外伝 芒種
初めて山里に下りたのは、緑が青々とした色を付けた水無月の頃。
棲家にしている山の麓がどうなっているのか気になって、好奇心の赴くまま山里に下りたワタシが見たのは、穏やかで質素な、けれど幸せそうな暮らしをする人間達の姿だった。
人間を見たのはその時が初めてで、どんなことをしているのかもっと近くで見たくて、暖かい日差しの降り注ぐ集落へ足を踏み入れた。
人間はワタシの姿を見ると、一瞬「おや」と目を丸くしたが、すぐに自分達の仕事に戻っていった。
そこにいた人間達は皆、足首までつかる程の水を張った、広く四角く掘られた土の中で腰を折りながら懸命に何かを植えていた。
足や手が泥だらけになっていたが、それを気にする様子はない。
「?」
とにかくこの時は目に見えるもの全てが珍しく見えていたから、ワタシはついふらふらと人間達の方へと近付いて行った。
するとワタシに気付いた1人の男が、動かしていた手を止めて微笑んだ。
「どうしたおまえ、田植えが気になるんか?」
突然声を掛けられ思わず体を強張らせてしまったが、男は相変わらず穏やかに笑っていて、その表情にすっと体の緊張は解けた。
「こっちには入って来ちゃあかんぞ。泥まみれになるからなー」
彼はそう言って、額に浮んだ汗を拭いながら再び作業に戻った。
どうやらこの行為は、田植えと言うものらしい。
私はまじまじとその田植えの様子を観察した。
淡々と単調な作業を繰り返してはいるが、その手つきはとても丁寧で優しい。土に埋めている植物は、彼らにとってとても大切なものなのだろうか。
辺りを見回してみれば、田植えをしているのは彼だけではなかった。
何十人という人間が、各々の縄張りに同じ植物を規則正しく植えていく。
太陽の光に照らされた人間達の表情は、皆生き生きとして楽しげに見えた。
その様子に思わず見入ってしまう。
すると風に紛れてどこからか、ピーという高く澄んだ音と、トン、タトンという一定の間隔で刻まれる音が聞こえてきた。
聞いたことのない音に耳を澄ましながら辺りを見回すと、遠くの方から数人の人間が不思議な物を手に持ちながら歩いてくるのが見えた。
その音は、彼らが持ち、口に付けたり叩いたりしているものから発せられていた。
彼らに気が付いたのは私だけではない。ずっと土に目を向けていた人達も顔を上げ、音を連れてきた人間達を見るなり口元を綻ばした。
更にその人間達の後ろから、小さな子供たちが着いて来ているのが見えた。その子達は短い腕を目一杯大きく動かし、小さな手を音に合わせて打った。そして大きく口を開くと、空に向けて声を上げた。
―ををまへに をさだすきそめ
子供達が元気に歌いだすと、今度はその場にいた人間達が皆声を揃えて、奏でる音に合わせて歌い出した。
―すきかへし うえしさなえを
今度は唄に合わせて、皆息を揃えて植物を植えていく。里中が彼らの奏でる音と唄で包まれていく。
―まもれやちほに
山から吹き降りた風が、彼らが植えた植物を小さく揺らす。
天から降り注ぐ陽光が、彼らを祝福するように眩く照らす。
それはまるで祭りのようであり、儀式のようでもある、摩訶不思議な光景だった。
彼らがこんなに、賑やかに、楽しそうに、そして優しく植えたものはなんなのだろう?
彼らはこの植物を、どんな風に育てていくのだろう?
この植物はこれから、どんなものになるのだろう?
見てみたい、知りたい。
もっともっと、人間の営みを。
夏が過ぎ、秋が訪れ、冬を越すまで、ワタシは何度も人間達の元へ足を運んだ。
彼らが植えた小さな植物はぐんぐんと背を伸ばし、夏には土が見えなくなるくらいに青々と繁った。
秋になると黄金色に色を変え、葉の先には実が溢れるように生った。
冬を迎える前。彼らはそれを植えた時のように音を奏で唄を歌った。
それは太陽に、土に、水に、風に、そして神に、感謝を捧げる唄だった。
そうして刈り取った”イネ”と呼ぶその植物の実を丁寧に採れば、加工して食料とした。
「いただきます」「御馳走様でした」
そう手を合わせ感謝の言葉を告げながら、彼らはそれを食した。
丁寧に育てていた植物は、彼らの生きる糧だったのだ。
―愛しい
不意に、彼らの営みにそんな感情が心に湧いた。
自然を愛し、感謝しながら生きる。
自然を慈しみ、自然と共に生きる。
彼らの姿を垣間見、憧れた。
そして望んだ。
彼らと共にワタシも生きていきたい、と。
それからワタシは毎年のように山里へと足を運んだ。
やがて人間達は、ワタシが来ると喜んで迎えてくれるようになった。
声を掛けてくれ、近寄って行けば頭を撫でてくれたり、一緒に野を走って遊んだ。
時には彼らの大切な食べ物を、ワタシに分けてくれることもあった。
人里に下りてから幾度かの春を迎えた頃。
「トウカ様、また来たんだね」
「お帰りなさい、トウカ様」
ワタシは彼らに、”トウカ”という名をもらった。