03-10
……森の主。
そう呼ばれる生き物へと、己は視線を向ける。
一言でその生き物を言い表すならば、身長が凡そ三メートルほどもある、ゴリラの仲間だろうか。
腕の数は二本……いや、どうやらこの世界の動物の例に違わず四本あるものの、使わなかった所為か、下の二本が退化して役に立たなくなっているのか、胴にへばりつく形で仕舞い込まれていて、積極的に使おうとはしていないらしい。
その巨体と四肢の可動範囲をざっと目測した直後、己は隣で腰を抜かしかかっている老人へと視線を向けた。
(……邪魔だ、な)
あの巨体が狂気に冒されて、暴れ回るのだ。
幾ら武器を持っていないとは言え、十メートル四方は離れてないと巻き込まれる恐れがある。
そして己は基本的に自分の技量を上げることが最優先で、それ以外は些事と切り捨てる傾向にあるが……だからと言って、誰かを積極的に巻き込んでやろうと思うほど悪い趣味はしていない。
「爺さん、そこを動くなっ!」
「お、おい、兄ちゃんっ?」
瞬時にそう判断を下した己は、血走った眼でこちらへと走ってくるゴリラ擬きへと全力で駆け出す。
幸いにして気が狂っているとは言え、ゴリラ擬きはあの図体の所為で動きが鈍く、爺さんから数メートルは離れることが出来た。
あとは巻き込まないように立ち位置を考えれば良いだろう。
そんなことを考えつつも、己はゴリラ擬きと一刀一足の間合いへと踏み込み……如何にしてこの巨体の隙を窺おうかと正眼に構えた、その時だった。
不意に森の主と呼ばれるその巨体が右腕を振りかぶったかと思うと、狂気に任せてその右腕を己へと叩き付けてきたのだ。
「う、ぉおおおおおおおおおおおおっ!」
その一撃を見て完全に間合いを読み違えていたらしいと悟った己は、そんな叫びを上げながら足運びも格好も意に介す余裕すらなく、ただ横っ飛びに身を投げる。
幸いにしてゴリラ擬きが狂気に冒され、フェイントをかける余裕もなかったお蔭で予備動作から軌道を見切り、何とか躱すことが出来た訳だが……
(当たれば、一撃で即死だな)
頭上を通り過ぎて行った風圧と、全身の筋肉と重量とを考えるだけで、その未来を予測するのは容易いことだった。
地べたを転がり土埃まみれになった己は、転がる勢いを上手く使って飛び起きながら、自分の失態を悟る。
(……コイツ。
全長は、三メートルなんてもんじゃない)
ゴリラなんて生き物をじっくり観察したことがなかったこと、自分の体格を大きく超える大型哺乳類との対戦経験なんてあの闇賭博での黒人以外にはなかったこと……そして、ゴリラという種が背を丸めて歩く習性を失念していたこと。
それらの要素の所為で完全に見誤っていたのだが……このゴリラ擬き、恐らくは全長が四メートル近い化け物である。
つまりさっきの己は迂闊にも無防備に相手の腕の範囲へと歩いて行った、ただの自殺志願者に近い行動だった、という訳だ。
(しかし、こんな化け物、どうやって相手をすれば……)
己は愛刀「村柾」を握り直しながら、自問自答を行う。
己の収めた剣術はあくまで対人戦……人間大の大きさの相手を想定した代物だ。
勿論、死者とか百足とかを相手に戦いはしたが、ここまで大きな生き物と戦うことは想定していない。
巨大百足を何とか斃せたのは、アレが唯一の弱点である頭部を使って攻撃してきたからに過ぎず……このゴリラ擬きは手足が生えている以上、その勝機を見い出すことも叶わないだろう。
そもそも己とこの巨体とを対比してみると……どんな敵だろうと屠ってきた己の愛刀は、この化け物に対しては小柄以下の代物でしかないのだ。
つまり、今からの戦いは、あの猿擬きに対して小柄で戦うのとほぼ同じ……
(……いや、そんな単純な問題じゃない、か)
彼我のサイズ差は素直に筋力差になり、骨密度の差にも繋がる。
己の筋力で斬りつけたところで、あの巨体を支える筋肉を切り裂けるとは思わないし、その重量を支えている太い骨を斬るのも至難の業だ。
更に、体格差と重量差は攻撃力にも比例するのが当然で……あの拳を一度でも喰らえばあっさりと命を奪われる不利まで考慮すると、さっきの猿擬きと小柄で戦うよりも遥かに厳しい戦いになるに違いない。
尤も……
「……やっぱ、戦いってのはこうじゃなきゃ、な」
そのどうしようもない死闘こそ、己が求めるものなのだが。
己は命を捨てたがる自らの悪癖にそう軽く嗤うと……そのまま再びゴリラ擬きの間合いへと素直に踏み込むことにした。
「ぐごぉおおおおおおおおおおっ!」
自らを恐れようともせず近づいてきたことに矜持を傷つけれたのか。
それとも単純に動くモノが射程圏内に入って来たからの反射なのか。
どちらにしろその巨大な生き物は右の拳を振り上げ……間合いギリギリへと入り込んだ己へと叩き落とす。
「……所詮は、獣か」
己はその舞い降りてきた拳をサイドステップで軽く躱すのと同時に、その拳の付け根……手首へと愛刀を三寸ばかり叩き込む。
渾身の力で斬り込んだ己の斬撃はその硬い鱗の隙間へと吸い込まれ、直下の皮膚と腱と……そして己の狙いである動脈とを切り裂いていた。
(……狙い通りだな)
幾ら身体がデカかろうと……巨体を支えるために筋肉が肥大化していようと骨密度が高かろうと、皮膚や毛になりかけている鱗はそこまでの強度はないだろうし、血管についても同様だと推測したのだが。
幸いにして己の読みは完全に当たり、森の王とかいう巨大なゴリラは手首から凄まじい血を吹き出し始めた。
(……これで致命傷。
後は放っておくだけで勝てる、んだが……)
こうして重要な動脈を断ち切った以上、適切な治療を受けなければ、それだけで出血多量で命を落とす。
気の狂った野生生物に止血や治療なんて発想がある訳もなく……このまま放っておけば、己の勝ちは揺るぎない。
「……んだ、けどなっ!」
首を振ることでそんな「お賢い」選択肢を追い払った己は、そう笑うと愛刀を握りしめ、手首から噴き出る血をまき散らしながら暴れる森の主の方へと走り込む。
……そう。
勝てば良いだけなら、寝首をかけば良い。
勝てば良いだけなら、集団で襲えば良い。
この猿ならば、遠くから火矢で焼く、縄で足を払い動きを封じる、糞尿へと漬け込んだ刃で破傷風を罹患させる……幾らでも殺しようはある。
だが、それでは己の剣は上達しないからこそ、それでは剣で勝ったと誇れないからこそ……己は天賜という名の超能力さえも使わず、こうして愛刀一本で戦い抜いている。
「まずは、その鬱陶しい手からっ!」
射程に踏み込めば腕が振るわれる……攻撃衝動に支配され冷静な判断すらも失っているのだろうこのゴリラ擬きは、ほぼ機械的な動作とばかりに左腕を振り下してくる。
その腕に対して刃を突き立て、先ほどと同じように手首の腱のみを切り裂いた己は、直後に振るわれた右手を半歩下がることで躱す。
その下がった己に向けて、ゴリラ擬きは腱を断ち切られた左腕を振りおろし……
「っととっ!」
もう一歩後ずさった己は、ほんのコンマ数秒前まで自分の立っていた場所に叩き付けられた左手が引き起こした風圧に、思わずもう半歩ほど後ろへと下がってしまう。
その拳が大地を叩く轟音に混ざり、べきべきと指の骨が砕ける音がしたのは気のせいではない。
そして、攻撃衝動に支配されているにしても、自らの手の骨が砕けたその感触に一瞬だけでも気が逸れた今こそが好機だった。
「らぁあああああああああっちぇぇええすっ!」
いつ頭上から血の噴き出す右手を叩き付けられるか分からない状況の中、己は強引に五メートルほどの距離を走り込むと、ゴリラ擬きの巨体を支える右足へと愛刀を叩き付ける。
「……硬っ!」
とは言え、骨も筋肉も腕よりも脚の方が何倍も堅固であるのは紛れもない事実で……己が渾身の力を込めて放った筈の斬撃は、あっさりと太腿の筋肉によって阻まれてしまう。
(くそがっ!
……半ばまでは断てると思ったが、甘かったかっ!)
直後に振るわれた前蹴り……と言うよりも足元の邪魔なゴミを蹴り剥がそうとしたらしきその動作を必死に躱しながら、己はそう舌打ちする。
事実、己の渾身の横薙ぎは、このデカブツの筋肉に一寸すらも斬り込めなかったのだ。
これほどの硬度を誇る筋肉を持っている以上……己の放った渾身の一撃が通用しなかった以上、今の己の技量では、どれだけ頑張ったところでこの化け物から戦闘力を奪うなんて不可能ということになる。
その事実を前に、己の動きが一瞬だけ止まってしまった、のだろう。
「……しまっ」
直後、退化している所為で全く使う素振りを見せなかった森の主の「下の腕」が胴から離れ……意図はしていないのだろうが、裏拳の形で己の頭部へと放たれる。
その全く予期していなかった一撃に、己は何とか左手を上げてガードすることは出来たものの……そんな努力も虚しく、己はガードごと数メートルは吹っ飛ばされ、無様にも大地を転がることになったのだった。
2017/11/18 09:49現在
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