02-01
息を吸えない。
必死に咽喉を胸を腹を、四肢の至るところまでもを使って酸素を求めるものの、息を幾ら吸い込んだところで水の音が響くだけで、全く空気が入ってこない。
既に打たれた胸の激痛も衝撃も、身体中の怪我の痛みすらも意に介せず、ただただ酸素のみを求めてもがき続ける。
口腔の奥底から漂う血の匂いが、咽喉の奥から肺胞の全てに至るまで血液が溜まったままだと教えてくれるが……己はただ息を吸えない苦しみから、咽喉を引き裂いてでも胸骨を折り砕き開いてでもただ一度で良いから呼吸をしたい一心で、必死に身体を掻き毟り……
「がぁああああああああっ!」
その文字通りの「地獄の苦しみ」から逃れようとした結果、知らず知らずの内に己の咽喉はそんな獣同然の咆哮を放っていて……その形振り構わない叫びのあまりの五月蠅さによって、己の意識は暗闇から浮上した。
「……はぁっ、はっ、はぁっ、はっ」
自由に息を吸い、吐ける……そんな生きている人間なら当然のものとして甘受し、疑問にも思ったことがないその行為。
そんな当たり前のこと出来る……それだけのことをこれほど嬉しく思ったことなど、己の今までの人生で一度もなかっただろう。
(……あ、ああ?)
そうして息が出来ることに慣れてきた頃……己はようやく自分の身体が痛まないことに気付く。
叩き潰された胸骨も、貫かれた左肩も、折れた左手の指も、踏み潰された左足の親指も……身体中に刻まれたあの死闘の痕跡が、一切存在してないのだ。
「……アレは、夢、か?」
そう呟きながらも己が次にしたのは、手元にあった愛刀「村柾」を引き抜き……その刃の状態を確かめることだった。
愛刀の刃は刃こぼれどころか返り血も脂の曇り一つすらもなく、まるで砥ぎに出されたばかりの……この国に来たばかりの頃のようだった。
……だけど。
幾らなんでもアレは、夢と断じるにしては現実味があり過ぎた。
話した人たち、食べた飯どころか、人を斬った感触や槍に抉られた感触、そして自分自身が死ぬその直前まで……何もかもが鮮明に思い出せるのだ。
何よりも自分の着ている道着が血の染みによってどす黒く変色しており、あちこちに切られた跡が残っている。
あの戦いが夢だというならば、この道着に血の跡や斬られた跡が残っている筈もない。
(つまり……アレは夢ではない)
そう結論を出した己は、ようやく現在自分がいる場所へと注意を払う余裕が生まれたのか、気付けば周りを見渡していた。
「ここ、は……」
そうして、周囲を見渡した結果……己が今いる場所は、見覚えのある場所だった。
見慣れぬものの、見た覚えのある複雑な幾何学模様が描かれた天井が一面に広がり、そしてかなり近い距離には、間違いなく己の記憶にある毛の一本もない爺さんの顔が視界いっぱいに広がり……
「お目覚めですかな、神兵よ」
「ぅぉおおっ?」
眼前に佇んでいた、髪どころか髭も眉すらもないその爺さんから突如として放たれた声に度肝を抜かれた己は、反射的に愛刀を鞘走らせ……その皺だらけのそっ首を叩き斬る寸前で我に返り、必死に刃を止める。
己がそこまで驚いたのは、やはり死んだ夢を見せられ……いや、死んだ感覚を味わったばかりで、その恐怖が身体の奥底に残っていた所為、だろう。
「……心臓に悪いぜ、爺さん」
「はははっ、それはお互い様ですな、神兵よ。
しかし、幾度か生き返ることが出来るとは言え……翌日で亡くなられた御方も珍しい」
エリフシャルフトとかって名前があった気がする爺さんは、己が放った刃を目の当たりにしても欠片も動じることなく静かにそう呟いてみせる。
その豪胆さは、まさに長い間を神との対話に費やした聖職者ならではのもので……現世への執着を放棄した聖職者のあるべき姿と言えなくもないだろう。
ある意味達人の境地である爺さんのその姿に、己は溜息を一つ吐き出すと愛刀を鞘へと仕舞い……ふと気付く。
「幾度か、生き返る……だと?」
「ええ。
それこそが神による天より賜りし祝福、とでも言うべきなのでしょう。
今までも幾度となく……記録にある限りでは、九度の死を超えた英雄がいたほどです」
爺さんのその言葉は、正直なところ己の頭には全く入っていなかった。
(アレは……やはり、夢ではなかった、のか)
愛刀「村柾」で盗賊どもを斬り捨てたことも、不死の兵士たちと一騎打ちを延々と繰り返したことも。
英霊の七騎士と呼ばれる男たち二人と命を賭けギリギリの死合いを続けたことも。
折れた指も潰れた足の指も切られた皮膚も、抉られた肩も叩き潰された肺腑さえも。
そして何よりも……相手の動き全ての先が見て取れて、最小限の動きで相手の斬撃を躱し最短の軌道を描いて敵を屠ることが出来た、己がたどり着いた「流れ」ともいうべきあの境地っ!
「おいっ、爺さんっ!」
「ぅ、うおおおっ、おお?
ど、どうしたのですかな、神兵よ」
あの感覚を思い出した瞬間……己はなりふり構わずに、ただ衝動のままにそう叫んでいた。
突如として叫びだした己を前に、日本刀の刃を突き付けられても驚かなかった爺さんが動揺を必死に押し殺すようにそう問いかけてくる。
自分自身がどんな表情をしているのか知る術のなく……いや、そんなことに配慮をする余裕すらなかった己は、その爺さんの暗灰色に光る瞳をまっすぐに見つめ返すと……
「これほどの寺院だ、僧兵くらいいるだろう?
少し、稽古相手を貸してくれっ!」
礼儀も遠慮もかなぐり捨てた声で、そう問いかけたのだった。
「くそっ、ダメかっ!」
眼前で伏したままの僧兵……と思しき屈強な男たち七人を見下ろしながら、己は大きな声でそう吐き捨てていた。
一対一では稽古にもならないと考えた己は、七対一という無茶苦茶な戦いを挑み……三度ほど軽く撃たれただけで七人全員を叩き伏すことに成功する。
……だけど。
(こんなものじゃ、なかったっ!)
正直に言ってしまうと、コイツらは幾ら屈強だとは言え、所詮は身体を鍛えるだけで実戦経験すらない僧兵に過ぎず、しかも武器は木剣や棍という緊張感のない代物で……この程度の稽古では、あの戦いの中で感じていたひりつくような空気の重さすらも感じられやしない。
当然のことながら、そんな有様ではあの戦いの最中で至った境地に至ることなど叶う筈もなく……
「くそったれがぁああああああああああああっ!」
かすった腕とわき腹、右の太ももに微かな痛みを覚えるが……そんなものよりも、あの死の直前に感じていた「流れ」ともいうべき感覚が自分の中にない喪失感の方が遥かに強い。
その苛立ちに任せて稽古用の木剣を適当にその辺りへと叩き付けるものの……そんな八つ当たりをしたところで、何かが解決する訳もなく。
ただあの死の瞬間……極限状態にあった自分がいたあの境地こそが、師の見ていただろう達人の感覚であり、才能がないと言われ続けた己がどうしても到達出来なかった「極み」と呼ばれるものの筈だった。
そんな自分にとっての目標が手の中で砂と化し散っていく感覚に……己はただ歯噛みすることしか出来ない。
「もう一度だっ!
あの不死の兵士共を、あと百体くらい斬ればっ!」
結局、己が出した結論はそんな……当たり前のようで、どうしようもない代物だった。
命が失われることが、ただ息が出来ないだけのことが、一体どれだけ苦しいことかを思い知らされたのは……僅か十五分ほど前のことだというのに。
折られた左手の指も、踏み潰された左足の指も、何度も斬られた皮膚も、貫かれた左肩も、潰された胸骨も……それら全ての痛みが「二度と味わいたくない」ほどに、思い返すだけで手が震えるほどに恐ろしいというのに。
(けど、命を賭けなければ、あの境地にはたどり着けないっ!)
それでも己は、そんな恐怖や躊躇いを消し飛ばすほど、「剣を極めたい」「強くなりたい」という衝動に突き動かされてしまう。
自分でも馬鹿だと、愚かな選択だと分かっているのに……あの時の激痛と疲労の中で極みへと近づいたあの歓喜が忘れられないのだ。
つまりが、一度死んだくらいでは治らなかった己の剣術バカは、二度目の死を迎えても治らないほど本当にもうどうしようもない、救いようのない代物だったらしい。
(そうと決まればっ!)
こんなところで雑魚を相手に、木刀でお遊びをしている暇なんてないだろう。
「う、ううう。
いてぇ、腕が、腕がぁあああ」
「肋骨が……折れたぁああ。
……誰か、教皇様を呼んでくれ……頼む」
叩きのめした僧兵たちのそんな呻き声を意に介す余裕もない己は、自分の思いつきに従いもう一度北の霊廟へと向かうべく、踵を返した……まさにその時だった。
「これはこれは……随分と、荒れておりますな、神兵よ」
木剣でぶん殴られて伏したままの僧兵共……まさに死屍累々というその有様を見ながらも、そんな呑気な声を上げたのは、白い帽子に白い法衣のようなものを着込んだ、髪の毛が一本もない爺さんだった。
エリフシャルフトという名の爺さんは、地に伏したままの僧兵の側へとしゃがみ込むと、静かにその男の怪我……己が先ほど木剣を叩きつけてへし折れてしまった右腕へと手をかざす。
(……なん、だ?)
苛立ち紛れに僧兵たちを叩きのめしたことへの恨み言か、もしくは慈愛と調和に関するうんたらという説教を聞かされるかと身構えた己の目の前で、ソレは起こった。
「よくご覧ください、神兵よ。
これこそが、我らが神より賜れた天の祝福……即ち、天賜で御座ります」
そんな意味が分かるような分からないような言葉と共に、エリフシャルフトという名の爺さんがかざした手の先……僧兵のへし折れていた筈のその腕が、まるで時を巻き戻したかのように腫れが引き、折れた腕が正常な位置へと戻って行ったのだ。
2017/09/09 20:15投稿時
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