第二十四話
砂漠の砂が輝く。
月の銀色に満たされた砂漠。それが地平線の果てから燃え上がり、太陽に炙られて黄金の輝きを得る。それがシュネスハプトの黎明。
「ユーヤ、こちらの準備は……」
アテムが広間を訪れてみれば、そこは紙で埋まっている。
四隅に積み上げられた書籍。床を覆う各国の新聞。メイドが回廊を駆け、刷り上がったばかりの新聞を運んでくる。何人かのメイドは部屋の隅で毛布にくるまっていた。
「アテム、クイズの準備はできたかな」
ユーヤは書物の中から立ち上がり、隈の多い眼を向ける。相変わらず疲れ果てているような、それでいて昏い輝きを増すような独特の眼だ。アテムは蛇を相手に語るように、ひそかに身構えつつ言う。
「……準備の方は目処が立った。これから昼まで作業が山積みだがな」
「ありがとう。リトフェット、テキストをまとめてくれ。コゥナたちが起きたら昼まで実戦形式の練習を」
「はい」
水色リボンのメイドには多少の疲れが見える。上級メイドには珍しいことだった。
「大変だったようだな。ユーヤよ、あまりメイドに無茶な仕事を」
「いえ、ご心配なく」
髪に手櫛を入れ、スカートの裾をはたく。ちょっとした気構えの問題なのか、そうやって細かな動作を行ううちにシルエットがシャープになっていくように思える。
「メイドの職責に否やはなく。どのようなリクエストにもお答えします」
「うむ……そうか」
その時、ユーヤがふと窓の方を見る。
そこから大勢のざわめきが聞こえる。がちゃがちゃと金属の擦れ合う音。ラクダが石畳を踏み固める音。
「なんだか騒がしいけど」
「うむ……カイネルが到着したのだ。手兵を案内している」
そして、回廊を進む足音も。
「む……」
アテムがはっと脇を向くのを見て、ユーヤも回廊へと歩み出る。
そこに白髪の老人がいた。ゆっくりと歩みながらアテムに視線を向ける。
「カイネル……」
「アテム王、此度はゴルミーズ宮へのお招き感謝する。良きクイズを。妖精王の加護があらんことを」
「……うむ」
カイネルの挨拶はごく短く、アテムの応答はさらに短い。老人はぬるい風のようにアテムの脇をすり抜け、回廊の奥に消える。
やや置いて、ユーヤが口を開く。
「……アテム、カイネルは先王じゃないのか。客人のような扱いなのか?」
「今は国家に弓引く大罪人ということもあるが……カイネルは余の王位継承ののち、その王籍を剥奪されている。庶民などが先王と呼ぶのも儀礼的なものだ。今日このゴルミーズ宮では、市民としてのみ在席を許している」
「……」
ユーヤの沈黙に何かしら非難めいたものを感じたのか、カイネルの気配が完全に消えているのを確認してから、さらに言葉を重ねる。
「仕方のないことだ。カイネルはあまりにも乱心を極めていた。王籍以外にも企業や大学での地位を多数持っていたが、その権力を行使させるわけには行かなかった。余が王位を継ぐまでに、どれだけの遺跡が被害を受けたか知れぬ」
「……妖精の鏡について知った頃から、だったな」
アテムとユーヤは連れ立って少し歩き、回廊の窓へと至る。
そこから望むのはシュネスハプトの街並み。地平線の向こうにきらきらと輝いて見えるのは、発掘作業中のアッバーザ遺跡である。
「そうだ。貴重な遺跡を埋め、資料を破棄させ、復元作業中の遺物への破壊行為まで」
「……それだけか?」
ぽつりとこぼす言葉に、アテムが少し険の強い眼を向ける。
「どういう意味だ、ユーヤよ」
「王位を奪って、あらゆる職務から追放して、それでもまだ君の怒りは収まらない。許しがたい相手だと思っているんだな……」
「当然だ。今回の騒動でも大変な被害が出ている。他国の王族の命まで危険に晒した。ユーヤ、お前とてセレノウの王位に連なる身、それが危険に晒されたことは、憤慨してしかるべき……」
「裏切られた、と感じているんだろう? 人がそこまで恨みを募らせるのは、誰かの仇か、裏切りぐらいだ」
アテムが背筋を強張らせる。
それはユーヤとしても疲労の蓄積ゆえに、ついこぼれてしまった言葉かも知れなかった。アテムは褐色の肌に赤みを生みつつ、ユーヤと一歩、間合いを詰める。
「その通りだ」
王たる者の誇りゆえか、その怒りは胃の奥に隠しつつも、若さゆえにその炎を完全には御しきれぬ、そんな様子である。
「余に考古学の手ほどきを与え、幼少のみぎりより各地の遺跡を連れ回したのはカイネルだ。資源に乏しいシュネスが衰退していくことを予見し、観光に活路を見出そうとしたのもやはりカイネル。それが今になって遺跡の放棄だと! 呑めるわけがない。土着の神に古代の怪物。そして泥濘竜。氏族らが信仰する神々を捨てさせることも出来ぬ! 心変わりという言葉で片付けられると思うのか! シュネスの歩む未来を、進むべき道を裏切ったことを許せるはずがない!」
がん、と壁に拳を打ち付ける。
ユーヤはその眼を正面から見つめる。
ユーヤの眼には形容しがたい昏い感情が、ユーヤという器を満たす過去の記憶、堆積した澱が見えるような気がした。
「人は、鏡のようなものだと思っている」
「なに……」
そのユーヤの言葉には揺らぎがなく、音程も抑揚も直線的なものだった。朝の澄み切った空気の中で、ひどく遠くまで響くような声。
「誰かに向ける感情は、同じものをその相手も抱く。君が裏切られたと感じているなら、カイネルもそう思っているかも知れない」
「……馬鹿な、余が何を裏切ったと」
「カイネル先王との関係については詳しく知らない。王位継承に関するゴタゴタについても。だけど」
アテムの怒りの感情に混乱を作り、そこに生まれた隙間からそっと忍び込むような言葉。
「カイネルは君を説得しようとしなかったか? 何かを、言っていなかったか……?」
――なぜ分からぬのだ。
――この世界は妖精王の手にあらねばならぬ。
――信仰が一つでなくては、大変なことに。
「……!」
その優男の眼に揺らぎが生まれ、強固に封じていたはずの記憶の箱から、中身の泥が漏れ出すような感覚。
「……何も、ない」
そして、あらゆる感情を封じ込めるかのように、窓からの朝日にその身を晒す。
「いずれにせよ、国がその方針を転換するのは大変なことだ。カイネル一人の考えで国の航路を反転させることはできぬ」
その空に飛行船が見える。輸送船が昼からのクイズに備え、便を早めているのだ。
「少なくとも今は負けるわけにはいかぬ。カイネルはもはやこの国の指導者ではないのだ。あの鏡を持たせるわけにはいかぬ。そうであろう」
「そうだね……」
「余はまだクイズの準備がある。健闘を祈るぞ」
そしてこの場から逃れるように、アテムは去っていく。
残されたのはユーヤと、その背後にいた水色リボンのメイドのみ。
「……そう、人は鏡のようなもの」
「ユーヤ様……?」
ユーヤはほんの一瞬だけ、何かを思い出す風であった。
つぶやく言葉は彼の人生を濃縮したもの。その闇に満たされるような経験から絞り出された、悔恨と悲劇という扉を開く鍵であった。
「裏切られたと感じたならば、きっと僕も、裏切っている……」
その心がほんの数秒、過去の鎖に囚われて。
胡蝶の夢の話のごとく。精神が過去の井戸を降りていく。
※
最後の文化祭も終わり、月日は曖昧な夢のように過ぎる。
七沼遊也はクイズ研を後輩たちに任せ、ひたすら勉強に打ち込むようになった。
その様子は、周囲の人間からは「鬼気迫るような」様子であったという。寝不足が素の顔つきに思えるほどの慢性的な疲労。だが教材を片時も離すことはなく、あらゆる時間を勉強に当てる。
夏から秋にかけては浪人生と現役生の差が詰まる時期と言われる。この時期に大幅に模試の成績を上げ、志望校のランクを上げる生徒は少なくない。
その中で七沼はランクを2つ上げ、校内では最高ランクを目指す一人となっていた。全国模試でも上位に入り、教師たちは目覚ましい成長を感嘆するばかりだったという。
だが彼に相対した人々は、その様子を一目見るなり口を揃える。
無理をしすぎないように、と。
そのぐらい、誰の目にも分かるほど異常な努力を重ねていた。家族でさえ彼がいつ眠り、いつ休んでいるのか把握していたのかどうか。
そして晩秋の頃。クイズ研の後輩たちが七沼を部に呼んだ。ささやかな引退式が行われるという。
1年と2年が合わせて10人ほど。七沼の疲れた様子に痛々しいものは感じたけれど、進学校の受験生ともなればそんな者もいるだろうか、と突っ込んだ指摘はない。
後輩たちが何となく手持ち無沙汰に感じるのは七沼の様子だけではなかった。
この場に氷神川水守がいないからだ。
文化祭を最後に、彼女は学校に来なくなった。
彼女の進路は誰もよく知らなかった。地元に就職する予定だとか、東京に出て専門学校に通う予定だとか言われているが、正確なところは誰も知らない。
「先輩たちって付き合ってたんですか?」
追い出しコンパのノリで、ジュースとスナック菓子を囲んで騒ぐ。クイズ研らしく大人しそうな部員が多かったが、三年生2人の噂話となると興味津々なようだ。
「付き合ってないよ」
「えーでも、ファミレスでよく会ってたとか、ビデオの貸し借りしてたとか」
「クイズ研の活動の範囲でのことだよ。それももう無くなると思う」
「そっかあ、氷神川先輩も引退ですからねえ、寂しくなるなあ」
「そうだね……クイズ研は頼んだよ」
「はい!」
後輩たちは口を揃えて言う。
まぶしき青春の思い出。まばゆき若いきらめき。
だが、誰かは気づいただろうか。
七沼遊也の眼に、何か底知れぬ黒い塊が。漆黒の決意が宿っていたことを。
そして、ある冬の日。
日曜日の校内は静まり返っている。グラウンドからは日曜練習の運動部の掛け声が聞こえ、どこか遠くから吹奏楽部の自主練の音も届くけれども、建物に対して人は少なく、まばらな音が寂しさをより際立たせる。
「七沼くん……?」
クイズ研の部室。鍵は開いていた。
現れるのはセーラー服の女生徒。おっかなびっくりに七沼を呼ばわり、狭い部室を見回す。
「七沼くん、いるんでしょ? どこにいるの」
「氷神川さん」
彼は机の影にいた。何か機械をいじっていたらしく。手に細密ドライバーを持っている。学生服の黒が、冬の室温に重たげに見える。
七沼は部屋の隅にあったストーブのスイッチを入れ、氷神川に使い捨てカイロを手渡す。
「外は寒かったろ。カイロで手を温めるといいよ」
「どうしたの七沼くん。日曜に呼び出したりして」
氷神川はほぼ学校に来なくなっており、七沼も受験勉強に生活のすべてを捧げている状態と聞いていた。
その上で日曜の部室に呼び出す。見ようによっては、何かしら青春の一幕が予感される場面であろうか。
だが二人にそんな気配は無かった。氷神川は自分と七沼はそんな関係ではないと考えていたようだし、何より七沼の発する気配が、華やいだ予感とかけ離れていたから。
「……何の用なの」
「単刀直入に言う」
ふと気づく。部室の端にテレビが置いてある。クイズ研には本来置いておらず、クイズ番組の視聴会などを行うときだけ貸し出されるものだ。
そのテレビは学校の備品であることを示すシールもない。七沼が持ち込んだものか。
七沼が口を開く。
「フラッシュ25への出場は諦めてくれ」
一瞬。時が止まったような静寂。
十数秒も経ってから、氷神川の指がわななくように動く。
「何を……言ってるの」
「氷神川さんは本当に凄い。あの日に読ませてもらったノートはまさに革命だった。きっと優勝できるだろう」
「だったら」
「だけどその理論は外に出すわけに行かない。一度でもそれが世界と触れ合えば、クイズがその姿を変えてしまう」
七沼の言葉はとても冗談とは思えない響きを。己の舌を噛みちぎりながら語るような気迫が潜んでいる。
「前フリから問題文の全容を推測する。読み上げのイントネーションに注目する。そんな技術は最初からあったわけじゃない。クイズが進化してきた証だ。だが君の技術はもはやクイズを超えている。一般的な確定ポイントより何段階も早い」
「それがいけないって言うの!? クイズ戦士たちがどれほどの努力を重ねていると思うの!」
「視聴者にそんなことは分からない。君の方法論が流布すれば、やがて世界は壊れてしまう。誰にも理解できない、クイズ王しか存在しない世界になるだろう。それは虚無だ」
「私がやらなくたって誰かが見つける! 時間の問題よ!」
「番組だって進化する。やがては王たちとの共存もできるだろう。だが君はあまりにも早すぎた。本来あるべき進化の過程を何段階も踏み越えている。だから世に出すわけには行かない」
「いかない、って……」
氷神川は身を守るように、腕を体の前に構える。
「どうするって言うの。もう私は高校ともクイズ研とも関係ない。まさか力づくで止めるなんてこと……」
ばん。
と、叩きつけられるのは、148ミリ×100ミリの紙。
「僕も出場権を得た」
「!!」
紛れもなく、それはフラッシュ25の予選通過を示すハガキ。
「そんな、秋の予選会は北海道だったはず……」
「北海道なんか飛行機で簡単に行ける。実際、日本をまたぐほど大移動して来る人は珍しくない。むしろ熱意のアピールになった」
あらゆる手段を使った。
応募ハガキの抽選。予選会での面接。持てるすべての力を使ってそれを突破したのだ。
「来年の年頭に高校生大会が予定されてる。番組関係者と接触して聞き出した」
「……まさか」
「僕たちが参加内定者としてリストアップされてるのは、進学校にいることが大きいはずだ。番組としてはどちらを採用する方が美味しいと考えるだろうか。全国模試で上位に入った僕と、成績が振るわなかった君とでは」
「……そ、それって、まさか」
番組に呼ばれるために、成績を上げた?
ありえない、と咄嗟に打ち消す。
あまりにも常識を外れている。仮にやろうとしても出来ることではない。一念発起で全国上位に入れるなら誰も苦労はしない。
それに。
「それを私に言って……どうしようというの」
声に怒気を漲らせる。その体の内側を、溶融した金属が満たすような怒り。
「出たいなら勝手に出ればいいでしょう! 私が辞退する意味なんかない! 番組に私の方が呼ばれる可能性だって残ってる!」
「僕が辞退すれば、君が出られる確率は上がるだろう」
がしゃり。と机の上に出されるのは二つの早押しボタン。そして二つのパトランプ。
七沼はポケットに入れていたリモコンを取り出し、テレビを点灯させる。
同時に取り出される小袋、机にばら撒かれる25枚のオセロの駒。
日曜日、時刻は太陽が南中に至る頃。
「だからクイズで決めよう」
「……!」
「僕たちだけの、フラッシュ25で」




