1-1 勇者は惰眠をむさぼりたい
寝室には朝の陽ざしは入ってこない。
カーテンで閉ざされた部屋の中には朝のさわやかな光も眠っているアレクの目には届かない。
アレクは朝の晴れやかな時間を眠りの中で過ごす。
この山の中で住み始めた3か月前から、彼は朝の陽ざしを全身で浴びたことはほとんどない。
ぼさぼさに肩まで伸び切った髪に、顔に生え散らかした無精ひげ。
灰色のパジャマを着て眠りにふける彼の姿は廃人そのものである。
彼が、かつて魔王を倒して世界を救った勇者だと信じる者はほとんどいないだろう。
朝から晩まで魔物を倒して回っていたその体も、今となっては鳥のさえずり1つ耳に入っていない。
部屋にいびきを響かせながら、愛猫のキャロットを抱いて布団の中にこもり続けている。
暖炉に灯る火は朝になっても小さく温かさを保っている。どうやら昨晩は火をつけるのも忘れて眠ったらしい。
火を消す前にベッドの中に潜り込んでしまったのだ。
これだけ自堕落な生活をしていても、彼を起こしに来てくれるものは誰もいない。
いるとすれば、彼と一緒に眠っている愛猫と、彼の中にいる腹の虫だけだ。それ以外に彼の眠りを妨げる者は誰もいない。
彼が張っている結界のおかげで、山の中には誰も入れない。つまり一人の楽園が完成しているのだ。
アレクは今日も穏やかな朝を快適に眠り呆けている。
しかし、今日はそんなアレクの穏やかな朝もながく続かなかった。
突然開いた寝室の扉。
入り込んできた少女は寝室に飛び入りながら、アレクが眠っているベッドめがけてダイブをした。その目は獣のように光り輝きながら、眠っているアレクを確実にとらえていた。
侵入者は飛び込んだ勢いのままアレクめがけてとびかかる。
しかし、アレクも腐っても歴戦の勇者、眠りの中にあってもすぐに侵入者の動きを察した。
考えるよりも早く、腕を伸ばし、襲い掛かる少女の頭を掴む。そして、そのまま少女の体を部屋の壁めがけて横に投げ飛ばした。
アレクの体はまだ眠り態勢をとったままである。
少女は大きな音を立てながら壁に衝突した。
短くそれでいて甲高い悲鳴が部屋の中に響く。
部屋は掃除されておらず、少女が飛ばされた先では大量の埃が舞う。埃の向こうからは少女の咳が聞こえてくる。
アレクはゆっくりと体を起こして少女が飛んで行った先をぼんやりと眺める。
目はまだ半分しか開いていない。こぶしの入りそうなあくびをしながら半開きの目をこする。
彼の視線の先では、少女のシルエットが埃の中で浮かび上がっていた。
少女はその場ですでに立ち上がっていた。少女の目はアレクのことをとらえて離そうとしない。
アレクもぼやける視界の中で少女のことを何とかとらえながら応戦する。
少女は口からあふれるよだれを腕でふき取り、もう一度とびかかる体勢を整える。
腕を左右に回しながら何かの戦いの儀式を行っていたかと思えば、そのままアレクめがけて一目散に飛び込んだ。
「覚悟!!」
少女叫び声が部屋の中に響く。口からあふれ出るつばが少女よりも先にアレクの方に襲いかかる。
そして、少女は宙に浮かんだまま動きを止められた。
彼女の頭はアレクの手の中に綺麗に収まった。
その握力によって前にも後ろにも進めなくなってしまった。
動きを止められた少女は、手足をじたばたさせて何とか立て直そうとするが、その体はただむなしく空を切るばかりである。
アレクは右手で少女のことを掴み続けながら、ただ一つ、深くため息をついた。
徐々に鮮明になっていく視界の中で少女の姿を見なおす。
赤毛のもじゃもじゃ頭。
よれよれになった赤茶のドレスは、ところどころに穴が開いてボロボロになっている。
「アレク様、手を放してください!」
少女はまだ腕を回しながらアレクに訴える。少女はただ行き場をなくした魚のようにその場でじたばたとあがいていた。
「やだよ、離したらまたとびかかって来るだろ」
「とびかかりません!」
少女は威勢よく叫ぶ。
「とびかからないので、アレク様の匂いだけでもかがせてください!」
「もっと嫌だよ」
「なんでですか! 久しぶりの再会なんですし、匂いだけでも!」
「嫌だっての。めんどくさい」
アレクは少女を掴んでいた手を離した。勢いを失った少女の体はそのまま地面に叩きつけられる。
「ふべし!」
少女の口から謎の声が漏れ出る。少女は赤くなった顎と共に顔を上げる。
「ひどい! なんでこんな痛いことするんですか! 昔の仲間への慈悲はないんですか?!」
「いきなり寝込みを襲い掛かってくるような奴に慈悲なんてあってたまるか」
「この外道め! あとちょっとで、このかわいらしいリリカちゃんの顔に傷がつくとこだったんですよ!」
少女の喚き声がアレクの耳にキンキンと響く。その声が寝起きのアレクの頭に突き刺さる。
頭を押さえながらアレクはリリカに訊ねる。
「そんなことより、どうしてお前がこの中に入ってこれるんだよ。誰も入れないようにしていたはずなのに」
アレクの問いに、リリカは何かのスイッチが入ったのか、表情を険しく変える。
「本当ですよ! なんであんな結界張ったんですか?! あの結界のせいで私はアレク様に会いに行きたいのに何もできなかったんですから」
「それが狙いだからね」
「ひゃうん!」
少女はまたも悲鳴を上げながら頭を抱える。
一つ一つの動作がうるさいのは、共に魔王討伐の旅をしていた時から変わらない。
彼女がこの世界一の魔法使いだなどといわれても誰も信じないのだろう、とアレクは改めて考える。
「もう私は頭に来ましたよ。そう簡単には教えてあげませんから」
「教えてくれたらその辺の物ひとつやるよ」
アレクは部屋の中を指さしてリリカに提示する。リリカの表情は一気に苦悶に変わる。
「ぐぬぬ……そんなもので私を釣ろうとしたって簡単にはうごきませんよ。なんたって私は怒っていますからね」
言葉とは裏腹に、リリカは部屋中をなめるように見渡しながらも葛藤に苦しんでいる。
「それが嫌なら、ベッドの中に入って来るか?」
「はうっ!」
リリカはその言葉の勢いに体をそらせる。まったく、自分の匂いのどこがいいのか、アレクには理解ができなかった。
「そんな素敵な誘いには乗らない訳にはいきませんね……いいでしょう」
リリカは息を荒らげながら答える。彼女の口の中に溜まっていたよだれは栓を抜かれたようにあふれ出す。リリカはその緩む表情を戻しながらアレクに答える。
「アレク様の結界は破られたんです」
「破られた?」
アレクの目が一気に覚める。久しぶりに出した大声に自分ののどが驚いている。のどの調子を整えながらリリカに訊ねる。
「お前がやったのか?」
「いえ、私の力如きではアレク様の結界が破れるわけないじゃないですか」
「じゃあ誰が壊せるっていうんだよ」
「そりゃあアレク様と同じだけの力を持っている人ですよ」
「だからそれは誰なんだって聞いてるんだよ! 魔王でも復活したのか」
リリカは指を左右に振りながら話を焦らしている。その顔には得意げな少女の笑みが映し出されていた。アレクは足をゆすりはじめていた。
「魔王は私たちでちゃんと倒したじゃないですか。アレク様と同じだけの力を持つ生き物はこの世界にはいません」
「つまり?」
「この世界から来たものではない者、つまるところ“異世界の人間”が結界を壊したということなのです!」
「はあ?」
アレクは首を傾げた。“異世界の人間”なんて彼の耳には聞いたこともない言葉だった。
リリカはアレクの顔を見ながら得意げな表情を浮かべていた。