They are there, if you want
私は懊悩に沈み、夢の中でも悩むようになった。それは佐緒里と自分の円環に留まらず、私の経験してきた人々や物との出遭い、それらを繋ぐ直線、そしてできる幾何学図形。しかしそれは思い描いても、何の得もないように見える。誰もが自分のことしか考えていないのだとしたら、その図形に価値などあるのだろうか。事後的に評価を下したところでそれは単なる現実追認の閾を出ることはないのではないだろうか。
「日々の同じ行動はその蓋然性によって一筋の輪郭を得ることになる」
「それはくだらないことだと思うわ」
「どうして」少女は無機質な声色で訊ねる。
「……分かんない」
夜は続く。
青葉が寿命を迎え温かく染まり出し、空気が澄んで、夕暮れが鮮烈に空を引き裂いて飛散した星々が煌めく季節となった。
「あなたは海の底に広がるアトランティスを想像したことはある?」
「その一室には夢読みとその手伝いが動物の骨を手にとっているのかな」私はそれに適当に思いつくままの返答をした。
「そう!」少女はそのとき初めて歓喜の滲んだ声を上げた。「暖炉の火に当たって、温かいミルクを飲んだりする」
「それが……どうかした?」
「その光景はどこで見たの?」
「それは」私は胸の埃を掻き分けて深層を探る、がそれはなかなか見つからない。探そうと思っても見つからないことばかりなのだ。
「思い出せないけど」
「でも在ることは分かるね?」少女は念を押すように訊いた。
「うん」
「そのことだけは忘れないでね」
私たちは多くの話をした。私は、初めは無表情の一色とばかりに思っていた少女が実は、微妙な変化を織りなしていることに少しずつ気がつくようになってきた。形容しがたい皺の歪みや仕草の広がりが、私に彼女の本心への通り道を確かに示しているのだ。そういった日々を送るうち、私は高校のときにもっとよく佐緒里を見ていればよかったなと思うのであった。
その夜はオリオン座の流星群が降っていた。ガラス張りのビル群にそれは反射し、私たちはその光りの間を掻い潜って走っていた。バス停の光りと舞い散る閃光が、私たちを抱合し、全てのものをきらめかせた。私はその中で、昨日立ち寄った家の近くの紙屋川の流れや、高校の白峰佐緒里の仕草と、幼い頃の親戚の家の広い庭を思い出していた。大量消費の情報と、中学校の教諭の困り顔と、初めて破った約束と、壊してしまった関係と。
私は何にも替え難い、何よりも難しい届かない願いを夢想してしまう。止めようとしても、止めどなく。区切ろうとしても、それらはまるできちんと前もって断ち切ることが完遂されなかった時間のように、途絶えなく続く。少女は隣で私の知らない歌を歌っている。光りは視界を染めている。私の思いは溢れてしまう。草原で走り回れたらいいのに。部屋の中で笑い合えたらいいのに。日記を交換できたらいいのに。子犬を愛でて微笑むことができたらいいのに。世界を壊す流れ星を見上げられたらいいのに。中身のないテレビ番組を眺めてあたたかいコーヒーを手のひらで包めたらいいのに。屋上で授業の始まりを聞けたらいいのに。
何気ないひとときを過ごすだけでいいのに。
そんな私の手を少女は勢いよく握った。大丈夫よ、と彼女は言った。その声は私に巣食う多くの人間の声であり、その手の温かさは私自身のものに思え、私はそこはかとなく湧出する感情の渦に飲み込まれた。悲しみに押し流されそうになり、それでも怒涛のように押し寄せる恩寵の波を感知した。それは幾許かの希望を示し、私はその前に打ち顫えた。その夜が死ぬまで、少女は私の手を握っていてくれた。
数えきれないほどの夜を超え、私に初めての朝が到来した。最初で最後の朝である。それはあるバス停に辿り着いたときのことだった。そこは坂の上で山の裾野に当たり、振り返ると今まで走ってきた街の全貌がひらけて見える場所だった。疎らになっていた家の数は途端に少なくなり、この先は森林が静かに聳え立っているに過ぎない。自然と足の地面を蹴る速度が緩み、そのバス停の前まで来ると完全に解除され、休むことができるようになった。私たちは黙りこみ、バス停のベンチに座った。そうすると今までの疲労が一気に身体を蝕むように、私はすっかり疲れていた。遠く忘れていた気持ちの良い疲労感だった。私が身体を休める中、沈黙を破ったのは少女の方だった。決まって少女は私に何かを齎してくれた。
それは君の神だ、彼女は明けゆく空の方を眺めて言った。
「君は日常を破壊してくれるものを偶然と呼んだね。けれどそれは君の神そのものなんだ」
「私の?」
「うん、君はそれらを外部から来る偶然のように話していたけど、それらは君の無意識から零れ落ちた、剥がれ落ちた果肉の一滴なんだよ。そもそもどんな地平であれ、環世界であれ、“兇悪な偶然”なんてものは存在しない。偶然はただ偶然であるに過ぎない。それは言うなれば路傍の石だ。それは石としての特性を具えてはいるが、所詮は石っころに過ぎない。とってもシンプルだよ。それはそこにある……、偶然はそこに落ちてるだけなんだ。襲ってくる類のものじゃない。そこに楽観であれ、悲観であれ、諦めであれ、物事の成り立ちであれ、何を見てとるのかは当人の自由だ。私は全然好きじゃないけどそれをプロセスと呼ぶ人もいる」
「……それって他者の次元を蔑ろにしてるだけじゃないの」
少女はふとこちらを向いた。風はなく、彼女の髪はじっとりと山嶺の合間から昇る朝の陽に舐められて、明るい茶色に染め上げられ、ところどころの端はオレンジ色に透けていた。寒さのせいで彼女の瞳は潤み、それは乾いた紙が雨を吸い込み、やがて許容量を越えた雨滴がそこに溢れかえって、紙面を滑り落ちていく様を思わせた。
彼女は何かに区切りをつけるように言葉を吐いた。
「私ももはや君の一部になった。だからこの道もここで終わる、私の終着点はここなんだ。ここからは一歩も進めない」
忘れられた案山子のようにぽつんと立つバス停は、赤錆が酷くほとんど朽ちていた。時刻表を防ぐビニールのカバーも破れ、ある者の帰りを待ち侘びてそのまま時の流れに嵌め込まれてしまったように、定められた時刻を表示しながらも、それはもう誰の目にも読み取ることができなくなってしまっている。燐光も朝の光りでもう見えない。
「えっ、いや、私は……、私は、どうしたらいいのだろう」私は半ば焦慮した思いで言った。「あなたと共に此処まで来たのにその行く果てが行き止まりなのだったら、引き返すしかないのかしら。……この限りない今までの距離を、それもひとりで」
私の心がぽとんと水槽の中に落とされた心地になって、周りが恐怖心や悲しみの入り混じった青い気持ちでいっぱいになった。
「行き止まり? そんなことないわ」彼女は街を指差した。「あれを見て。もう思い出せるでしょう。私はそのために来たのだから」
街は来るべき朝の光りに充たされて、その全景をホログラムのように浮き上がらせていく。その瞬間、私は驚嘆の渦に引き込まれた。そのすべてを私は知っていたのだ。それは、見て、聞いて、覚えたことのすべてだった。私たちが走っていた街の全ては、それは私の記憶のコラージュで、あらゆる思い出の固着点が場所となり、街となって継ぎ接ぎされていたのである。それは多くの景色と連結され、私の記憶を象るひとつの景色であり、それが無数の道を孕んだ街であった。なぜ、こんなことに気づかなかったのだろう、ずっと走ってきたのに、と私は思う。しかしそれは言葉とはならない。喉でつかえて、意味を生み出せないから。代わりに涙が込み上げて止まない感情を吐露した。
「さよなら」少女は言った。
「ほら、ここから見ると綺麗でしょう。全部見たことあるでしょう、あなたの街なのよ。これはあなた自身なのよ。もう時間が来る、それじゃあさよなら」
またね、と言い残し彼女は消える。消える間際の彼女に私は多くの人の面影を重ねた。その誰もが街を含み、私に何かを働きかけようとしている。余韻に浸る間もなく、そこには朝の斜光が射し込み少女の姿は景色に溶け込んでしまった。私は茫然自失にベンチに座り、潤む視界に私の街の姿を認める。