第一話
そこは空の回廊。
澄みわたる蒼穹には風の道がある。その道に触れれば雲は消し飛び、羽虫はその身を砕かれる。特にたくましい猛禽のみが風をとらえて加速する。
船体がきしむ。金属板で覆われた樽のような飛行船が、砂漠の空を高速で飛行する。
「随分……速いんだな」
その男。
撫で付けた黒髪とタキシードという姿の青年である。いつも疲労しているような気だるげな気配だが、その視線は四方に油断なく向けられ、あるいは自分自身すらも緊張の糸で支えようとする。
男は異世界からの来訪者。今は元の名を捨て、セレノウのユーヤと名乗っていた。
「うーむ、これが世界に二隻しかないという装甲飛行船か。軍艦のようなものかと思ってたが、まるでホテルだな」
そう呟くのは年のころなら10を過ぎたほど。褐色の肌に顔料で模様を描き込み、水着のような上下セパレートの衣服。極彩色の尾羽根がこめかみに据えられ、山なりに背中に流れている。フォゾス白猿国の大族長の娘、コゥナ・ユペルガルである。
物珍しそうに窓の外を眺めるその背中に、ユーヤは声を投げる。
「僕の世界ではあまり一般的な乗り物じゃないな……。かのツェッペリン号は最高時速135キロとか聞いてるが、これは風をとらえて走るだけだから、さすがにそこまでは……」
展望キャビンを見渡す。三方が鉄枠で補強されたガラスで囲われ、広さは教室がいくつか入るほど。長椅子や観葉植物が床に固定されており、飲み物を提供してくれるカウンターがあったり、壁には観光案内のパネルなどもある。主に王族が使う飛行船と聞いているが、どこか俗っぽい雰囲気が残っているのはこの世界に独特のことだ。王室と庶民の距離が近い、と好意的に見るべきか。
それとは別に客室もあり、レストランや浴室まで備わっている。豪華客船とまでは言わずとも、ユーヤの知る飛行船とは一線を画した設備である。
ユーヤは立ち上がり、窓へ近づく。コゥナは細い足で危なげなく立っているが、ユーヤは何かに掴まりつつ移動していた。
「シュネスの首都までどのぐらいかかるのかな」
「コゥナ様に聞くな。たしかフォゾスとの国境からは600ダムミーキ(約600キロ)と聞いているが、風にまかせての飛行だからな、どんなルートで飛んでるのか分からん」
そこでユーヤは思い至る。飛行船は基本的に風任せでの移動のはずだ。エンジンなど無い異世界で、かなり右往左往しつつ向かう可能性もあるのだろうか。
「そうか……まだパルパシアを出て半日だからな、あるいは何日もかかる可能性も」
「そろそろ到着だ」
声がかかる。振り向けばそこには襟元の開いた白いスーツに浅黒い肌。身体中を黄金の装飾品で飾った人物がいた。すらりと背が高く彫りの深い顔立ち、見据える者をひれ伏させんとする野性的な眼をしている。
シュネス赤蛇国の王、アテム・バッハパテラはユーヤのそばに進み出て、窓の外を示す。
「砂の色が浅黄色に近くなった。まもなく商人の風を降りて南西の風に乗る」
「カム・ビザールというのは?」
「古来より、シュネスを東西に流れる強烈な風の存在が知られていた。高さ200ミーキ前後では東向きに、500ミーキ前後では西向きに流れている。この風に乗れば砂漠を丸一日で渡ることができる」
「卓越風……いや違うか。同じ地点で、上下で反対の風が吹くというのは何だか不思議だな……」
「古い時代の商人は、鳥が風を利用するさまを見て交易の道しるべとしたという。近年では飛行船により利用されている」
「大陸を縦断できる風もあるとか……」
「コーラムガルフ山系を取り巻く風だな。大陸にはそのような風の道が数多くある。高空を吹く風や、谷あいを流れる風などだ。シュネスでは大陸中の風を調査している」
アテムは二人を指で招き、展望デッキの前方に向かう。
「それより、間もなく良いものが見られる。あちらの窓から見るのがいいだろう」
「良いもの……?」
その時、船体全体ががくんと沈み、足元が傾斜する。
歩みだそうとしたユーヤは前につんのめりそうになり、素早く前に出たコゥナがその身を支えた。
「うおっ、と、ごめん」
「情けないやつだ。森の戦士たるもの、揺れる枝の上ですら弓を引けねばならんのだぞ」
「だから森の戦士じゃないからね?」
どうやら、高度を落として商人の風とやらを抜けたらしい。飛行船は眼に見えて速度が落ち、慣性に任せるようにゆっくりと飛び始める。
「風が無くなったけど、ここからはどうやって?」
「ここから先は船長の腕の見せどころだ。目的地に向かう風を探して上下する。いざとなれば妖精の力を使って進むこともできるが、力が弱いからな」
妖精、という言葉がユーヤの耳を甘く噛む。
クイズと妖精に支配された世界、ディンダミア妖精世界。
かつてハイアード獅子王国で、パルパシア双兎国でユーヤは大いなる陰謀に関わり、命をかけた戦いを切り抜けてきた。その背後には常に妖精の影があったが、基本的には妖精は恐れるべき存在ではない。火を起こしたり、食物を冷やしたりできる便利な存在である。
そしてまだ見たことのない妖精も、山ほどいるのだろう。
砂漠の国、シュネス赤蛇国、何が待ち受けているか分からぬ身の上を思い出し、拳に力を込める。
「見えたぞ、あれだ」
展望デッキは浮力体の真下にあり、眼下には広大なパノラマ。
そこに、エメラルドの針が。
「あれは……!」
それは緑柱石か、あるいは顔料で塗られているのか、眼にも鮮やかな緑の円柱が砂漠に突き立っている。
しかも一本や二本ではない、東から西へ向けて何十本も、何かしらの行商のように、柱の列が存在する。
「あれは、遺跡のように見えるけど」
「指標柱とか竜の爪とか呼ばれている。それぞれの柱が国土のどこにあるのか、町やオアシスはどこにあるかを示したものだ。シュネスの過去の統治者たちが作ったものだな。シュネスハプトに近いこのあたりには特に多い」
だが、と、シュネスの王は指を真下に向ける。
「見よ、重要なのはあれだ」
そして気付く、朝の陽光を受けて輝くのは、黄金の板。
そのように見えたのは石材である。砂に埋もれた石材、あるいは泥レンガが金色に輝き、その回りで人々が動き回っている。まだ200メーキの高空であり、人は豆粒のようだ。
「あれは、遺跡……?」
「そう、古代遺跡だ。1500年以上前に存在した竜の都アッバーザ。分厚い砂の層に埋もれていたが、近年になって発見されたのだ」
「おお。あれがそうか。ニュース映画で見たことはあったが、かなり大規模に発掘してるのだな」
コゥナも感心したように言う。アテムは鷹揚にうなづく。
「うむ、発掘は四千人規模で行っている。それだけではないぞ、これまで砂に埋もれた遺跡の発掘は、建物を打ち壊して物品だけを回収することが主だった。だがアッバーザ遺跡の発掘においては、大陸で初めて完全保存を目指している。建物もそのまま掘り起こし、修復するのだ」
「砂を全部かき出すのか? フォゾスでも遺跡は見つかっているが、そのような発掘など聞いたこともないぞ」
「この遺跡を保存できれば必ず重要な観光地となる。シュネスハプトに近いというのも良い。空き地にはホテルや博物館を建てて、何日か滞在できるようにしたいと思っている」
ユーヤは、アテム王が熱っぽく語っていることに意外な顔をする。
ユーヤの見立てでは彼は実に王らしい王。傲岸不遜にして唯我独尊。内面に頑固者を飼い慣らし、それでいて人を引き付けるカリスマを備えた王という分析だった。
今、己の脇で遺跡や観光について語る姿はやり手の実業家のようでもあるが、少年のような純粋さも感じる。古代に向けられる好奇の眼。王としての彼と、一大観光地を夢見る青年は、奇妙な両立を見せていた。
「……すごい事業だな、投資だって莫大なものだろうに」
「何しろ伝説にのみ残っていた竜の都アッバーザだ。古き神、泥濘竜の研究の上でも重要になるだろう」
「古き、神……?」
アテムは指を鳴らす、側に控えていた従者が金のコップを差し出した。匂いからしてワインのようだったが、アテムは軽く喉を潤しつつ言う。
「うむ、泥濘の竜だ。異世界人であるユーヤは勿論だが、シュネスでも近年では知らぬ者が多いな」
アテムはやや興奮しているようだった。きびすを返し、デッキの中央へ。
「これだ」
それは床の模様かと思われたが、よく見れば何かの大きな生物のようだった。
床全面を覆う幾何学模様の中に、わずかにパターンを変えて図形を織り込んでいる。眼を凝らすとその輪郭が意識され、やがて奇妙な気付きの連続が来る。四肢が、翼が。
それは泥の中にいる。
両腕を、翼を、長大な尾を泥に潜らせ、泥に身を沈める竜だ。高度にデザイン化された姿は幾何学模様の集合。だが竜が持つ爪の鋭さ、翼の巨大さ、尾のしなやかさが伝わる。
そして泥の中にあっても薄く開かれ、何かをじっと見つめる竜のまなざし。それが泥の湿度とともに感じられるように思える。
「おお、これはもしや「泥に竜あり」ということわざの由来か」
「コゥナ姫、まさにそうだ。泥に埋もれる竜。ラウ=カンにも似たような伝承があるらしいが、地の底で人々を守る守護神、あるいは世間に埋もれた優れた人、という意味がある。かつては信仰の対象だったらしいが、今はこうして魔よけのレリーフとして残るだけだ」
「……竜」
ユーヤは、その図案化された竜を見る。その爪を、眼を、泥の温度を感じ取ろうとするかのように。
「いるのか……? 竜が……」
ユーヤの呟きに。
コゥナとアテムは、そして展望キャビンの隅に控えていた使用人たちは、数秒けげんな眼を向ける。
「……ユーヤよ」
最初に気を取り直したのはコゥナだった。少し言葉を選ぶ素振りの後に口を開く。
「……ユーヤの世界にはいたのか? 竜が」
「いや……伝説の中の存在だ。気象や天災の象徴だったり、吉兆を告げる存在だったり……」
「ならば、こちらの世界もそうだぞ」
その通り、とアテムも肩をすくめる。
「いるならば一度は眼にしてみたいがな。ユーヤの世界と同じだろう。竜とは強大さの象徴、概念に姿と名前を与えたものだ。かつての賢者とかまじない師とか呼ばれる人間は、自分達を守護する存在として竜を発明した。そして、世間に埋もれた名もなき人々の中にも竜を見たのだ」
「……そう、だな。そういう考え方は僕の世界にもあった。伏竜鳳雛、まだ世に出ていない才能ある人を、竜に喩えたんだ」
そこで、がらんがらんと船内に響く音がする。鐘を鳴らしているのか。
周囲の人間はいっせいに動き出し、何人かのメイドがユーヤたちに近付く。
「ふむ、どうやら着陸が近いようだ。駐船時は体を固定せねばならぬ。メイドの案内に任せるがいい。余も自室へ戻る」
「わかった、ではまた後で」
ユーヤの周囲にメイドたちが張り付く。ユーヤにも行動を共にしていたメイドたちがいたが、一人はパルパシアにて体調を崩し、もう一人はその看病のために置いてきた。
今はシュネス側のメイドたちに世話を任せているが、誰かに世話をされる日常にはまだ慣れない。
「セレノウのユーヤ様、こちらの椅子へどうぞ。お身体を固定させていただきます」
「ああ、分かった……」
コゥナもメイドたちに囲まれている。
ユーヤは最後にふと、竜の床絵を見た。
高度に抽象化されていながら、一度そこに竜を見いだしてしまえば、鱗の一枚までがありありと見える。人間の感覚を知り尽くした職人の手になる、驚くべき技術と言うほかない。
この世界に来て何度目かの感覚。見たことのない異世界の芸術、見たこともない技術。それに心が震えるのは、己の習性ゆえだろうか。
「泥に埋もれた、竜か……」
飛行船は飛ぶ。
風をとらえて、大気の上を滑って。
目指すは砂漠の華、黄金の城。
永き歴史をつかさどる都、シュネスハプトへ――。
というわけで続編を投稿開始しました
更新ペースはゆっくりになると思いますので、気長にお付き合いいただければ幸いです
シリーズ第一作はこちら
https://ncode.syosetu.com/n1867fd/