王子のお茶会①
本編は第15話までゆっくりと進む展開になっています。
テンポよく物語を追いたい方は、『王子護衛騎士編』の『ここまでの人物紹介』を先に読んでから続きを進めるのがおすすめです。
人物や関係性を把握した状態で読めるので、スムーズに物語に入り込めます。
じっくり読みたい方はそのままどうぞ。お好みのスタイルでお楽しみください!
王宮の中庭に設えられた優雅な茶会。銀の器に並べられた精緻な菓子、絹のクロスが敷かれた円卓、穏やかに香る花々。貴族たちは微笑をたたえながら会話を交わし、優雅な身のこなしで杯を傾ける。
王子アレクシスの主催するこの茶会は、ただの社交の場ではない。格式と品位、そして王族との関係を示す場でもあった。今日もまた、王宮の名だたる貴族たちが集まり、華やかな雰囲気が広がっている。
その場で、アレクシスは静かに立ち上がり、貴族たちの注目を集めた。
「本日は、お集まりいただき感謝する。さて、皆に紹介したい者がいる」
そう言って、彼は軽く手を向ける。貴族たちの視線が、一人の女性へと注がれた。
黒の正装に身を包んだ、端整な女剣士。銀色の髪を端正に束ね、左目には黒い眼帯をしている。
彼女こそ、新たにアレクシスの護衛騎士に任じられたサーディスだった。
貴族たちの間に、微かなざわめきが広がる。女性の騎士は珍しくはないが、王子直属の護衛となると話は別だ。
さらに、サーディスの雰囲気は明らかに"宮廷騎士"のそれとは異なる。鍛えられた戦士の気配を持ちながらも、どこか隠しきれない異質な雰囲気。
だが、サーディスは動じることなく、優雅に一礼した。
「皆様、ご機嫌麗しゅう」
彼女の仕草は決して洗練されたものではなかった。
だが、それでも貴族たちの目には"十分な品位"を備えた者として映った。
無駄のない動作、流れるような所作。そして、礼を取る姿には、"宮廷での礼儀"を心得ていることが見て取れた。
アレクシスもまた、わずかに目を細める。
(……意外だな)
彼はサーディスが戦士としての技量を持つことは知っていた。だが、彼女がここまで"礼儀をわきまえている"とは思っていなかった。決して磨き抜かれた貴族の所作ではない。
だが、十分に格式を保ち、"粗野な戦士"とは一線を画していた。
貴族たちは、それを確認し、興味深げに彼女を眺める。そして、最初の驚きが収まると、茶会は再び穏やかな談笑へと戻っていった。
アレクシスは微かに笑みを浮かべ、再び席につく。
貴族の中には、"余所者"を試そうとする者たちもいた。
「サーディス殿?」
派手な装飾を施した服を纏い、痩せぎすの男爵が声をかける。
男爵の名はガルフォード・バースリー。
王宮に出入りする貴族の中でも、特に格式や礼儀に厳しいことで知られる男だった。
だが、その厳しさは"品位を保つため"ではなく、"己の優越を誇示するため"に過ぎない。
サーディスが新たに王子の騎士として加わったことを、彼は面白く思っていなかった。
「君のような武人には馴染みがないかもしれないが……」
彼はわざとらしく笑いながら、周囲の貴族たちに視線を送る。貴族たちは、それに応えるように、くすくすと笑った。
「こういった席では、文化の素養も問われるものでしてね」
男爵は優雅に紅茶の杯を持ち上げながら、ゆったりと続ける。
「私はラーランの唄が好きなのだが、どう思う?」
それは明らかに"試すための質問"だった。
ラーランの唄とは、古くから貴族の間で親しまれてきた抒情詩の一つ。高尚な趣を持ち、詩や音楽に精通している者でなければ語ることすらできない。
"武人ごときに分かるまい"
そんな悪意が、男爵の笑みに滲んでいた。周囲の貴族たちも興味深げにサーディスを見つめる。彼女がどう答えるか、あるいは答えられずに恥をかくか。
しかし、サーディスは表情一つ変えずに杯を置いた。その動作には、わずかな"間"があった。
まるで、彼女が言葉を吟味し、確信を持った上で話そうとしているかのように。
そして、指先で軽く杯の縁をなぞりながら、静かに口を開く。
「ラーランの唄は確かに美しい詩ですね。特に、あの"別離の章"は、哀愁に満ちていて印象深い。
『君が遠く消えし日も
月の光は揺れずとも
影は伸びて 風に問う』
この一節には、"待つ者の苦悩"が滲んでいて、ただの恋歌に留まらない深みがあります」
一瞬の沈黙が広がった。男爵の表情が、ぴくりと引き攣る。
(……知っているだと?)
驚きと共に、周囲の貴族たちも視線を交わす。
ラーランの唄は貴族たちにとって馴染み深い詩だが、その解釈まで論じることができる者は、そう多くない。
ましてや、"別離の章"という部分に言及し、その真意を語れる者となれば、一握りの文学通だけだった。
「……ほう」
男爵は表情を整え、紅茶を口に運ぶ。だが、その仕草にはわずかな焦りが滲んでいた。
このまま引き下がるわけにはいかない。
「それは素晴らしい感性だ」
彼は微笑みを作りながら、さらなる問いを投げる。
「では、サーディス殿の"お好みの詩"は何か?」
貴族の嗜みを知らない者であれば、この問いには答えられない。
詩に馴染みがないことを晒し、"無知な武人"として恥をかかせるつもりだった。
だが、サーディスは静かに杯を回し、微笑すら浮かべることなく、淡々と答えた。
「月は眠る 夢に溺れて
風は囁く 誰が嘆きし
黄昏に 想いは巡る
ただ、一つの名を抱いて」
――オルメスの唄。
広く知られる詩歌ではない。
吟遊詩人たちが時折歌い継ぐ、通好みの一節。貴族の中でも、よほど文学に通じている者でなければ知らない詩だ。
男爵の顔が、わずかにこわばる。
「……」
誰もすぐに言葉を発しなかった。貴族たちは怪訝そうに目を見開き、互いに視線を交わす。
彼女の言葉に込められた抑揚は、まるで長年詩を口ずさんできた者のような、自然な流れを持っていた。
彼女は"本物"だ。ただの剣士ではない。教養を持ち、詩を知り、言葉の重みを理解している。
「……これは」
誰かがぽつりと呟く。男爵は一瞬、言葉を詰まらせた。
「ほう……」
乾いた笑みを浮かべながら、杯を傾ける。
「……なかなかのものですな」
取り繕うように言うが、先ほどまでの余裕は消えていた。
それ以上、言葉を重ねることはできず、男爵は杯の中の紅茶をゆっくりと口に含んだ。
周囲の貴族たちも、それ以上の詮索はせず、何事もなかったかのように別の話題へと移っていく。
サーディスは何も言わず、再び杯に手を伸ばした。
何もなかったかのように、ただ静かに。
貴族たちのざわめきが収まり、茶会の場が再び穏やかな談笑へと戻っていく。
だが、その中でただ一人、アレクシスだけは固まったようにサーディスを見つめていた。
(……今の詩は……)
遠い記憶の奥底に眠っていた、幼き日の情景が脳裏に蘇る。
「ねえ、シス様。オルメスの唄はご存じ?」
「ああ……たしか、あまり知られていない詩だろう?」
「でも、私は好き。どこか寂しくて、だけど綺麗だから」
「ふうん……変わった趣味だな、ミレクシア」
柔らかな陽光が降り注ぐ王宮の庭園。
金色の髪を揺らしながら、楽しげに笑い、詩を口ずさむ少女。
彼女の名は――ミレクシア・アルノー。
名門貴族の娘。
幼い頃、しばしば王宮を訪れ、アレクシスと剣を交え、言葉を交わし、そして、よく笑った。
負けず嫌いで、無邪気で、生き生きとした瞳を持っていた少女。
誰よりも真っ直ぐで、誰よりも誇り高く、誰よりも自由だった。
そして、彼女が好きだったのがオルメスの唄。
アレクシスは、無意識に指先を握り込んでいた。
(……偶然、か)
小さく呟く。
だが、喉に何かが詰まったような違和感があった。
視線を向ける。そこにいるのは、冷静沈着な女剣士――サーディス。
左目を眼帯で覆い、銀の髪を後ろで束ね、寡黙な雰囲気を漂わせている。
ミレクシアとは、似てもいない。髪の色も、瞳の色も違う。話し方も違う。何より、サーディスの声には、かつての少女の快活さも、あの眩しいまでの純粋さもない。あるのは、冷たく、感情を抑えた響き。
(……ミレクシアに似てなどいない)
それどころか、ミレクシア・アルノーは"十年前に死んだはず"だ。名門アルノー家が襲撃を受け、一夜にして滅びたあの日。生き残りなど、いるはずがない。
だから、あり得ない。
だが――
(この胸騒ぎは……何だ?)
幼い頃、あの庭園で笑い合った記憶。剣を交わしながら、子供じみた口喧嘩をしたこともあった。時には真剣に語り合ったこともあった。そして、彼女が歌った詩。
オルメスの唄は、ミレクシアが好きだったもの。それを口ずさむ者が、今目の前にいる。
サーディスは、アレクシスの視線に気づいたが、何の反応も示さなかった。冷静で、端正で、静かなまま。まるで、自分が疑われることなど想定していないかのように。
アレクシスは、再び杯を持ち上げ、静かに息を吐く。
貴族たちは何事もなかったかのように、会話を再開していた。
だが――
(……本当に、偶然か?)
この女が、ミレクシアと何の関係もないと、心から言い切れるか?
長年忘れていた記憶が、ゆっくりと、しかし確実に、胸の奥でざわめき始めていた。