挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

夢中の夜

作者:HiraRen
夢中の夜



 電話口で後輩は「やめたほうがいいっすよ」と言った。
 会計事務所に勤める後輩は、僕がデートした女の事を深く知っているようではなかったが、今日の所業の当事者であるだけに不快感を露わにしていた。
「そんな子には見えなかったけどな」
 僕の返答に後輩はちょっとだけ笑い、「小学生とか中学生じゃないんです。大学生の女は……いや、大人の女は内心でどう思っているかなんてわかりませんよ」と付け加えた。
 中性的で男女から均等に好かれていたはずの後輩は、初めて白黒の判別がつく主張をしたように思えた。僕が知る限り、彼は柔和で、何事にも許容を示す男だったのだ。
「その品物は全部捨てておいてくれ」
「そう言ってもらえて助かります。預かっておく事なんて、できませんし――」
「――したくもないだろう?」
 ええ、と後輩は言って電話を切った。
 深夜のファミレスで電話をポケットにしまうと、批判的な目でこちらを見ていた中年の女が手元の手帳に視線を戻した。僕はため息をつき、やりかけの法人税のテキストを閉じた。
 ここ数年、うまくいく、と言った事が全くないように思えた。
 大学を卒業して、いったんはサラリーマンとして働いた。ある程度の会社に入り、ある程度のお金をため、そしてある程度の苦難を乗り越えた。そこにはフォーカスされるような喜劇も悲劇もなく、平然と流れる時間に従って展開される、日常的な現実の隆起が心身に多少の刺激を与えたにすぎなかった。
 その刺激の末に僕は会社を辞め、大学院へ戻った。
 会社を辞めた大きな理由は――ここで回想しても仕方がない。あるのは日常的な現実の隆起が僕を疲れさせ、本来あるべき道に人生を戻そうと思ったからだ。
 なにが『本来あるべき道』なのかは、僕にもわからないけど。
 税理士資格を得るために心血を注いだ学生時代だった。
 国税三法のうちに所得税法を合格していた経緯もあり、この機に取り残した税理士資格を取得して、税理士事務所に入るのも悪くないと思い、大学院へ戻った。
 その大学院で出会ったのが、あの女だった。
 あの女は大学院の事務手伝いとして、大学生の身分ではあったが、大学院へ出入りしていた。そんな彼女とデートし、「すっごく楽しかったです」「やっぱりいちど社会に出てる人は違うなって思ったんです。落ち着いてるって言うか、懐が深いっていうか」などと夜景の見えるレストランで話した末に、僕がプレゼントした品を後輩に「預かっといて」と押し付けた。
 あの女は僕と後輩の関係について知らなかったのだろう。それはあの女と後輩が知り合いだったと知らなかった僕と同様に。
 急に事件に巻き込まれた後輩は、押し付けられた品々のなかに僕の写真があることを認め、連絡をしてきたという次第だ。
 なんとも恥ずかしいことだが、胸が締め付けられるような羞恥心はほとんど感じなかった。
 どうせこのような結末になる事は『最初から』予想出来ていた。
 うまくいくわけがない。
 そんな予想が最初から僕の心には根付いていた。
 閉塞的な試験勉強の合間に、ちょっとだけ年下の女の事と遊びたかった。言ってしまえば下半身の交流を求めていたにすぎない。それはプロフェッショナルではなく、アマチュアな世界での交流である。
 深く崇高な思想もなく、単なる遊びのやり取りのなかで、僕は見事にハメられて敗北したのだ。
 コーヒーを飲み、再びため息をついた。
 深夜も営業しているファミレスで、こうして勉強するのは苦痛ではない。自宅で勉強できない分、僕は大学生の頃からファミレスで勉強することが多かった。しかし、学生のころと違うのは、もう知り合いがどこにもいないという事だ。
 ドリンクバーにコーヒーを淹れに立ち上がり、席に戻ってきたとき、僕は不意に足を止めた。
 僕が利用していた席に、見知らぬ人影が――いや、後ろ姿が座っていた。
 その男は……いや、その背中は極端に猫背であり、服の首筋からはたくさんの毛があふれていた。
 胴長の身体をぐるりと捩って振り返った奇妙な来客は、僕を見るなり表情をしかめた。
「あの、外で待っていたんですが、全然こないので呼びに来たんです。そろそろ出発させてもらえませんか?」
 その男――いや、やはり男とは呼べない――は、つぶらな黒い瞳で僕を見るなり、長い髭をひくひくと動かしながら水掻きの付いた手で扁平な頭を撫でた。まるで髪の毛の少なくなった頭を撫でつけるみたいに。
 黒ずんだ鼻先をぴくぴく動かす巨大なイタチのような生き物は、渋い表情を浮かべて続けた。
「お約束の時間までもうそんなにないんです。もし約束の時間を過ぎたら、依頼主に怒られてしまいますから、その、ちょっとだけ急いでもらえませんかね?」
 突き出た口からは明確な日本語が放たれる。しかし、その口に見える四本の鋭い牙は、確かに人間のものではない。
 僕はカップを落とし、たじろいだ。
 先ほど批判的な視線を僕に向けていた中年女が、同様の視線をこちらに投げてきた。
「あ、あんた、なんだよ……」
 震える声で僕が問いかけると、その獣は言ったのだ。
「カワウソです。あなたを迎えに来たんです」
**
 逃げ出したかったのに、僕はカワウソと一緒に店を出た。
 ほとんど僕は喋らなかったが、カワウソは嬉々として「よかった。これならまだ間に合います」と頷いていた。
 どこへ行くんだ、という問いかけを投げるよりも早く、カワウソは洋服から車のキーを取り出し、停車していたタクシーのドアを開けた。
「どうぞ、お乗りください」
 リュックを抱えて僕が車内に乗り込むと、カワウソは運転席に乗り込み、エンジンをかけた。見れば、このカワウソが着ている洋服はタクシーの乗務員が着ているものだった。
「あ、あんたはタクシーの運転手なのか?」
「そうです。でも、絶滅してしまったニホンカワウソとも言われたりします」
 カワウソの運転するタクシーは幹線道路を走りだした。
 時間は深夜二時を過ぎていて、車通りが少なかった。
 信号はどこも青で、警察も長距離の大型トラックの姿もほとんど見当たらなかった。
「僕はどこに連れて行かれるんですか?」
「依頼主さんのところです。そう緊張する必要はありません。以前にお会いしたことがあると聞いていますよ?」
 僕はカワウソの運転手も、カワウソの運転手に送迎を依頼する依頼主にも心当たりがなかった。
 しばらく車が走り、とある住宅街の中で停まった。
 タクシーの後部ドアが開き、「こちらです」とカワウソは言った。
 僕が路上へ降りると、そこは遠い昔に利用した公園だった。
 まわりの建物は変わってしまったが、ここは紛れもなく僕の地元で、小学生のころに友達と走りまわって遊んだ公園に他ならない。
 ブランコと滑り台と砂場があり、奥に広場がある。野球をはじめとした球技禁止の看板が立てられた広場で、僕らはサッカーをしたりした。
 そんな深夜の公園で、僕を待っていたのはひとりの女だった。
「久しぶり」
 彼女は古ぼけたベンチから立ち上がると、僕に向かって微笑みかけた。
 その姿を見て、僕は「あっ」と思った。
 彼女は小学生の頃に同じクラスだった女の子だ。たしか、名前は高田と言った。下の名前は思い出せない。
 当惑する僕に、高田はちょっとだけ笑みを浮かべた。
「驚いちゃったよね。それに忙しいのに、こんな時間に呼び出してごめんね」
「い、いや……」
 記憶の中の高田という少女と、目の前にいる高田と言う女性には大きな乖離があった。それは下の名前すら思い出せない存在の少女が、明確な女性となって目の前に現れているせいでもあるだろう。
 しかし、目の前にいる高田は明らかに綺麗な女性であった。
 それこそ、僕をハメた『あの女』よりも良い人物に見えた。
「佐藤くんには申し訳ないんだけど、ちょっとだけ付き合ってほしいの」
 彼女はそう言い、僕の前に近づいてくると不意に手を握ってきた。
「いや、そ、それは構わないけど……付き合うって、これからどこかへ行くの?」
「そう。いろんなところに行きたいの」
 彼女はそう言って公園の出入り口に停車しているタクシーを示した。そのタクシーの運転手であるカワウソは、僕らに浅く目礼した。
「さ、行こう!」
 高田はそう言って僕の手を引っ張った。
 小学生のときには感じなかった女性的な匂いが……けれども成人女性が放つ化粧くさい匂いではない、自然的な香りを僕は感じた。
 薄らぐ記憶の中で地味に過ごしている少女と現代の高田を結び付けるものは……おぼろげな名残しか見当たらなかった。しかし、その名残こそが彼女を高田と示し、僕が目もくれなかった少女なのだという事を証明しているように思えた。

 タクシーに乗り込み、水掻きの付いた手を持つカワウソが車を出発させると、高田は僕の肩に頭を寄せた。
「今日だけでいいの。だから、ごめんね。ちょっとだけ付き合って」
「別に構わないけど……。連絡先を教えてくれたら、それでいいんじゃないの?」
「それはできないわ。たぶん、もうひとりのわたしは家で寝てると思うから」
「家で寝てる……? キミは高田でしょ?」
 そうよ、と彼女は頷き、「でも、もう一人のわたしもいる。同じ空間にふたりのわたしは存在できないから」と続けた。
 どういう意味だろう、と僕は首をかしげ、苦笑いを浮かべるほかなかった。
 けれども、彼女の頭から発せられる匂いは、どことなく嫌なものではなかった。
「僕はさっきまでファミレスに居たんだけど、もしかして、そのファミレスに『僕はいまもいる』のかな?」
「たぶん、いると思うわ。だって、カワウソが運転するタクシーに佐藤くんは乗ってるんだよ。カワウソがタクシーを運転しない世界に、本来のあなたは存在し続けている。いまがちょっとだけ特別な状況なだけよ」
 それはたぶん、今晩だけのこと。
 高田はそう言ってちょっとだけ身を寄せてきた。
「ねえ、運転手さん。とっておきの場所にしてよ?」
「わかっていますよ、お客様!」
 高田の言葉にカワウソはアクセルを踏み込み、隣の車を追い抜いた。
 青信号をいくつもくぐり、アンダーパスを抜けたとき……僕はふと世界の矛盾のようなものを感じた。
 それは深夜の幹線道路に現れる亡霊のようなもので、僕らが眠っている時にもう一人の僕がこの世界を楽しんでいるような感覚だった。
 つまり、いまの僕が……本来あるべき僕の裏側の自分として、高田と一緒にタクシーに乗っている、という錯覚だ。それもカワウソが運転するタクシーに。
**
 車は商店街の入り口で停まった。
 深夜の商店街には人気がまったくないのに、軒先はどこも明るかった。
 開け放たれたシャッターや扉。
 並べられた野菜や魚たち。
 コンビニやスーパーのない、昔ながらの下町の商店街が僕らの前に現れた。
 カワウソは「お待ちしておりますので」と言って目礼した。
「さあ、行こうよ」
 高田は僕の腕を取って商店街へと引っ張ってゆく。
「ど、どこの商店街なんだよ。ここ」
「知らないわ。でも、素敵な場所だと思わない?」
 商店はどこもかしこも明るく、大きく店を開けている。しかし、店主や客は誰もおらず、完全な無人街だった。
 空にだけ大きな欠けた月が煌々と光っていた。
 そのような商店街の店に入り、高田は「写真撮って!」とはしゃいだ。
 二十代の女性が少女のように写真をせがんでいる。
 僕は当惑しつつも携帯電話を取り出し、画面をタッチしてシャッターを切る。
 カウンターの中で微笑む高田や野菜などを手にして「大きい!」と目を丸くする高田を僕は撮り続けた。
 旅先の記念写真みたいだ、と僕は思ったが、ここは下町の商店街で、誰もいない商店街に他ならない。
 彼女は人通りの全くない商店街のど真ん中をダンスをするみたいにくるくる回りながら、大きな声で笑っていた。
「楽しいね、楽しいね。すごく楽しいね」
 その奔放な声は、冷静に耳にすれば不気味なものだったかもしれない。けれども、このときの僕は純粋に「ああ、楽しいね」と返答することが出来た。
 一通り商店街で写真をとり、カワウソのタクシーに戻ると再び車はどこかへ向かって走り出した。
「次はどこに?」
 これは僕がカワウソに問いかけていた。
「もっと遠くに」
 そういってカワウソは街灯のない道路を強くアクセルを踏んでひた走った。

 車が停まったのは再びの商店街だった。
 しかし、その看板は明らかに異国のものだった。
「中国なのか、ここ……?」
 背の高い雑居ビルが林立する目抜き通りで、僕は上空をきょろきょろと見回しながら言った。
 高田はくすくす笑いながら、「ねえ、行こう!」と僕の手を取った。
 ここはどこなのだろう。
 日本よりも広い道路。赤い看板に黄色い文字で漢字が書かれている。僕には読めない漢字だ。
 茶葉の匂いが周囲に漂う。揚げ物の音が店の奥から聞こえる。背の高い街路樹が夜風に揺られてざわざわと音を立てていた。
 置き去りにされたバイク。点滅する信号機、遠くに伸びる高速道路……。
 誰もいない町で、僕らは一定の安堵を共有しながら、テーブルで、軒先で、商品を手にして、写真を撮った。最初は高田だけが被写体だったのに、途中から僕らは身体を寄せ合って携帯のカメラに収まった。
 僕の知る少女の高田はここにはおらず、僕の知らない高田が楽しそうに笑っていた。
 大人になった女性も少女のように笑うのだと僕はふと気付いた。
 豪華な楼門が商店街の終わりを告げ、門の外にカワウソのタクシーが待っていた。
 僕が門に振り返ると『天山茶城』と書かれていた。
 それがどこかの地名なのか。なんと読むのか。すべてがよくわからなかった。
「早く、次に行こうよ」
 高田はそう言って僕を急かす。
 シートに身を押し込むと扉が自動的に閉まり、再び車が動き出す。カワウソが運転する法人のタクシーが。
「どうして中国に車で来れるんだ?」
「わたし達は好きなところへ行けるからよ。もしくは、彼の運転がとびっきりに上手いのかも」
「でも、車で日本海は渡れない」
「もしかしたら、渤海を渡ったのかもよ?」
「それは答えになってないよ」
 言いながら、カワウソがタクシーを運転している答えだって見つけられてないじゃないか、と僕は思った。それを見抜いたのか、高田はくすくす笑いながら言ったのだ。
「わたし達は固定化された現実を生きてる。その考え方は、あるところでは不要になるの。現実の舞台の上で、現実とは異なる物語を進める。『そういう世界』があってもいいと思わない?」
 どうせ、夜が明けてしまったらすべてが終わるんだから。
 高田が最後にそう言ったような気がして、僕は反論すべき言葉を飲み込んだ。
「終わってしまうんだね。この不思議な旅は」
「終わっちゃうんだよ。小学校を卒業するみたいに。もう佐藤くんと会えないんだって思った日みたいに」
 彼女はそう言ってまた僕に寄りかかった。
 しばらく間があいた。
「好きだったんだよね。佐藤くんのこと」
 そう言って彼女は僕の腕に額や鼻を押し付けた。
「だから、呼び出しちゃったの」
 呼び出しちゃったの。
 彼女が言った言葉の意味を僕は胸の中で繰り返して、ゆっくりと、そして丁寧に考えた。
 僕は彼女に呼び出された。カワウソの運転手を介して。そして僕はカワウソのタクシーで彼女と一夜限りの奇妙な旅をしている。
 下町の商店街、異国の商店街、そしてこれからどこをめぐるのだろうか。ピラミッドだろうか。ストーンヘンジだろうか。でも、たぶんそんな観光地ではないだろう。
 案の定、タクシーが停まったのは薄暗い商店街の路地だった。
 遠くには超高層ビル群が壁のように立ち並び、その頂上には髪飾りのような赤と白のクレーンが見えた。
 僕らは背の低い、古ぼけた三階建ての商店が立ち並ぶ一角で車を降ろさされ、次第に夜明けが迫ってくる気配を背後に感じていた。
「高田の事は正直に言うとあまり覚えてないんだ」
「そうだと思うよ」
 この商店街はこれまでのものと違い、軒先の戸がすべて降ろされていた。明かりは小さな電球がところどころで光っているだけ。写真をとるにはあまりに暗すぎるような気がした。
「でも、どうして僕を呼んだの?」
「初恋の人だったからだよ」
「いや、そうじゃなくて……キミはカワウソの運転手と、どうして知り合いなのかなって」
 この問いかけに高田は即答しなかった。
 ただ遠くにそびえるビル群を見上げていた。
 僕はなんとなく、ビル群を見上げる彼女の後姿を一枚だけ撮った。案の定、あまり良い写真とは言えなかった。
「自己像幻視ってわかるかな? ドッペルゲンガーって言うんだけどね」
「聞いたことある。あんまり良いイメージはないけど」
「それに似たようなものなの。たぶん、もう一人の現実のわたしは、今頃ベッドの中で眠ってる。でも、その間だけ、わたしはこうして活動できる」
「さっき、ちょっと話してくれたことだね」
 そう、と高田は頷いて僕の前に歩み寄ってきた。
 昔は身長がそこまで変わらなかったのに、今は僕の方が歴然として背が高い。
 時代の流れ。時間の流れ。
「たぶん、佐藤くんも寝てる時に別の佐藤くんがいろんなところでいろんなことをしているんだと思うよ。人間ってそういうものだから」
「わからないな。すごく霊的というか、超常的だ」
 そうだよね、と高田は頷いた。
 それからしばらく無言を貫いてから、ちょっとだけさみしそうな顔で言った。
「深くは聞かないでほしいの。でもね、本当は『あなた』を『わたし』が呼びだす事は出来ない。でも、ある条件がそろったとき……人の感知し得ない存在を媒介にして、『わたし』は『あなた』に触れることが出来るの」
 彼女の言っている言葉を僕はしっかりと聞いた。聞いたうえで、幾度か胸の中で繰り返した。
「つまり、あのカワウソを介してキミは僕を呼びだした。そして、僕の知っている高田はキミとは同一でありながらも、別人であるってこと?」
 この問いかけに、彼女は「聞かないで」と首を振った。
 だから、僕は「わかった」と小さく頷くだけにしておいた。
 たぶん僕がこれらのロジックを理解したところで、なにか良い結果は現れないのだろう。多くのサラリーマンが経営首脳陣の考えを理解したところで利益を得られないのと同様に、僕は無駄な理解をすることを放棄した。
 次第に太陽が昇り始め、ビル群の窓がきらびやかに輝き始めた。
 古ぼけた街並みと遠くに見える近代的な街並み。
 多くのちぐはぐが陽の光の下で露わになってゆく。
 静かに僕の胸にもたれかかった彼女を、僕は自然と受け止めて、やさしく抱きしめた。
 そこに性的な感情も、恋愛的な感情も、なにもなかった。
 ただ、不思議なことではあるけれど……深い安心感のようなものを感じられた。
 それは子どもが親に抱きかかえられるような、もう十数年以上も忘れていた温かみが、僕の中にも、そして高田の中にも生まれていることが、明確に理解出来た。
「お取り込み中すいませんが……」
 カワウソがそう声をかけてきて、僕らの旅はここで終わった。
 帰りの車内は、僕も高田も無言だった。
 ずっと僕の傍にくっついていた高田は、見えない誰かが割り込んできたみたいにちょっとだけ空間を置いて座っていた。
 そして車が長い幹線道路をひた走っている最中に……僕は眠気に襲われて、意識を失ってしまった。
**
「お客様、お客様……」
「あっ、え、はい……」
 目を覚ますと、法人税のテキストによだれのシミが出来ていた。
 従業員の女性は困ったように眉を寄せ、トレイを手にして僕を『批判的に』睨んでいた。
「大変申し訳ありませんが、お休みになられるのはご遠慮いただけませんか?」
 ファミリーレストランの店員に指摘され、僕は「ふぁい!」と背筋を正し、携帯電話を確認した。時間は六時半を過ぎた頃だった。
 中年の女性はいなくなり、タクシーの運転手らしき初老の男性たちが奥のテーブルで雑談している。メニューはモーニングに切り替わっており、あちこちからコーヒーの香りがのぼっていた。
 軽い混乱の中で僕はファミレスをあとにした。
 財布も携帯も盗まれたわけでもないし、料金も法外な額になっていたわけではない。
 すべては固定化されていて、安定的な日常の一部を演出していた。
 太陽は空に登り始めて、蒸し暑い気配が空気の中に感じられた。
 幹線道路には通勤のための車や大型トラックが走っていて、電車も平常通り運行しているようだった。
 僕は携帯電話の通話履歴を見た。
 昨晩に後輩とやり取りをしたのを最後に、特に目立った変化はなかった。財布の中にある領収書や残金を見る限り、僕は『あの女』にプレゼントを買い、後輩がそれを押し付けられ、それに関するやり取りを電話で行った事は確からしい。
 では、カワウソのタクシーはどこへ消えたのだろうか。
 ファミレスから立ち去る道で立ち止まり、店員に問い合わせてみようかと思った。
 しかし、「カワウソが来ませんでしたか。眠った僕をカワウソが運んできませんでしたか」などと聞くわけにもいかず、再び帰路を歩み出した。
 自宅に帰りつき、風呂で熱いシャワーを浴びた。
 そうしてベッドに横になったとき、ふと写真の事を思い出した。
 昨日、高田と一緒に旅した、奇妙な無人街で撮った写真だ。
 携帯電話に飛びつき、ピクチャーの一覧を見ると……。
「あ、あった……」
 そこには確かに高田と無人街、そして自分と一緒に撮った複数の写真が残っていた。
 心霊写真のように彼女の顔がなかったり、いびつに写っていたり……と言ったものは一枚も見当たらなかった。丁寧に点検するように一枚一枚をしっかりと調べていったが……確かに僕の記憶に残っている高田と無人街が、克明に記録されていた。
「やっぱり、僕は高田と一緒に旅をしていたんだ」
 自分に言い聞かせるように呟いて、静かに目を瞑った。
 この腑に落ちない感じをどう解消したら良いものか……。
 そればかりを考えながら、穏やかな……本来あるべき眠りの世界へと僕は浸った。高田の主張が正しいのなら、もう一人の僕が活動する時間へ僕は落ちていったのだ。
**
 高田三沙子の動静が伝えられたのは、それから三週間ほどしてからだった。
 彼女の動静を知っていそうな小学校の同級生に連絡を取ってみたが、僕が親身にしていた同級生たち(親身にしていたが、ほとんど連絡はとっていなかった)は、誰も彼女の現在を知らなかった。
 そのうちの一人が同級生の女といまも交流があるというので、その伝手に頼むことにしたのだ。
 この手の怪奇現象は、あまり好ましくない結末に落ち着くことが多い。
 特に彼女は話していた。
「ある条件がそろったとき……人の感知し得ない存在を媒介にして、『わたし』は『あなた』に触れることが出来るの」
 その『ある条件』というのが、明確に示された死期であるような予感が僕にはあった。
 だから、高田三沙子のことわかったぞ、という返答が携帯に入ったとき、僕は少なからず緊張を強いられた。
 高田三沙子は二年前に結婚したとのことだ。
 相手は僕らの知らない人で、外国の人間らしい。詳しい事情は高田と親しかった同級生も知らないそうだ。そして昨年の夏ごろから中国で暮らしているとのことだ。最初の頃はやり取りがあったそうなのだが、それ以降はぷっつりと連絡を取っていない。
 僕の同級生は平然とした文面で「二年前に結婚してて、今は外人の旦那と中国暮らしらしいぜ」と教えてきた。補足的な内容はその後に僕が問い合わせて聞きだした。だが、どちらにせよ、多くの事は知りえなかったし、「なんでそんなこと調べてるんだ」という問いかけに、僕も多くは語らなかった。
 ただ、何らかの条件がそろい、高田三沙子はカワウソの運転手を介して僕の元に姿を見せたのだろう。
 あれ以来、僕の前にカワウソも高田三沙子も現れていない。
 同級生からだ――。
『いま、高田は上海なんだってよ』
 その連絡が来たとき、僕は『あの女』との二度目のデートを終え、後輩から「もういい加減やめたほうがいいですよ」という苦情とも叱責とも違うやり取りを終えた直後だった。
 僕はなにひとつ進展していないようだけど、高田三沙子は少なからぬ進展をしているのだろうか。
 そんなことを思いながらも、僕は今日も、法人税のテキストを読み進める。
 深夜のファミリーレストランで。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
― 感想を書く ―

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項をご確認ください。

名前:

▼良い点
▼気になる点
▼一言
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ