第二十一話
「竜……とは?」
アテムの疑問顔に、ユーヤは足元を見る。
展望デッキの床にある模様。抽象化された竜を見下ろしてから口を開く。
「……僕の世界では、龍には9つの特徴があると言われていた。鹿の角、牛の耳、兎の目、鯉の鱗、ラクダの頭、虎の手、鷹の爪、腹は蛟、うなじは蛇というようにだ。もっとも東洋の龍であり、このレリーフの竜とは系統が違うんだけど」
「うむ……竜を形容する言葉という話だな、シュネスの泥濘竜にもそのような話は伝わっている」
「もし現実の存在として、そのような生き物が眼の前に現れた時、僕たちはどんな印象を持つだろうか」
問われて、王たちは少し考える風になる。
頭の中で竜の姿を思い浮かべているようだが、ユーヤの言わんとするところが明確でないため、反応も曖昧なものだ。ユーヤは先を続ける。
「あるいは神のごとく強大なもの。造形美の帰結といえる美しいもの。人間など藁のように引き裂くであろう恐ろしいもの。……そしてあるいは、醜いもの」
「醜い……」
「……彼女は、ツチガマは、醜いと言われたくないんだよ」
ユーヤとそれ以外との人間との世界観の隔たり、それを埋めるかのように、彼は何度も言葉を重ねる。
「ある道を究めようとしている人間は、しばしばそういう観念に襲われる。自分の力は正しい道に乗っているのか。醜い異形の存在になってはいないか。それは例えば仮面だ」
「仮面……ツチガマのつけている、あの鷲鼻の面のことでござるか?」
「かつて追われる身だったときに大怪我を負ったと聞いている。だから傷を隠すためかと思っていたが、彼女の顔を間近から覗き込んだとき、面に隠れた場所に傷などは見えなかった。あれはおそらく、自分の内面を隠したいという気持ちの表れだ。自分自身が醜い存在だったら、と考えるのが怖いんだ」
それを聞いてアテムはひそかに驚く。
ではこの男は、ツチガマに食って掛かっているまさにその時に、彼女を分析していたのか。必要なら作戦に修正を加えられるように。
ベニクギはあまり実感がないようだった。いぶかしむ表情を見せている。
「まさか……ツチガマにそんな側面があるとは思えぬでござる。冷酷かつ残虐、大勢の前でも傍若無人にふるまう無節操さではござらぬか」
「心の中の問題だから。断言は避けなければいけないね……。だが少なくとも彼女は僕の言葉に反応した。それをとりあえずの証拠と考えてほしい」
「あのツチガマが……」
「彼女との勝負で、僕はやはり彼女を罠にはめることになる……それしか僕に勝つ道はない。だけどそれについて詳細に言うわけにはいかない」
ユーヤは柔らかい口調ではあったが、鉄格子を隔てて話すような、かたくなな印象を見せる。
「求められるのは極度の慎重さ……わずかな鉄面皮の揺らぎで崩れるような作戦なんだ。その作戦が君たちの表情に出てしまうことを危ぶむ。だから全容は言えないんだが……」
「わかった」
アテムが手を上げて言葉を止める。
「今のユーヤの言葉に偽りは感じられぬ。お前がツチガマを理解したのも本当なのだろう。それ以上聞くなというなら聞かぬ。すべて任せる」
「ありがとう……アテム」
実のところ、アテムがユーヤを信用したというよりは、この異世界人の語る言葉に危うさを覚えた、というほうが近かった。長く話を聞いていると暗示にかかったような気分になり、彼の世界観に引きずられるような気がする。
それはアテムの王としての特質。自分以外の価値観を受け入れないという一種の傲慢さゆえに、ユーヤの言葉と距離を置こうとする気持ちが働くようだ。
「ユーヤよ、コゥナ様たちはどうすればいい?」
「早押しの訓練もしないといけない。メイドさんたちにテキストを用意してもらってるから、帰ったらすぐに実戦形式で練習してくれ」
「わかりました、私もがんばります」
「じゃあ僕は……」
ユーヤは考えて、そして思いついたように言う。
「この飛行船……太陽鳥がシュネスハプトに着くまで寝ておくよ。徹夜が続いてたから」
「眠るのか? セレノウのユーヤよ、それはいいが、あと40分ほどで到着だぞ」
「そのぐらいあれば仮眠できる。リトフェット、大きめのタオルを」
「はい」
ユーヤは白いふかふかのタオルを受け取り、そして少し離れた場所にある長椅子に行く。
革靴を脱いで横になって、畳んだタオルを枕にする。
「ユーヤさん、そんな格好じゃ休まりませんよ。靴下も脱がないと……」
「っ!」
ベニクギが眼を見張る。首だけで勢いよくユーヤの方を振り向き、言葉が遠心力で飛び出してくる。
「……まさか、いや、この呼吸の感じは」
「? どうしたんですか、ベニクギ」
「……眠った、ようでござる」
その場の全員が硬直。
船内にはごうんごうんと風の音が響き、それなりに強い揺れが続いていて。
そして船は、砂漠の空を飛び続ける。
※
過日。
七沼遊也は受験生らしく勉強漬けの日々であった。
塾や予備校には通っていなかったが、毎日テキストに取り組み、参考書を読みふける。自分はがりがりと問題を解いていくより、テキストを眺めるほうが飲み込みが良いと感じていた。
氷神川から連絡があったのはそんな時期である。
「受かったよ! 合格!」
受話器がハウリングを起こすほどの声でそう告げる。七沼もその知らせに興奮し、いきおい、互いの家の中間地点で会うことになった。
深夜のドーナツショップ。注文するのもせわしなく、二人が適当なドーナツとコーヒーを席に運ぶと、すぐさま一枚のハガキが置かれる。
「ほらこれ! 参加資格のハガキだよ!!」
フラッシュ25に出場するまでの流れは以下のようになる。
まずは番組あてに参加希望のハガキを出す。これに当選した場合、予選会への案内通知が届くわけだが、それが最初にして最大の関門。
出場経験者などの話を聞くと、当選確率は1割未満、のちに七沼がテレビマンとなった時に知ったことでは、毎回2万通前後のハガキが届き、1800人ほどが予選会に出られるという。
予選会は全国で年に数回行われるが、極端な遠隔地での開催だとハードルが高くなる。学生ならなおさらだ。
「予選は筆記なんでしょ? どんな問題だったの」
「うん! 関西のサークルから聞いてた通りだよ。30問あって、半分がベタ問で半分が時事問題だった。満点行ってたかも!」
筆記で合格になれば面接である。集団で行われ、ずらりと並ぶスタッフとの間で質問が交わされるという。
「聞いてたとおりにすっごく和やかな感じだった。ちょっとでも印象よくしたくてさ。明るい色の服にしたし、髪もアップにしといたんだよ」
休日、昼間の番組であるため、出場者には明るく楽しげなイメージが求められる。七沼も模擬面接に何度か付き合っていたが、氷神川の研究の深さは驚くべきもので、姿勢や表情、話し方のみならず、コーディネートや心理学についての本まで動員し、技術の鎧で武装するかのようだった。
そこまでせずとも、彼女なら問題ないだろうと七沼は思う。彼女は誰よりも魅力的だから。
「ほらこれ、記念品のボールペン」
「いいなあ、宝物だね」
予選会の様子を七沼は根掘り葉掘り聞き、また氷神川も際限なく語り続ける。写真を手に持って話すかのように詳細に。番組スタッフの語った一言一句までも。
「出られるといいなあ。声がかかるのって秋ぐらいかなあ」
「どうかな。受験生だと思われてたら、春ぐらいになるかも」
「えーやだー」
予選会で出場資格を得るのは800から900人と言われる。これらの人々には合格を告げるハガキが届くわけだが、実はこれは出場を確約するものではない。
おおよそ一年の間に、番組から出場を求めるハガキが来ればよし。
そうでない場合は、また予選会からやり直しになるのだ。
フラッシュ25に参加するのは毎週4人。一年の放送回数を多めに50回と見積もっても、200人が上限となる。実際には芸能人大会やチャンピオン大会もあるのでさらに少なくなる。
予選通過者の四分の一から五分の一が実際の出場者。予選会の狭き門を勝ち抜いても、さらに運が求められるわけだ。素人参加型番組のハードルの高さを思い知らされる。
「きっと大丈夫だよ。氷神川さんなら出場できる。ちゃんと優勝できる」
「うん、ありがとう」
そして彼女はいたずらっぽく笑って、一冊のノートを取り出した。
「ぜったい優勝するよ。それでね。実は見てもらいたいものがあるの」
「そのノート?」
表紙には、太マジックでこう書かれている。
――フラッシュ25 完全攻略ノート
「うん、ビデオを参考にして問題をまとめてみたの」
ノートを手に取る。ずしりと重い。
視覚で捉えた厚みから予想される重量、それと大きく食い違うために感じる重さだ。
開いてみればびっしりと黒い文字。黒鉛が質量として感じられるほどの文字の洪水。
「まずここ、3年前の7月第二週。脊椎動物の……」
窓の外は深い闇。
そのドーナツショップの会合はどれほど続いたのか。ほんの一時間程度のことであった気もするし、何週間も続いたような気もする。
氷神川の分析は驚愕すべきもので、番組は見事に解体されていく。
出題傾向。
問題作成者の好み。
そして早押しの確定ポイント。
それはまさに知の極地。何十年もそれだけを研究してきたような底知れなさ。
氷神川が鉤爪でノートを押さえている。
広げた翼は店舗の窓を突き破り。
語る口からは炎の息が漏れている。
「……」
恐ろしいものを見ている。
そう感じてもなお、氷神川の言葉に耳を塞げない。拒もうとする無意識の抵抗を無視して流れ込み続ける。
「こんな感じ。どう?」
「すごい研究だね。きっと通用するよ」
己の言葉が、金魚鉢に吹き込むように反響している。
「よかった。またビデオ送ってもらえる予定あるんだ。ほら、前に言ってた名古屋のサークル。フラッシュ25の作家さんと同じ人が担当してる番組のビデオで、きっと参考に……」
「それはいいけど」
ふいに大きな声が出る。離れた席の話し声が数秒、止まった。
「ん、なに? どうしたの?」
「……氷神川さん。進路どうするの。まだ聞いてなかった、から」
なぜそんな話を始めたのか、七沼にも説明はできない。ただ氷神川のノートから眼を背けたかったのかも知れない。
やはりと言うべきか、氷神川は露骨に嫌そうな顔をして、机に両肘をついてドーナツをかじる。
「まだ考え中ですよー。ま、何とかなるって」
「8月末に模試があるんだけど、良ければ氷神川さんも一緒に……」
「模試なんてつまんないもん。いいんだよ。赤点にならない程度に勉強しとけば。一流大学なんか求めてないから」
「大学には行くんだね? じゃあ協力できるよ。一緒に勉強してもいいし」
ぱたり、とノートが閉じられる。
「行かないかもね」
「じゃあ、就職するの?」
七沼の高校では大学進学率は95%以上。七沼はまだ若く、大学に行かない学生がどのように就職先を探すのか、将来はどうなっていくのか、ということが漠然としか分からない。大学をモラトリアム期間としか見ていない現代っ子の視点、と見ても間違いではあるまい。
氷神川は少し気だるさを見せ、前髪をいじってから言う。
「今はなんにも考えられないの。フラッシュ25のことしか考えたくない」
「そんな……」
出られる確証もない。
研究などせずとも、すでに優勝は疑いない。
そう、それに何より。
優勝したから、だから何なのか。
「……」
それは、言えない。
言えば殺されても文句は言えない。そんな予感がある。
かの素晴らしきクイズ黄金時代。
クイズ番組は憧れであり、特別であり、神聖であった時代。
出場して、勝利する。
それが人生の何よりも優先されるほど輝かしい出来事だった時代。
今は確かにそんな時代。
だがいずれは、この時代そのものが幻になってしまいそうな危うさもある。
煮えたぎるような時代の空気、胸の中で燃え盛る情熱。今のこの時代を生きていなければ信じられないほど巨大で、偉大なるクイズ王たちが――。
「秋には最後の文化祭あるんでしょ、クイズ研は何やろうか」
意図的に話題をそらされた。
だが七沼ももはや進路の話はできなかった。その話題に飛びつく。
「ああ……実はバラマキクイズやろうかなと」
「えっ、すごい、どうやってやるの? セスナとか借りるの?」
「まさか、部の予算じゃ無理だし、学校のグラウンドに撒くには不向きだよ。考えてるのは高い位置にロープを張って、機械を走らせて……」
七沼はいま見たものを忘れたかった。
あの強烈な念がこもったような、鬼気迫る文字の集合を。
それを語る氷神川がまるで異形の存在のようで、七沼の理解を超えていて、恐ろしい存在だったことを忘れたかった。
夜は更けていく。
竜の影だけが、街のどこかに。




