上司のお仕事
「申し訳ございませんっ!」
電話の受話器を耳に付けたまま、勢いよくスーツ姿の男が頭を下げた。
そのまま額を机の天板に打ち付けてしまうのではないかと心配になる勢いと角度だ。
その角度から、周囲にいる者たちは、事態の深刻さが容易に想像できている。
なにかとんでもないトラブルが起きたのだ。
スーツの男、原田は今年入社5年目の営業マンである。
目標未達が続いた時期もあったが、最近は順調に成績を伸ばし、中堅の戦力として会社からも大いに期待されていた。
派手さは無いものの、堅実な仕事ぶりでクレームも少なく、社内からの信頼もあつい人物だ。
モラハラパワハラセクハラといったハラスメント行為とは一切無縁。出張のたびに、御当地のお菓子を営業部だけでなく、総務課と経理課に配る程度には如才ない男である。
出版業界の一翼を担う企業で、『サウザン製本』は大手ではないものの、ようやく中堅のひとつとしてその名が知られるようになっていた。
執筆者と編集者で推敲や改稿を重ねた原稿データを受け取って、紙質や表紙の素材、フォント、印刷の品質等によって、どの印刷業者に割り振るか提案する。
そのコーディネート、つまり出版社と実際に本を印刷する専門業者との仲立ちをするのが、営業マン原田の役目である。
その原田が、凄まじい勢いで『すみません』『申し訳ございません』『必ず何とかしますので』と繰り返している姿を見て、ベテランの営業部長は既に立ち上がり、ジャケットを羽織っている。
パソコンを器用にいじりながら数分の会話の後、力なく受話器をおいた原田は、まるで糸が切れた人形のようにどさっと椅子に腰を下ろした。
「原田……? どうした? 大丈夫か?」
「……ぶ、部長……すんません、やらかしました……」
「おい、どうした、何があった? やらかしたじゃわからんだろ。良いか? こういうトラブルとかクレームの時はな、初動が大事なんだよ。ちゃんとした初動に移るためには、正確な情報が必要だ」
「…………はい……すんません……ホントすんません……」
「原田、おい、良いか? 俺の顔を見ろ。謝るのはあとだ。事実だけを言ってくれ。何があった?」
原田は現在32歳。
中途入社で、前職も営業であった。出版業での営業は初めてではあったが、『営業は売らないと話にならないですから』と必死で仕事を覚えて、現在は主任に昇進している。
人当たりもよく、話術も巧みで、何より身だしなみに気を使う男だ。
顔は際立って整っている訳では無いが、欲言えば『味のある顔』として、実は社内の女性陣からの人気は非常に高い。
そんな原田の顔からは、完全に血の気がひいていた。
「き、昨日……昨日納品した本……章がまるごと抜けてて……今、印刷屋に出したデータ確認したら、こっちが出したデータが……」
「ウチが出したデータが、間違ってたのか?」
「ちぇ、チェックしたんです……ちゃんと、こう、その、目視で、やったんです。やったんですよ、やったのに、あの、俺——」
「落ち着け原田。抜けたデータは? 完全なデータは? あるのか?」
原田は涙ぐんでいた。
過呼吸にも似たおかしな呼吸を繰り返している。
製本業のプロとしては、有ってはならないミスだった。
編集者から受け取ったデータを、印刷業者に引き渡す際に、誤って抜けのあるデータを送ってしまったのだ。
完全に、原田のミスだった。
「データ……データは……あの、へ、編集さんから、メールで……でも、メールはその、消しちゃって……」
「よし原田、お前ちょっと百貨店行ってこい。詫びに行くぞ。菓子折り用意しろ」
「……部長?」
営業一筋30年、今年53歳になる営業部長、片岡の判断と対応は早かった。
「佐川!」
「はい」
「情シスに連絡しろ、ファイルの復元が出来ないか、何とか出来んか情シスに掛け合ってくれ」
「了解っす」
「それから西野!」
「うっす」
「いつも頼んでる印刷屋に連絡しといてくれ、今日、緊急でどんだけ出せるか聞いといてくれ。ゴネたら割増で出すって言え」
「うっす」
片岡は、営業としてずば抜けた数字を残した訳では無い。
むしろ落ちこぼれ営業として、大勢の眼の前で罵倒された経験があるような、どちらかと言うとダメ営業であった。
そんな彼が営業部長にまで上り詰めたのには、理由がある。
クレーム対応、トラブル対応が抜群に上手いのだ。
それも、自分以外が起こしたトラブルを対応させたら、恐らく出版業界でもナンバーワンではないかと噂されるほどである。
これまで、襟首を掴まれるくらいの修羅場なら、両手足の指を足しても足りないくらい経験してきた。
土下座の回数などもはや数える気にもなれない。
片岡が頭を下げると、『取引停止だ』『訴えてやる』『損害賠償は覚悟してくださいよ』と、もはや解決不可能に思えるほどのトラブルが、すんなりとではないが解決していく。
ただ、それは片岡が直接関わっていた客先に限られている。
トラブルが起きた先の担当者が矛先を収めるときに、決まって言う台詞がある。
『まぁ片岡さんがそこまで言うなら。でも次はちゃんとしてくださいよ』
というものだ。
「原田、良いか? ここでちゃんと出来るかどうかで、営業マンとしての格が変わると思うんだ。ほら行ってこい。先方には俺からとりあえず詫び入れて、謝罪に行かせてもらえるように話を付けとく。お前はさっさと菓子折り買ってこい。井上! 急ですまん、片岡と一緒に行ってやってくれ」
「わかりました! 片岡さん、行きましょう。急がないと」
営業部の、実に半数が慌ただしく席をたった。
席についている残り半数も、全員が電話を手に取っている。
片岡は社内用のシステムを使い、トラブルの詳細を洗い出す。
昨日納品したのは小説だ。章が丸ごと抜けたとなると、印刷、製本し直しは免れられない。
1冊330ページでハードカバー、300冊となると、どんなに急いでも2営業日はかかる。
「やれやれ……西野」
「っす」
「頼んだ、とりあえず、1冊330ページのハードカバー、最短納期でどんだけ行けるか、まとめといてくれるか」
「っす」
言葉数が極端なほどに少ないが、なぜか常に営業成績トップの西野は、スマホのヘッドセットを耳にかけて器用に話を始めた。
片岡は自席に腰を下ろし、小さく呟いてから缶コーヒーを一口飲み込んだ。
「部長、データはサーバーにあったそうですよ。情シスで確保してチャットで送ってくれるそうです」
「よぉし! じゃ佐川、すまんがそのデータチェック、頼んでいいか?」
「え、俺ですか?」
「ラーメン、チャーシューもつける」
「しゃーないっすねぇ、大盛りでお願いしますよ?」
「煮卵もつけてやるから! 特急で頼む!」
佐川からチャットが届く。最短で明日300冊イケます、という文字と、顔文字が並んでいる。
即座に『いいね』のアイコンを返すと、片岡は受話器を持ち上げた。
部下の失敗で頭を下げるのは上司の仕事。俺はこれで給料をもらってる。
何事も初動が肝心。そう呟いて、片岡は受話器を挙げて呟いた。
「さてと、今日は土下座か」
大規模なトラブルが起きた時に真価を発揮するのは、ヒーロではないのかもしれません




