第二十五話
「クイズで……」
テレビからの音が際立って聞こえる。二人の距離が無限に離れていくかのような、あるいは二人の他のすべての人間が消え失せるような感覚。彼と我と、クイズの他には何もなくなる。
「ルールはこうだ」
二つの早押しボタンがテーブルの上を滑り、氷神川のそばへ。
「問題の読み上げに合わせて僕たちも早押しを行う。解答はランプがついてから行うこと。テレビの側の出場選手が答えを言ったら、たとえそれが誤答でも二人ともが解答権を失う」
「……」
机の上に紙が置かれる。機械で描いたように正確な、5×5のマス目が描かれた紙だ。
「この盤面にオセロの駒を置いていく。最初は必ず中央に置き、基本的なルールはフラッシュ25に従う」
フラッシュ25におけるマスの取り方には、何十年も変わることのないルールが存在する。
・裏返せる駒があるときは、必ず裏返す。
・裏返せる駒がないときは、次の一手で裏返せるように取る。
・それ以外の場合は、すでに置かれている駒の縦横斜めに隣接する位置を取る。
長い歴史の中でセオリーは組み上げられていき、極めてレアなパネル状況での次の一手は、最後のパネルクイズのために、どのパネルを開けるのが有利か、そのようなことがマニアの間で語られていた。
「……フラッシュチャンスはどうするの」
「駒を一枚取り除く。存在する駒がすべて同じ色だった場合など、どの駒も取り除きたくない場合は権利の放棄も認める。過去に一度だけフラッシュチャンスを放棄した選手もいた」
「お手付きと誤答のペナルティは」
「二人で行うんだ、一回休みがいいだろう。ただしこの形式での特例として、僕達がボタンを押して答えるまでの間に、テレビで参加者が解答を叫んだ場合は誤答として扱う」
「シンキングタイムは7秒あるけど、この形式だと長考は危険ということね……」
氷神川は二つの早押しボタンをそれぞれ何度か押し、ランプの点灯や押し具合を確認すると、一つを七沼へと返す。
「全員スルーやお手付きが続いた場合、問題数が増えることもあるけど」
「こちらの盤面がすべて埋まった瞬間に終了とする」
「……その逆に、こちらの盤面が埋まる前に、番組が終了してしまうことも……いえ」
言いかけて、少女はかぶりを振る。
それは、あるはずがない。
もしこれが社会人のクイズサークルが集まった回であろうと、チャンピオン大会であろうと、遅れを取るはずがない。それは客観的な分析というより、クイズに生きる人間が持つ一種の傲慢さ。若く才気に溢れるクイズ戦士が持つ誇りの現れだった。
「やるわ」
「ありがとう、氷神川さん」
二人は長机を挟んで並び、片耳に神経を集中させてテレビの音を聞く。
「私が勝ったら、出場権の破棄だけじゃ済まさない。二度と私の前に現れないで」
「わかった」
「……私に勝てると思ってるの? 七沼くん、いつも裏方だったでしょう。作問は熱心だったけど、「押し」の研究には消極的だった。フラッシュ25についてだって」
「勝つとも」
CMが終わり、定番の音楽と司会者の声。それが日本中に流れる刻限。
誰も知らず、語られることもない。
世界で最も真剣なクイズの時間が、生まれようとしている。
脳幹を上昇してくるクイズの熱が、視界をぼやけさせるほどの高揚を――。
「勝たねばならない。君のことを見ていたから。君にクイズを壊させはしない」
「私のこと、好きなの」
冷ややかな、道端の小石に語りかけるような声。
「誰よりも魅力的だ。何もかもが」
「ふざけてる」
そしてオープニングクイズ。二人がクイズの時間に没入する直前。氷神川は誰にともなく呟いた。
「私は、クイズしか持ってないのよ」
――問題、別名をマーカ/ス島と
ぴんぽん。
点灯させるのは氷神川。
「南鳥島!」
※
シュネスハプトの街は朝から騒々しかった。
すべての市場から、商店から、蜂蜜とベリー系の果物が買い占められたのだ。
それだけではなく、市民はなるべく外出せず家にいるようにと騎士が触れ回り、飛行船が全便運休になることも告げられる。同様の内容はシュネスの国営放送でも繰り返された。
紛争の続くシュネスのこと、戒厳令は珍しくはないが、それだけにどうも戦とは様子が違うようだと目ざとく気づく者もいる。
ある者は噂話に興じようと人の集まる場所へ出向き、ある者は何も塗ってないトーストを片手に市場をうろうろしている。
そして駆り出されるのはゴルミーズ宮の使用人たち。騎士や兵士たちは他の都市からも集められていた。早朝から蜘蛛の子のように砂漠へ散っていく。
空を見上げ、鳥たちの動きを見て商人の道を見極め、それに沿ってラクダの荷車が走る。
一人か二人が次々と降り、降りた先で座り込むと、膝の上にまな板を広げて蜂蜜と果物を練っていく、それが延々と、地平線の果てまで。
「どうやら間に合いそうだ」
疲労と寝不足の張り付いた顔でアテムが言う。
「およそ50ダムミーキの距離を紫晶精で埋める。20ミーキの距離を置いて3列でな」
ラクダの牽く馬車に乗り込むのはユーヤと王たち。リトフェットなど使用人は後続の馬車に乗り込み、砂漠を進む。
ズシオウとコゥナは朝からずっと練習していたと聞くが、今もテキストの紙束を読み込んでいる。それをしながらコゥナが視線を上げる。
「アテム王、そうなると単純計算で7万5千個の紫晶精が必要になるぞ」
「うむ……実際はもう少し間隔を狭めるので、9万個あまりになる。物資の確保が大変だったが、何とか間に合った。城の地下にある蜂蜜の備蓄まで持ち出したぞ……」
王たちが至るのはシュネスハプト郊外。そこには運休となった飛行船が20あまりも待機しており、ただ二機のみ、太陽鳥と夜猫だけが繋留塔に繋がれている。
その尾部から何本かのロープが垂れ下がっている。まるでユーヤの知る結婚式のように、紫色の半球を大量にくくりつけたロープが。
ズシオウが尋ねる。
「アテム王、あれは?」
「紫晶精を結わえたロープだ。砂の上を引きずりながら飛ぶ。ロープは途中が細くなっていて、何かに引っかかるとすぐに切れる、その場合は機内からすぐに別のロープを出す。これによってコース上のすべての紫晶精を連動させられる……はずだ」
もちろん2隻の装甲飛行船にも、内部のあちこちに紫晶精が置かれているという。
「司会者がいるな、紹介しておこう」
ゴルミーズ宮で過去の番組を見ていたとき、何度も見た顔である。
周囲にいたのは王宮の騎士たちと、ランズワン・ムービーズのスタッフたち。王に気付くと全員が腕を後ろに組んで直立し、司会を務める男は朗らかに笑いかける。
「やあこれはこれは、何やら壮大なクイズ勝負を仰せつかりまして、光栄の至りでございます」
尖った茶褐色の髪をヘアバンドで押さえつけ、素肌に炎の柄のジャケットという姿ながら物腰は丁寧なものだ。アテムが手をひらひらと振ると、腰の後ろで組んでいた腕をといて握手を求める。ユーヤには分からない儀礼の作法があったようだ。
「アキューラよ、日頃より活躍は眼にしている。お前には二番艦、夜猫に乗り込んでもらう。正誤の判定と、得点の集計はそれぞれスタッフを割り当ててある。お前は問い読みにのみ専心せよ」
「伺っております。新たに七彩謡精を呼んでまで行う勝負とのこと、大陸でも二度とは無いかも知れませぬ。真摯に務めさせていただきます」
王族の前だから、というわけでもないだろう。その実直なさまが彼の素の性格のようだ。
「皆の者!」
そしてアテム王は、まだ忙しく立ち働く人々に向かって声を張る。いんいんと、砂漠の天地に拡大していく声で。
「よくぞ間に合わせてくれた! これから行われるのは古今に例もなき、唯一無二のクイズの祭典。大陸の歴史に残る大勝負である! これを実現せしめた貴公らの優秀さ、創意と工夫。このアテム=バッハパテラの記憶にしかと留めよう。あと一息だ、どうか事故なくやり終えられることを祈っている!」
あらゆる身分の人々、さまざまな職業の人らがアテム王へと体を向け。深く頭を垂れて礼をする。そして時間が動き出したかのようにまた走り始める。
ユーヤは東を見る。そこには人がいて、次から次へと紫晶精を呼び出しつつ、荷車にそれを満載して運び出している。その妖精は一時間ほどで消えるというから、勝負にかける時間を考慮して、20分ほどですべてを呼ばねばなるまい。やはり数千人がかりの作業になるはずだ。
これはいわば、単一の回路。
2つの飛行船を結び、高さ200メーキから地上を結び、長さ50ダムミーキを結ぶ回路なのだ。
ズシオウもあまりの規模にあっけにとられつつ、アテムを見上げて言う。
「アテムさま、これって少しお金がかかったんじゃないですか?」
「いっぱいお金がかかったぞ……」
投げやりにそう言う。
「ユーヤよ、お前の言った通りすべて整えた、これで……」
一瞬、その異世界人の姿を見て。
勝てるのか、という言葉が、口をつく直前に立ち消える。
その異世界人の憔悴した様子。体力のある男には見えないのに、誰よりも長く働き続ける様子を見ていると、何かしらの罠やイカサマを期待することが気恥ずかしく思えてくる。
賽は投げられた。
もはや右往左往するのは王らしくないと思い直し、背中に力を入れて立つ。
「……もはや何も言わぬ。コゥナ姫、ズシオウどの、どうか楽しい一時を」
「うむ、コゥナ様に任せておけ」
「頑張ります!」
二人は砂地を小走りに駆けていって、スタッフから説明を受ける。その向こうで太陽鳥がゆっくりと繋留塔を降り始める。
「ユーヤよ、二人に声をかけてやらぬのか」
「大丈夫」
不思議な落ち着きとともにそう返される。
「二人はもう立派なクイズ戦士だ。僕の言葉なんかなくても戦える」
「だが二人は、さほどクイズの覚えはなかったと聞いているが……」
「王様だからね……それなりにクイズの素養はあったよ。特にズシオウは、いずれ妖精王の祭りでクイズに挑む立場だった。コゥナだって並の人間じゃない。二人の生きてきたすべてが、この飛行船追い抜きクイズで花開くはずだ」
「生きてきた、すべてが……?」
ユーヤは視線を蒼穹に向ける。それは眼には見えぬ風の道をすかし見るかのようでもあり、もっと広範な、時代や世界というものを見る眼であった。
「……そう、誰しも生きてきた道程というものがある。本来はそれを競うことがクイズであるべき。特殊な勉強や、テクニックもいらない。生きてきて、積み上げてきたすべてを……」
ユーヤは夢見るように語り。
そして舞台は飛行船へと移る。
「展望デッキはいつ見ても広いな。内装も洒落ているし」
「なんだか人がいっぱいいますね」
スタッフは数十人にも及び、打ち合わせを繰り返している。二人の前には一つの早押しボタンがあるのみ。
「そのボタンは司会者の手元にある木板に紐付いております。ボタンを押してからお答えください。木板が上がると司会者は問い読みを止めます」
「この場では解答権があるかどうか分からぬわけだな」
「そうです。すべての問題リストはこの場にも用意してあります。誤答についてはご指摘させていただき、一回休みとなります」
相手の様子が見えない、解答権があるかどうかも明確でない早押しクイズ。
それもまた世界初のことだったが、この形式が何を意味するのか、コゥナたちには想像もつかない。
ズシオウも発言する。
「得点の計測は大丈夫なんですか? 通り過ぎた指標柱の数を基準にすると聞いてますが」
「別室で観測手が計測を行っております。双方の得点状況は光信号に手旗信号、複数の手段で確認を繰り返します」
「なんだか凄いですね……」
特に50ダムミーキを一瞬で届かせる紫晶精の行列、あれは驚愕だった。遠距離で意志を通わせるという概念に、何かしら高い価値を感じもするが、今はクイズへの思いが先に立つ。
「動き出しましたね」
飛行船はゆっくりと上昇し、船首を回すと、ごうと唸りを上げて飛行し始める。コゥナが内股で揺れに耐えつつ言う。
「何だか普通に飛んでるぞ、風まかせではないのか」
「灰気精の力で移動しております。風の道は周囲の空気を飲み込むため、その近くで待機するためには妖精の力を使うしか無いのです。最初の問題のみ得点はなく、どちらが先に入るかを決めるために使われます」
船外に黒の巨体が見える。夜猫は目に見えぬ風の道へ向かい、回り込んで向こう側へ。大気のゆらぎで船体がぼやけて見える。
そしてラジオが、その中にいる蝋読精が語り始める。
昨日までは大陸に存在しなかったチャンネルを、その言葉の波を増幅する。
――さあやってまいりました。タイムレースクイズのお時間です。
――問題を読み上げますのは私、アキューラ・フーチ。正午より開始し、12時20分まで問題の読み上げを続けます。
――ジャンルは歴史。問題提供はランズワン・ムービーズとアルバギーズ・ショーの問題制作委員会です。
――詳しくお話しすることはできませんが、いずこかの場所で、大いなる命運を賭けたる勝負。
――休むことのない濁流の諮問。クイズ戦士の脳を燃やし、判断力を摩滅させるそれは知の滝登り、記憶の井戸への果てなきダイブ。
――もしこの勝負を幸運にも聴取された方は、どうか己の胸にのみお仕舞いください。
――まさに夢幻のクイズの楽園。世界のどこかで行われる名もなき決闘劇。
――あるいは人生は決闘の連続、寄せては返す試練の浜辺。クイズだけが人生と、戦う戦士に一輪の花を。
――5秒前。
――4
――3
――2
――
――問題。「戦は水なり」と/説い
ばん、とボタンを押すのはズシオウ。
「ボーネンシャフ将軍!」
そして舷側にて双眼鏡を構えるスタッフ、二番艦からの光信号を受け、叫ぶ。
「カイネル様が先取されました! 二番艦が先に商人の道に入ります!」




