第二十三話
「体を……」
――なぜ
――傷の治りを見る?
――ただ見たいだけ?
「わかり申した」
逡巡はまばたきよりも短く。
ベニクギは緋色の裳裾に手をかけ、それをするりと足元に落とす。
現れるのは雪のように白い肌。
いくつかの蝋燭の火に照らされているためか、肌は輝くように白く、幽玄に揺らめく灯明を受けて、くびれた腰から胸にかけて濃い陰影がある。
「どうでござるか、白亜癒精の治療は上手く行ってござる。傷跡はほとんど分からぬ程に……」
「……」
ユーヤはその場に腰を下ろし、ぼんやりとベニクギを見上げる。
その黒い瞳に下りかかる目蓋は重たげで、いつもの、ひどく疲れているような印象が強くなっている。その瞳は果たしてどこかを見ているのか。
「……」
ベニクギは胸のサラシをほどき、それは霧が谷あいに落ちていくようにゆっくりと流れる。
何かが危ぶまれるような、あるいは動いていなくては時が止まってしまうかのような緊張感の中。サラシをすべて落とし、そして腰帯も落とす。
(この眼は何事か……)
相手に呑まれていると感じる。どんな強面の男でも、剣の達人であっても物怖じすることのなかった自分が。
この異世界人はもちろん欲情しているわけではない。さりとて意味のない悪ふざけでもない。
その瞳を満たすのは、大いなる虚無。
どこへも行けぬ、もはや動くこともない戦場の屍のような眼。それを連想する。
呼吸が早まる。
気圧されているのとも違う。まるで井戸の淵から身を乗り出すような不安。あらゆるものが不確かになり、足元が傾斜するような感覚。胸を上下させながら、横隔膜を意識しつつ浅い呼吸を行う。
「……分からない」
ユーヤがそう呟いたとき、張り詰めた空気がほどけ、息を一気に吐く。今の今まで胸を圧迫されてたかのように。
「……ユーヤどの、何が分からない、と」
「ベニクギは、美しいな」
「え……」
ユーヤは眼を閉じて、顔を片手で覆う。
「きっと美しいんだろう。僕にはそうとしか見えない。すれ違う誰もが振り向く美貌。名匠の手になる刀のような流麗さ。つきすぎてない筋肉はしなやかな動きを連想させる。炎のような髪も宝石のように美しい」
「ユーヤどの、何を言って……」
「でもそれは、僕にそう見えてるだけかも知れない」
ユーヤはかぶりを振る。声が震えを帯びている。泣いているのだろうか。
「クイズ王を、クイズ戦士たちを尊敬しているんだ。戦いに赴く背中はいつも勇ましくて、司会者を見つめる眼は狼の鋭さで、その顔立ちは神様の像のように隙がない」
それは果たしてベニクギに語っているのか、あるいは記憶の中の誰かに向けて言っているのか、夜闇に拡散していくような語りだった。
「でもそれは客観的な事実と言えるんだろうか。クイズ王を崇拝しているのは世界で僕だけで、彼らは本当は怪物の姿なのではないか。人の理解の及ばない異形なのではないか。そんなことを考えてしまう」
「ユーヤどの……」
「僕は、時に王を名乗る人々を排除してきた。でも彼らは本当にまがい物だったのか。あるいは怪物でも良かったのか。僕の理想のクイズ王なんかどこにもいなくて、怪物が互いを貪るような戦場こそがあるべきクイズ世界だったんじゃないのか。ツチガマにも酷いことを言ったんだ。彼女だって必死に生きていたのに。自分がまがい物かも知れないという恐怖と戦っていたのに。彼女を否定するような言葉を」
「ユーヤどの、落ち着くでござる」
ユーヤの言葉はほとんど聞き取れないほど濁っていた。ベニクギは膝立ちになって彼を抱きしめ、子供をあやすように己の熱で包み込もうとする。
背後にわずかな足音を感じたが、そちらは見ずに言う。
「拙者にはユーヤどのの悔恨は分からぬでござる。しかしながら、今はユーヤどのを必要とする人々がいる。この世界のためにユーヤどのは大きな貢献をしている。拙者がそう保証するでござる。悔いることがあるとしても、いずれ償える日も来るでござろう。だから罪の意識に押しつぶされてはいけない。前を向くのでござる」
「あ……ありがとう、ベニクギ」
ユーヤの細い腕に意思の力が戻る。抱きとめていたために分かるが、彼は恐るべき自制心で、慟哭しかけた己をどこかに追いやろうとしている。
今の一幕、シュネスの夜が見せた幻のような時間は、この異世界人には極めて珍しく、己の隙を晒した出来事なのだと分かる。
「ユーヤどの……男でも泣いていいのでござるよ。拙者で良ければ、いつでも話を聞くでござる」
「ありがとう……本当に。もう大丈夫だ」
ベニクギは、立ち上がったユーヤの黒い瞳を見る。
何もない空虚な闇。シュネスの夜空よりなお暗い。
それは、何も手に入れられなかった男の眼なのだと、わずかにそれだけを理解した。
※
ゴルミーズ宮には貴人のための浴場もあり、そこは窓が大きく取られて露天風呂の眺めとなっている。
「うーむ、これがシュネス名物の銀泥湯というものか。くすぐったい感じだが温まるな」
銀泥湯とはその名の通り銀色の湯であり、湯舟全体が競技トラックのような楕円型になっている。
湯は時計回りに一定の速度で回流しているが、液体と砂の中間のような感覚であり、細かな粒状のものが体の表面を滑っていく感覚がある。これが垢を落とすという。
銀色の液体とは金属の砂であり、その砂は水とほぼ同じ比重を持っていて、湯と混ぜ合わせるとコロイド状の質感になる。妖精を用いた独自の技術で生産されているという。
湯舟の底には泥が溜まっている。手ですくってみると銀色の泥が指の間からこぼれて、月明かりを受けてきらきらと光る。
「うーむ。これは金属なのか? 中が中空になってて軽いとかそういう理屈だろうか。見た目は水銀みたいで体に悪そうだが、なんだか塩のような匂いも……」
ぱたぱた、と石の上を走る音がする。コゥナがそちらを見れば、タオルで前を隠しただけのズシオウが両の足で踏み切り、滞空している瞬間であった。
どぶん、と湯に飛び込んで銀色の波を起こす。
「うわっぷ」
泥をたっぷり浴びる。それは体の表面にとどまらず、急速に流れて湯に落ちる。
「ズシオウ! どうしたのだ急に!」
「お風呂に入りに来ただけですよ」
それは確かにズシオウだった。唇のあたりまで湯に沈め、長い黒髪は頭の上で結い上げてかんざしで止めている。湯が銀色なために体格はよく分からない。
「シュネス名物の銀泥湯ですもん。ハイアードにはこの湯でマッサージしてくれるお店もあるんですが、人気すぎて予約が取れなくて、お忍びで行けなかったんです」
「それはいいが、こっちは女湯……」
と、ズシオウを見る。
湯に入ったばかりだというのにその頬は強い赤みを帯びている。何やら眼を吊り上げて不機嫌なような、それとも気持ちがざわついてるような雰囲気がある。
「いいんですよ。私は白無粧なんです。まだ性別がないから男女どちらとして過ごしてもいいんです。コゥナさんが嫌なら男湯に行きますが」
「いや、別にコゥナ様は……ランジンバフの森では男も女も一緒に水浴びするしな」
そういえばズシオウはまだ9歳である。動揺する筋ではなかったし、うろたえるのは大族長の娘として相応しくなかった。そう思い直して、やや胸をそらして堂々としてみせる。
「何かあったのか?」
「……ユーヤさんって、やっぱり女の人が好きなんですね」
「……は?」
唐突な発言に、コゥナは少し面食らう。
「……それはまあ、そうだろう。あいつに男色の気配などなかったし、エイルマイル王女と結婚しているのだぞ」
「別にそれはいいんです。妙な間違いなんか起こす人じゃないのは分かってます。ベニクギだって十分に大人ですから、ほんの戯れのことなんでしょう。私の気配断ちだって気づいてたみたいですし、そもそも私達は主従じゃなくて対等な関係なんですから、互いのことに口は出すべきじゃないし」
「どうした? 早口すぎてよく聞き取れない……」
ぽちゃん、とズシオウは一度頭のてっぺんまで泥に沈み、銀のしぶきとともにまた現れる。
「そうなんです……。私が不安定になってるだけなんです。何も起こるはずないのに。旅先だから気持ちが浮ついてるんでしょうか。それともユーヤさんが個性的すぎるんでしょうか」
「? ズシオウ、コゥナ様に分かるように言ってくれ……」
ズシオウはコゥナの方を向いて、湯の中を何歩かそちらに近づく。
「どうも最近、体の調子がおかしいんです。国屋敷ではそんなことはなかったのに」
「体調が悪いのか?」
「あのですねコゥナさん。私は白無粧である自分を割と気に入ってたんです。性別がないというのは女の子らしく甘いものを食べ歩いてもいいし、男の子らしく馬で遠乗りをしてもいい。お忍びでいろいろ経験してたんです。本国では大人しく過ごさねばなりませんが、国屋敷では自由にやれましたから」
「そ、そうなのか」
「でも最近、なんだか中間に居られないんです。コゥナさんやベニクギの前だと、男の子としての私が出てくるんです」
「うん?」
「でもユーヤさんや、アテム王を見てると、なんだか女の子っぽい気持ちになってしまうんです。特にユーヤさん……。不思議ですね。国屋敷の新丈……侍の見習いよりも腕が細くて、刀なんて持ったこともない方なのに」
「それは、その……フォゾスにもそういうカエルがいるぞ。オスばかり集めると何匹かがメスに変わってだな」
「そういうことじゃなくて」
結い上げた髪を少しいじり、銀の泥を落としつつ、ズシオウは一人語りのような話を続ける。
「私はどうなってしまうのか、ということです。男になるのか女になるのか、それが不安で、落ち着かない気分なんです」
「……? 男か女かって……いや、ズシオウにはそもそも、その……ついてるか、ついてないか……」
「そうです……私の心がどうあろうと、いずれ私の性別は確定します。白無粧の時期が終われば、私は肉体の性に従って生きることが定められている」
でも、と。
わずかな抵抗を示すような言葉が、泥に落ちる。
「不安なんです……。私は自分で自分の性別をまだ知らないのではないか。本当の性別は肉体とは別に存在して、それはまだ定まっていない。私が出会う人や、普段の行いによって揺れ動く、そんな気がするんです。もし白無粧が明けた時にもまだ定まっていなかったら。あるいは肉体のカタチと食い違うものであったなら、私はどうなってしまうのか……」
「……」
コゥナは、湯の中でズシオウの体の気配を感じていた。
水流のわずかな乱れ、ほんの半メーキほど先にあるその未成熟な体。
あるいはこの場で、ズシオウの本来の性別を知ってしまえば、その悩みはまた違ったものに見えただろうか。
コゥナはそっとズシオウに並び、肩だけを触れ合わせて湯の中に座る。
「立派だな、ズシオウは」
「……私が、ですか?」
「コゥナ様は女だからな。森の戦士になりたいのだが、まだ狩りに連れて行ってもらえない。もっと大きくなって、弓の腕や腕っぷしを示せば森の戦士にはなれるかも知れない。でも男に生まれていれば、どんな華奢な男でも森の戦士だ。狩りを手伝って、森で何日も過ごす。戦士になれねば死ぬのみだ。それは理不尽なようでもあるが、生きる道しるべがある、ということでもある。悩むこともなく自分の生き方がある、それも一つの幸福だと思う。コゥナ様はそういうふうに生きたかった」
「……」
「自分が何者なのかとか、本当の性別はどちらなのかとか。そういうことを悩んだことがない者が大半だろう。コゥナ様も悩んだことはない。ズシオウは違うのだな。体のカタチにとらわれずに、自分の本当の性別を探そうとしているのだな、立派だと思う」
「そう、でしょうか」
「そうだとも。白無粧だからじゃない。それはきっとズシオウが見いだした生き方というものだ。今は揺れ動いてて不安でも、ズシオウならいずれ自分の生き方を見つけるとも。それが男女どちらに落ち着いても、立派に生きていけるはずだ。悩みごとなどというのは、その悩みを自覚した時点で半分は解決したようなものなのだ」
「いずれ、自分の生き方を……」
ズシオウは窓を見上げる。
満天の星。時おりそこを横切るのは妖精の光。
星を見ていると、自分の内面に向き合えるような気がした。複雑怪奇だったはずの悩みが、ごくシンプルなものであるかのような。
ばしゃん、と水音を立てて立ち上がる。へその下までを泥に沈めた姿で、夜の涼しい風を浴びる。
「そうですね……白無粧が明けるまでまだ何年もあります。経験したいこともたくさんあるし、たくさんの人にも出会うんですから、どうせならもっと揺れてみましょう。男なのか、女なのか」
コゥナも立ち上がり、月の光を全身に浴びて胸を張る。
「なに、焦ることはない。ズシオウはまだ9歳だろう? 体つきでは男か女かさっぱり分からないしな」
「ふふ、コゥナさんと一緒ですね」
「はりたおすぞ」




