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No one knew where life was headed for

 閃光のような夜を駆け抜け、私はだんだんと感覚を取り戻していった。現実の世界で、誰にも届かなかった煙草の煙が愛おしくなり、靴紐の乱れに気がつくようになり、雑然とした人混みの群れに人間の一生を投射した。私は身近におとなった偶然を校舎に投げられた石のように感じた。それは私が予想すべくもなかったが、硝子を散らし、私を外界に繋げてくれたのだ。しかしそれは、毒を吐く彗星などではない。偶然のもたらされによって世界と日常とを隔てる遥かな距離を溶かす熱の流れが、私に注がれていく。それは子供の頃の自分が書いた拙い手紙が風に乗って窓から飛び込んできたようなものだった。私はそれを静かに読み、丁寧に四角に折って、抽斗の奥にしまい込む。そしてそれを時折思い返しては懐かしい記憶に浸り、頬を緩め、目をひらくのだ。私の神、と私は口の中で呟いてみる。


 私はこうして現実にいる。夜に眠っても私は私のままだということを知っている。私はどこにも行けないのだ。私はこうして此処にいる。私は生活を送る。小説を書く。私を離れる者に向けて、あるいは私に成り行く者に向けて。私は息を吐く。

 私は書くしかないのだ。そして実際に、私の中身がすべて絞り出されてでも書く。むしろ私の中身など元から何もないのかもしれない。そしておそらく確かなことは、書いたことに感化され、私の様態が拡張する、すなわち私が何らかの真理を見出すことも同様にないと思われる。私にはコンプレックスがある。あるいは、そこに捉われないまでも様々な個人的幻想や自分に都合のいい解釈をしようとする傾向が常にあって、そこから離脱することはこの先一生能わないという予感もある。私は私でしかなく、私でないものになる私も私であり、私と私と私がいて、私がいる。絶望の意味連鎖と劣等感と固着した欲望と卑小な自意識と大いなる他者と人間的な両親と未来と現在と私がいる。私はペンを持ち、ノートの紙面にその先を当てる。理由などない、とは言わない。何も言えない、わけでもない。何でも言えるし、大概は無意味だ。しかし私は書くだろうし、実際に書く。この先出逢う私と私でないものと私だったものと私であるものと共に。何かが一緒にあることは悦ばしいことだ。独りでいるよりは大分いい。私は数多の方法から直感的に書くことを選んだ。なんとなく思うところでは、それが私に他よりも些か合っていた、それだけのことだ。「すべての道はローマに通ず」、方法などどれも大して変わりはしない。肝要なことは、進むことだ。それは多くの意味を持っているが、枝葉末節に捉われてはいけない。あの少女のように走ることだ。見つけるために、探し続けること。寄り道を楽しみ、季節を集め、星を目指し、血液の流れを巡り、自分の足跡を発見すること。進むこと、ただそのためだけに私は書く。他に理由など必要だろうか? 誰が本気でそんなことを思うと言うのだろうか?

 そうして私は終わりを始める。


 私はいつものように眠ろうとし、酒に溺れ、飲もうとした錠剤のひとつに、黒い斑点がついているのを発見する。その斑点は穴でプランクトンのような微生物が微かに出入りしているのが分かる。途端に部屋が印象を変える。既に夜ではなくなっている。倦怠した太陽が灼熱のように均等に世界を熱しているのが見える。私は外にいた。決定的な外にいた。路面は昨日まで雨が降っていたみたく、水たまりがそこら中にある。

 水たまりにふと目を向けるとアメンボが足と足が交差するほど犇めき合っていた。私はびっくりして反射的に後ずさり、目を背けると建物の壁に足あとが無数に行進を始めていて、それは映画の雑踏のように匿名の音を響かせながらどこからか来てどこかに向かっていた。一体どうしたというのだろう、と私は思った。地鳴りも聞こえる。世界はどうなっていくのだろう。ポケットに入れた右手の指の先に、不意にざわざわとした輪郭を感じ、そちらを見やると、そこからは蟻やムカデが大量に、泡が吹き毀れるように湧き出している。身が重なり合うカサカサとした音も聞こえる。私は眩暈がして地面に倒れ込んだ。至近距離のところを小さなレゴブロックの兵隊たちが闊歩し、それらを連れゆく列車の汽笛が鯨の鳴き声のように高々と鳴った。洪水のような一連の事態の流れに、自我は音を立てて罅割れ、自他の区別をなくしゆく。あらゆる物事がその身体から羽根を広げて孵化したようだった。私はよろめき、薄れゆく意識の中、仰向けになって空を見た。上下の瞼の隙間から見た空では落差によって雨雲みたいに濃い灰色になった雲々の砕かれる様子が見て取れる。その一か所からは禍々しく強引な力で地上を照らそうとすることをやめない神々しい太陽の光り、光線の束があった。草花の枯れた地上は燃えるようにそれらの光線に浮かび上がって、生とも死ともつかぬ微妙な変化の渦を止めどなく巻き起こした。私の瞳もあらゆるものと同様に注がれる光りに刺し貫かれ、私の身体は重心を繋ぎとめるのをやめてバランスをなくし、私を失って沈み込んでいく。鼓膜の震えは大きくなり、唾液は逆流を引き起こす。皮膚の感覚はとっくに消尽していた。そして意識も断片に離散し、私の手から独自の道を歩みだした。取り残された私のような何かが熔解していくのが分かる。何かの力を感じ、深く、誰も知らないほどに、誰も予期せぬ方向に深く遠く、私は、いやもはや私ともつかぬそれは引き摺られて、沈んでいく、沈み込んでゆく。静かに、あるいは轟々とした壮大な音を立てて。

 沈み込んでゆく? どこへだろう? 私の記憶の最期の感受はそれだった。

(了)


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