Lost sensitive emotionnalism
自動ドアが開かない時、私は佐緒里のことを追憶する。
佐緒里は小学生の時の同級生で、本棚は私たちが詰まっている。市立の高校で、私たちは一緒だった。裏表にも思える存在で、欠如した私は些か身長の低い彼女を愛し尽きることなく愛していた。それはまるで底の抜けた水槽に注がれる水のように。私は彼女を母親のように慕っていたのだろうと思う。だから彼女と訣別し、わたしは彼女の代理を探す使命を刻印として心臓に記されている。
佐緒里は姓を白峰と言い、その清廉な響きの通り、育ちのよさそうな顔立ちをして、首筋は透き通るように白く、指先は硝子細工のように細く繊細だった。彼女はその指で、休み時間にページを捲った。白峰佐緒里のことを私は小学校の時分はさほど気に留めていなかった。だからその頃の思い出というのはほとんどない。私が彼女の席を心の中に設えたのは魂がやわく純白に光る高校二年の時である。その年に私たちは同じクラスになった。彼女は人当たりのいい微笑と何でもそつなくこなす穏当さを持っていたが、派手なものを避ける性質のためかクラスの彼女の座席にそれほど多くの生徒が集まることはなかった。小休憩の間は静かにそこで薄い厚さの文庫本を嗜み、その小さな本は彼女の両手にぴったりとおさまっていた。周りを拒絶してる風はなかったが、それでもまだらにざらついた教室の中で、彼女の周りだけは空気が透き通っているように私には思われた。
私には、イメージはなくともその名前にどことなく思い当たりがあったので、六月に入った頃、図書館から出る彼女に追いつき、それとなく訊ねてみた。遠くから見る彼女はどことなく芯に秘める冷然さを匂わせる節もあったので、私は内心不安でもあったのだが、その時見せた彼女の頬笑みは私の内部に生まれた遥かな距離を溶かしてくれた。それは深更にようやく家の明かりに辿り着き、温度に包まれる時の安堵に似ていた。彼女は顔を綻ばせて小学校のことを懐かしそうに語った。私はしかし先程とは異なった強張りを感じており、階段のステップと彼女の表情にばかり意識を奪われていたことを覚えている。そうして初めの障壁を乗り越え、私は彼女と話すようになったのだった。ありふれてとりとめのない、多くの人間の一人のように。
物事も感情も取り決めも印象すら移ろいゆく十七歳という時の中にあって、私は次第に彼女に生活の帰着点とでもいうべきものを求めるようになった。埼玉のような住宅と高速道路しかない片田舎では、ファッションや流行の振る舞いなんかも東京から遅れて輸入されてくる粗悪品でしかない。母親や父親の幻想に閉じ込められた教室という箱で疑うこともなく、それに反して独立するのも疎まれる、注がれて二日経った水みたいな空気の中に、私たちはいた。そこには常に嫌われたくないという思いと真剣に行動することの諦めとか共存し、蔓延しきって澱んでいた。そこはとても真面目に棲める環境ではなかったために、誰もが何かを探していた。彼らはそこから少し離れたところに目立たない程度の秘密基地を築いた。それは墓のようだった。指示をして動かない、地図帳のピンみたいなしるしが必要だった。それがないと人はいつ蝕まれて朽ちてしまうか、不安で仕方がないのである。私にとってのそれが彼女だったのである。
私たちは昼休みや放課後、図書室で本の吐きだす音響に耳を傾けて過ごし、五時になって閉館の折になると外に張り出された一階の連絡通路の自販機横のベンチでよくジュースを手にして喋り合った。教室棟と管理棟とを繋ぐそこは、中庭と体育館とを繋ぐ道とも重なっていて、校舎越しに校庭の運動部の掛け声や下校する生徒たちの歓声や卓球やバスケの音や管理棟の静けさたちの中間にあった。佐緒里は、傾いた陽のあかりに燃えて浮き上がり、海を横断する魚のような細切れの雲を仰ぎ見た。手を動かすとアルミ缶の中にたまった炭酸のはじける感触が微かに伝わった。
「この世界はどこまで続くんだろうね」
「うん」
「汚れた魂は地平を彷徨って綺麗になって、それからどこにゆくんだろう。やっぱり天に向かうのかな。そこではどこまでも高い十字架が見守る下に柔らかな草原に広がっていて、そこには陽が当たっていて、蝶々が紙のように舞っていて……、そんな豊かな世界で人は自分がなくなることをひたすらに目指しているのかな」そんなことを言う彼女の横顔は夕陽の橙に染まり、それを自販機の翳がくっきりと裂いていた。近くにはつつじの鮮やかな花が咲き毀れている。そういった時、私は彼女に修道女の敬虔さを見てとっていた。神に相対する者の壊れそうな美しさを。
「ねえ、馬鹿みたい」彼女は誰かに向かって宙に呟いた。もしかしたらそれは自身に対してなのかもしれない。
「罪は消えないよ、永遠に残り続けるんだ。それで、私たちはどこへも行き場を失っていくんだ。何もできないから何もしない動物に成り果てていくんだ。堕ちるしかないんだよ」
彼女は私にひらかれていた。彼女は遍くものに倦み疲れ、自らに棘を刺すあらゆるものを罪として赦していた。彼女はすべてに憂いを湛え、決して自らの立場をゆるがせにしなかった。私は嬉しくて堪らなかった。初めに抱いた感情は間違っているどころか、事実はそれを包み込むように超えていた。彼女は枯れることを知らない悲しみの花になって言った。
「自分がなくなることを目指すなんてそれってまるでこの世界そのものじゃんね」
私はその表情に惑溺したまま首肯した。
佐緒里は図書室でしばしば英字の新聞を机上に片面に畳んで眺めていた。私が何を読んでいるのか訊くと、彼女は丁寧にそこに書いてあることを解説してくれた。主に彼女はアメリカの自由な生活に一種の憧憬を抱いているようだった。またオカルト本の類も好んで目を傾けており、それもおそらく同じ方向への思いだったのだろう。
日が経つごとに陽の力が強くなり、影は一方で濃くなって夏が来た。通学路は蝉の喚き声で満たされ、廊下を歩けばどこかの体育を終えた教室から塩素の臭いが鼻を突き、窓から見る外は建物の陰となるところはまったくの闇となり、そうでないところは光となった。疲れを知らない生徒たちはグラウンドに飛び出して、天日の中を魚のように泳ぎまわった。そしてそのまま車がスピードを落とさず、崖に飲み込まれるみたいにして夏休みの中に学校は吸い込まれた。
目的のなく、切れ目のない時間に押し込まれた私は両親が働きに出たあと、居間のPCの前に座って画面に向きあうことが多くなった。茹だるような炎天下に出かけるのも億劫だったし、それにどこにも自分の行くべき場所は思い当たらなかった。
私はじきに冷蔵庫から母親用のチューハイをくすねて、それを片手にネットサーフィンをして時間を食い潰すようになった。私は女子高校生が監禁され集団強姦された事件や、親にネグレクトされた児童が暴力団組織に引き込まれてゆくエピソードや、中世の魔女狩りに使用された拷問方法や刑務所で看守の目を盗んで行なわれる裏事情などを見て回った。アルコールがまわってたからか感情はさほど湧かなかったが、どれも人間の業の深さを感じさせる凄惨なものだった。そこには品性や理性の欠片を見つけられず、ハルマゲドンを望まざるを得ない末法の様相が広がっていた。それでも人は生きていく、この世は続いていくのだ、と私は思った。拡散される検索でたちまちにヒットする、配信サイトで自殺した女の画像を前に私は安いレモンチューハイを喉に流し込んだ。女の首筋は引き攣り、画像でももう生成の輝きを失い、不動に堕した物体の臭いが伝わってきた。怖い、と思うことはないが、その時教室で耳に入った同級生の浮かれた調子のショッピングモールで遊ぶ旨の会話が思い起こされて厭気がさした。世界は残忍なことで満ちているのに、この小さな日常は飽きもせず楽しげに続く。そして怠惰な私だけが蚊帳の外だ。私は世界にも日常にも除け者にされている。私にとってはどちらもが形而上的だ。どちらもが空にたゆたう雲の切れ端だ。私はいない、どこにもいない。そう思うと、急に身体の内側から熱が芽吹いて涙となって、瞳にじわり滲んできた。感情はしくしくどよめきだして、私を蝕んだ孤独の虫はもはや一掃するのは不可能なのではないかという不安が胸を貫いた。私は辛うじて白峰佐緒里の像を胸中に描くことに成功した。それは救いのイコンだった。世界と日常の間に私を繋ぎ留めてくれる強力な磁石であり、架け橋だった。これを逃してはいけなかった。彼女の深遠に潜むラピスラズリの輝きなくして私がやっていける自信はもはやなかった。佐緒里の他から掛け離れた清浄を具えて独立した実存、そして日常の中に佇む決然とした強度。彼女と私の関係を宇宙論的に言えば大日如来と諸仏の間柄だった。彼女が私となり、私は彼女の一部となった。恒星が太陽の周りを廻るように、私は彼女との埋まらぬ距離を持っていたが、私は彼女の意志の内にあった。
大丈夫、私はまだ取り残されていない、と言い聞かせていると缶を飲みきってしまった。時計を見ると、針は午後五時に差し掛かり、パートの母親がそろそろ帰ってくる頃合いだった。缶を捨ててデスクトップの前に戻ると、途端に言いようのない虚脱感が波となって一挙に襲いかかってきた。私は頭を振り搾ってブラウザを閉じ、シャットダウンすると階段を上って自室に辿り着き、微睡みをベッドにぶちまけた。意識はすぐになくなった。
周辺の女子高生のとる行ないを軽蔑していた私であったが、彼女たちのよくやる手紙には惹かれることがままあった。佐緒里はどことなく、そういったファンシーな事々とは無縁に思われたため、変に気を遣われるのを怖れ、私からは終ぞ切り出すことはなかったが、佐緒里と手紙をやり取りする夢想は私の心に潤いを与えた。骨身に染み込んだ気質からか、私が彼女に直截に訴えかけるのを図るとき、私はいつも彼女の生々しい肉体を私が犯しているという光景が脳裡にちらついた。だからか、手紙の中身においても涜神的な問いを突きつけたい衝動に駆られた。例えば彼女に贈るクローバー模様の小奇麗な便箋に端正な文字で、
「太陽と月 牡牛の瞳は青白く まあるい眼球 牡牛の眼球 挿し込むシモーヌ ふくらむ膣内 英雄グラネロ 死んだグラネロ」
などと、バタイユを持ちだしてきたくなることもあった。あるいは「あなたの心臓に無数の南京虫が蠢くさまが見える」、あるいは、「猫の内臓の美」――。
それというのも、私には彼女の肌の下の蠢きが知りたいという欲望が強烈にあったのである。本当はそれと交わりたかった。話したりもせず、気を使うこともせず、私は彼女の境界線すれすれを撫でる。指は今やあらゆる部分が性感体の彼女を溶かす。髪の色彩は何色だ? 何色を持つ髪の色だ? 血液の流れはどんな調べを奏で、彼女の口は何を求める? その背骨が支えるものは? 彼女の心が為す色は?
九月に入り、私の目は欲望のフィルタを通して彼女の姿に注がれた。彼女は私を二重に救ってくれたわけである。
私は友達と楽しそうに淑やかにハンカチを広げ、弁当箱をつつく佐緒里を自分の座席から盗み見て、その存在が自分の掌中に転がる様を思い描いて悦に浸った。佐緒里はクラスメイトとも親密そうにしているが、私といるときには彼らを遍く見下すような素振りを示していた。それも貶めるというよりは、考えの俎上に上げる権利すら彼らにはないというささやかな否であった。それ故、私と彼女の席は離れていても、心は確実に同じ側にあるのだった。それは誰にも奪えない、永遠の時を刻む時計のようなものだった。その針は休むことを知らず、その一進一進が私に溶け込み、その無を有に染めてくれた。私はよく浴室で、湯浴みをしながら目を瞑り、彼女のことを思ったものだった。この手で汚したい、と私は願い、それが達成されることの心地よさに陶酔し身を捩った。彼女の柔らかな口を抉じ開け、指を喉奥に突っ込んで苦しめたい。その高貴な魂の元の滑らかな身躯をこの手で掴み、毒の味を覚えさせてやりたい。直接の性愛よりも、例えばどこにでもあるマヨネーズを臍の周り、胸の二つの盛り上がりの隙間や、腋の下辺りに塗りたくる想像が私の心を滾らせ、昂ぶらせた。彼女の膣を誰かが犯すことや、あるいは鎖で繋いで鞭を振るうようなありきたりなヴィジョンではつまらない。痛みや恐怖は、人が言うほど大事なことではない。それらは見せかけだけのニセモノ、一時凌ぎの鍍金でしかない。彼女が身体をくねらせ、表情筋を強張らせ、その内奥に強固に隠された裸の戸惑いを陽の元にあからしめることだ。戸惑いは鯰のように絶えずするりと陽の元から逃れては暗がりに避難しようとするが、その影をなくしてしまうのだ。彼女の露わな部分を決して隠してはならない。私の前にある限り。彼女は私とひと繋がりの紐帯の元に往来可能な、共‐存在なのだから。そんな思考の流動に身を委ねて、私はよく風呂でのぼせていた。
秋になり、あらゆる点で私と彼女は良好な進展の一途を辿っていると思われた。葉々が赤や黄に色づいて、地上が焦げたような色彩で飾られていった。私たちは休みを見つけて駅前の映画館に出向いた。彼女が選んだ映画はラブロマンスで、恋に溺れた男女の生活が綴られ、最終的には病気で余命が短いことを知った男が枕元で手を握る契りを結んだ女に、それまでの過去を回顧して聞かせることで終幕を迎えた。私は劇にさほど心を動かされることはなかったのだったが、映画を終わった時に隣を見ると瞳を潤ませている彼女がいて、感動に似た思いを抱いた。佐緒里は明るくなった館内で、私の視線に気づいて「私たちもこんなドラマの渦中にいたらよかったのにね」と言った。私は、彼女が映画の筋書き通りのことに涙線を刺激されたのではないことは一目瞭然に知っていた。彼女はうすら寒い日常から抜け出ていることそれ自体に深い感傷を覚えていたのだ。その思いを汲み取った上で、私は「そうだね」と彼女の手を握って、神妙そうに頷いた。けれど心の内では佐緒里の手の温かさに酔い痴れながら、魂を熱くさせて、「私はあなたのお陰で毎日が蝋燭の火のように鮮明に動いて見えるんだよ」と呟いていた。近い日に共に近くの小学校へ赴くこともあった。冬の足音を運ぶ寒い木枯らしが透き通る空の元、吹き荒んでいた。小学校の校庭には町内会の催し事があって、私は親に些細な雑事を頼まれていた。そこに佐緒里にもついてきてもらったのである。集まった子供たちの世話役は私には不向きのことであったが、彼女が協力してくれれば進んでやるべき仕事となった。それぞれ不細工な面を引っ提げた子供なんかより彼女の綻ぶ表情は麗しく愛されるべきものとして私の目に映った。身を裂くような風が吹くことで、彼女の魅力は一層周りから隔絶され、浮き立つように思えた。一二時間のイベントも佳境に差し掛かり、火を焚いて子供たちは躍り、うたった。その火で焼いた焼き芋は私たちにも振る舞われ、私と彼女は寄り添ってそれを食べた。アルミホイルをひらき齧ると湯気が立ち、佐緒里は嬉しそうにしていた。その純粋さに心を打たれ、私は幸福な時を過ごした。
日々は泥濘に沈んでいくようにして私を包み、安心を与えた。彼女と握る毎日は、寒気に負けない温度を保ち、彼女と舞う景色は、コンクリートを穿つ光りを放っていた。私は、世界で自分は最も恵まれた存在であると思った。しかし、季節は流れ、1+1は2にならずにはいられない。紅葉した葉は感情を燃やし尽くしたかのようにその命を終え、枝先から身を擲っていく。
ある冬の日、昼休みに私は出し忘れた保険調査票を届けに保健室に向かった。それは何の気なしの悪意のない行動だった。それがあるひとつの物語の終着点であるなど、その時の私には知る由もなかった。
保健室に先生はいなかった。二台設置されたベッドのカーテンはひとつが開けられ、ひとつが閉じられ、そこには人の気配がした。私は先生がいつ戻るか訊こうとそのカーテンの端を引き、その中を覗き見た――。
「あら、どうしたの。血相を変えて、」
固まり立ち尽くしたままの私に女は言った。それは肌の白く、指の細い白峰佐緒里だった。今離された唇がその被造物とは思えない柔らかさを湛えていた。
「今のあなた、フリークを見るような目つきをしてるわ」
私は顔をすぐに引っ込めると、カーテンもそのままに入口の扉にぶつかるようにして這い出て、廊下を駆けた。昇降口の辺りまでくると校庭で遊ぶ人たちの歓声が聞こえてきて、私は膝に手をついて肩をふるわせた。彼女の言葉が蘇る。その光景が立ち現れる。
私は混乱した。あれは、本当に佐緒里だったのだろうか?
あれは、男に身を添わせ、接吻をも厭わない、あの、汚らわしい生き物は、本当に、あの白峰佐緒里だっただろうか、そんなはずはないはずだ。そんなはずはないはずだ!
しかし、考えれば考えるほどそれは白峰佐緒里に間違いはなかった。その輪郭も、髪も、指先も、仕草も、声も、そして唇も。彼女は男子と密通し、私はまんまとその覆いに目を奪われるだけで、本当の彼女を知ることを許されてはいなかったのだ。佐緒里は私に知らせる必要を感じてはいなかったのかもしれない、けれどそれなら余計に私は滑稽な道化だ。場違いな誤解をして、醜態を晒していることに一寸気づきもせず、夢想に一人で踊り暮れる愉快な小人だ。それはひたすらに愚かで、哀れで、残酷と言うにも烏滸がましい……。
後日、私は彼女から声をかけられ真実を告げられることとなる。
佐緒里は保健室によく訪れる、体育教師に睨まれる綺麗に明るい栗色の髪をした男子に恋をしていた。彼は生まれながらにその髪質を持ち合わせていたが、生憎にも無口でぶっきらぼうな性格が教師たちの気性を逆撫ですることに向けられてしまっていた。その二つの瞳が常に辺りの障害を敵視するかのように鋭く光っているのも、一因だったかもしれない。それは彼女を惹起することとなった。彼女の有する秘匿性は彼のそれと共鳴したのだ。佐緒里は頬を緩めて彼の前だけでは、森に潜んだ湧水のようにあくまで自然に隠された、包帯の下の手首を晒すことができると私に告白した。
私には何も開かれてはいなかったのだ、あるいは開かれるべきものは閉じられたままだった。私がどんなことを思い、妄想し、悦に浸り、泣き喚いたところで事実は事実として厳然として佇み、変わることは少しもなかった。
集中の糸が切れ、店内に流れる有線の音が満ち潮のように徐々に脳に忍び込み、ある閾を越えると雪崩のように一気に私を侵食し、私は現実に存在している。
私は喧騒の閉じ込められた深夜のファストフード店で、食べ終わった食器の手前に置かれ、今まで使われていたシャープペンシルとメモの切れ端をコートの胸ポケットにしまい込むと、そっと席を立ち、誰も見えない夜の方へと歩き出した。自動ドアはすぐにひらいた。