか。コゥナとズシオウでは勝てない理由は何か。
1つ、なぜツチガマは、この勝負をあっさり受けたのか。
1つ、ユーヤはどうやって勝つつもりなのか。
それらの疑問、あるいは問題を検討していたメイドたちなら、何か答えられるかも知れぬ。
だが、この場には水色リボンのメイド一人しかいない。
ユーヤが言っていたように、この作戦がツチガマに漏れてはいけないから。わずかの表情の揺れすら見せたくないから、ということらしい。
背後をちらと見る。そのメイドは唇を固く結んで表情を出すまいとしている。
(……かつて、ユーヤはイントロクイズにおいて、百の楽曲をわずかな時間で覚えたと聞いている)
(ならば、ゲスト当てクイズにも対応できるのか? すべての芸能人、作家、その他の著名人を網羅したとでも……)
「……」
アテムも時計を見る。秒針の歩みが遅い。1分が数十分にも間延びしたように感じる。
CMが終わればまたCM。それが何十回も繰り返すような錯覚。
ツチガマは一歩、ラジオに近づく。ラジオを挟んで向かい合う。刀を持つならば一撃必殺の間合い。
(……ユーヤよ、一体、どうやって)
「大丈夫だ、アテム」
こちらを振り向かぬままユーヤが呟く。褐色の肌を持つ王子は、射すくめられたように固まる。
「一瞬で終わる」
その背中、仕立てのよいタキシードの背に、ゆらりと熱気の立ち上るような気配が。
「ひ、ひ……」
ツチガマはさらに一歩、ラジオに近づく。ほとんど上半身を覆いかぶせる形となる。襟の合わせ目が崩れ、肌が大きく露出する。
(……そう、あの時)
(ユーヤは、余が「あやつはコゥナ姫たちの勝負を見たくないのか?」と言ったのに応じるように)
――見たくないんじゃない。見られないんだ。
(そう言っていた。あれはどういう意味……)
――皆さまごきげんよう。
ラジオからの声。場の全員が石化したように息を止める。
――クロナギのお送りいたします「まだ見ぬあなたと」今日のパルパシアの空は澄み渡った快晴。旅行にでも出たい日和ですね。
――今日もたくさんのトークをお届けしましょう。さあ最初はこちら。本日のゲ
刹那。
閃光が走る。
柱の上からラジオがかき消え、あまりの速度にぶわりと風が吹くような感覚が。
ラジオを手にするのは――ツチガマ。
「!!」
アテムが、背後の騎士たちが驚愕に硬直する一瞬。
だが。
「な――」
そのツチガマの顔が、歪む。
片方の口の端を耳まで引きつらせ、鷲鼻の面の向こうで左右が非対称の形相となり、ぶわりと玉の汗が浮かぶ。
アテムが眼を見開く。
(何が……!)
(何が起きている!?)
「常識で考えて」
ユーヤが冷厳と告げる。一秒が何倍にも引き延ばされるような感覚。振り上げた腕をわななかせ、ラジオを握りつぶさんばかりに力を込めるのはツチガマ。
蝦蟇のように脂汗を流し、地獄の火で焼かれるような苦悶を浮かべるのはツチガマ。
「第一ヒントが一文字でも読まれたらその時点で時間切れだ。早く答えを言うんだ」
「なぜじゃ……なぜ」
――ゲスト当てクイズのお時間です。
「さあ! 早く!」
――まず最初のヒントはですねえ、この方、趣味はケーキ作り……
「――ッッ!!」
ツチガマの口からほとばしる、それは千の断末魔を束ねたような声。歴戦の騎士たちが骨を砕かれたかのように金縛りにあう。ラジオが投げ捨てられる。
そして刀が疾走る。
一瞬、この場の全員を斬り捨てんとする意思を込めた長刃。
その軌跡に割り込む影は赤く。
ぎいん、と鳴る音が天の高みまで届く。火薬の爆ぜるほどの火花が。
いつの間にそこにいたのか、幽鬼のようにゆらりと現れるのは緋色の傭兵。
「ベニクギ!! おのれ!」
「勝負はついてござる! ツチガマ、そなたの負けだ!」
「ぐ……うう、ぐぐ、ぐ」
ぎち、と砂利を踏みしめるような音。何人かはツチガマが己の歯を噛み砕く音なのだと理解し、鳥肌に襲われる。
「わ、わしは……!」
ぎん、と板バネをはじくような音をさせてツチガマが退く。アテムがまだ混乱の中にありながらも鋭く命じる。
「取り押さえろ! 遠巻きにして網を使え!」
数人がハッと気づき前に飛び出す。その手にあるのは対人用の投網。鉄線を何重にも織り込んだものだ。数人が同時にそれを投げる。
「ぐうっ!」
だがまだ遠い。ツチガマはすんでのところで刀で跳ね除け、さらに後方に飛ぶとその場を逃げ出す。
馬に乗る余裕すらなく、砂の坂を這うように登り、古代の都市へと駆け出す緑の影、それをベニクギが追う。アテムが叫ぶ。
「やつを追え! アッバーザ遺跡の全体に包囲を敷くのだ!」




