01-01
己が目を覚ますと、まず目に入ってきたのは白地に奇妙な幾何学的模様が描かれた……円と三角と四角を複雑に絡ませた、目が痛くなるような模様の天井だった。
その天井は人の身長を四人分並べても手が届かないほど高く、柱も直線と円弧によって描かれたような、複雑で奇怪な模様をしていて……何と言うか、日本でもキリスト教圏でもあまり見ないようなデザインだなぁと何となく考える。
「……此処、は?」
思いっきり飲み明かしてぶっ倒れた翌日のような、全く思考が定まらない頭のまま、己は身体を起こそうと手を床へとつけ……
「~~~っ!」
手が近くに転がってあった愛刀「村柾」に触れ、鞘と鍔が僅かに音を立てたその瞬間……己の頭は瞬時に覚醒し終えていた。
それは、剣に生きる者として「剣さえ握れば即座に戦闘思考へと移る」……そんな条件反射を十数年も繰り返していたお蔭だろう。
直後、近くにあった気配に気付くのと同時に、己は飛び起きると居合の姿勢を取る。
目覚めた瞬間から身体を自在に動かせるのも、長年の訓練の賜物……と言いたいところではあるが、生憎と己はそこまでの境地には至っていない。
未だに柄へと当てた手の感覚は鈍く、焦点の合わない視界は濁り、身体中に力が入らず……平衡感覚にも若干の支障を来しているのが分かる。
それでも、寝込みを襲われるよりはマシだろうと、強引に眼前の気配へと焦点を合わせたところで……その気配の持ち主は齢を重ねた証である皺だらけの顔が特徴的な、純白の服を着て純白の帽子を被った、司祭のような爺さんだったと気付く。
「お目覚めですかな、神兵よ」
眉も髭も髪の毛もないという非常に特徴的な外見を持った爺さんの、その言葉に敵意はなく……にこやかな表情を見る限り、悪意も騙そうとする気配もなさそうなのを見て取った己は、居合の構えを解くと爺さんの真正面へと胡坐をかいて座り込む。
「爺さん、あんたは……」
「神兵よ……身体に違和感は御座いませぬかな?
貴方様は異界から来られたばかり。
如何に我らが全知全能の神の御業で送られたにしろ、人の身に世界を超える業は負担が大きいと聞きますので」
顔の彫が深く、肌は赤茶けた感があり、暗灰色の瞳を持つという……明らかに日本人ではない爺さんの言葉は、己の知っている日本語や英語とは明らかに異なっているにも関わらず、それでも意味が通じるという不思議極まりないものだった。
(そう言えば、あの幾何学模様が何か……)
確か『あちらの言語は脳に焼き付けておく』とか何とかと言っていたような。
尤も……
「ああ、私は偉大にして至高なる神の僕……この大神殿の長を務めるエリフシャルフト=ハルセリカ=エリムグラウトと申します。
神兵に置かれましては……」
言葉が通じるからと言って、相手が何を言っているのかが分かるとは限らないのだが。
この剃っているのか抜けたのかは分からないが、毛が一本もない爺さんが口にする言葉の中に、ちょくちょく出てくる自分の知らない……「何となくの意味しか分からない」単語がどうも気にかかる。
……聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥。
己はそのことわざを思い返すと、すぐさまその知らない単語を訊ねることにした。
「……あ、あー、とは?」
「違います。
アーとだけ、口にするのです。
我らが偉大にして口にするのも恐れ多い至高の方の御名を表す唯一にして無二、不変の意味を持つ言葉なのです」
「……あ、あー」
「いえ、アーです」
爺さんの答えは良く分からず……と言うか、自分の発している「アー」という単語の何が悪いのかさえも理解出来なかった己は、それを理解するまでにそんな間の抜けたやり取りを五度ほど繰り返すことなってしまった。
その五度のやり取りで理解出来たことをまとめると……
(アーってのはこの国の最高神……あの異次元世界にいた、幾何学模様の名前なのか)
そして、己の言葉の何が悪かったかというと、アーと呼ぶその名は「ファの音程で」「一定の抑揚のまま」「心臓が一拍するほどの長さで」発音しなければならない、らしい。
この辺りの、音の高さや抑揚、音の長さまでもを単語に求めるというは日本人をやっていた己には良く分からない感覚だが……まぁ、この寺院的にはそういうもの、なのだろう。
(なら、あの幾何学模様の言うとおり……)
今、己がいるこの場所は、もう日本でも地球でもなく……あの幾何学模様が言っていた「己が救うべき異世界」ということになるのだろうか。
周囲に漂う空気は、妙な嗅ぎなれない苦いような焼香が立ち込めているし、建物も見慣れぬ異様な建築様式、その挙句にこの爺さんはどう見ても日本人ではないのに、英語でも日本語でもない己が理解出来る言葉を発する等々、己の知っている地球の何処とも違うとは断言できるのだが……それでも、此処を別の世界と断定できるほど、異質極まりない訳ではない。
そうして己が周囲の様子を窺い終わるのを見届けたのか、眼前の爺さんは不意に居住まいを正すとこちらをまっすぐに見つめ……
「そう言えば、全知全能たる至高の御方よりこの世界へと送られし、神兵よ。
貴方様は……何という御名前でしょうか?」
……そう、己に訊ねてきた。
その問いに己は少しだけ考え込んでしまう。
ここで自分の名を口にするのは簡単だ。
とは言え……あちらの己は、もう、死んだのだ。
刀一本でどこまで強くなれるかなどと粋がった末に、命がけの闇賭博に身を投じた挙句、博打に負けて自暴自棄になったクズの銃弾をその身に受けて、あっけなく物言わぬ肉の塊と化してしまったのだ。
今頃、あちらの世界では組織の連中によって事件は隠蔽され、賭博に関わり身元の明かせない己の身体は身元不明の死体としてハドソン川に浮かんでいることだろう。
「……ジョン。
己の名は、ジョン=ドゥ、だ」
……そう。
最早己は剣の道を極めるという夢に破れ、屍を野に晒した……ただの身元不明の死体でしかない。
そういう諧謔を込めた名乗りではあったが……爺さんとしてはそれでも良かったらしい。
己の名を聞いた爺さんは突如、両の手を床へと突き……白地に白い模様をあしらっている、目立たぬものの高級そうな丸帽子を乗せた、髪の毛一つないその頭を伏せ始めたのだ。
「お、おい?」
それは日本で言うところの土下座……いや、正確には土下座に良く似たこの国での風習だろうが、そんなものを向けられ驚いた己の口からは、そんな慌てた声が発せられていた。
そもそも剣の道ばかりを邁進してきた己は、自分の数倍も生きてきた老人から土下座をされて平然としていられるほど人の上に立つことに慣れている筈もなく……慌てた己は爺さんを起こそうと身を乗り出す。
だが、爺さんは頭を上げるどころか、更に額を床に叩き付け……その願いを口にした。
「全知全能たる至高神によって送られた神兵……いえ、ジョン=ドゥ様。
どうか、我らの国を……この、神聖エリムグラウト帝国を救って頂きたく」
それは、何処かで聞いたことがあるような……正確には、あの幾何学模様のような至高神「アー」とかいう存在が口にしたのと全く同じ願いだった。
己がその事実を問いただすよりも早く、エリフシャルフトという名の老人はその言葉の続きを口にする。
「この国を滅ぼそうとする……六王という名の、悪魔から」
あの幾何学模様も同じ名を口にした……これから己が刃を交えることとなる、世界を滅ぼそうとしているらしきその怨敵の名を。
2017/09/01 08:00現在(更新時)
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