待ち伏せ
昼下がりの森は、まるで息をひそめるかのように静まり返っていた。
厚い雲が太陽を覆い、降りしきる雨が地面を叩き続ける。
土はぬかるみ、踏み込むたびに靴底へと絡みついた泥が足を重くする。
その悪条件の中、アレクシスは傭兵団とともに必死に駆け抜けていた。
雨が頬を打つ。
冷たい空気が、火照った肌にまとわりつく。
だが、振り返る余裕などない。
(……サーディス)
心の中で、その名を呼ぶ。
すぐ後方で戦っているはずの彼女の姿は見えない。
今、この瞬間にも命を懸けて"道を切り開いている"のだろう。
それを思えば、歩みを止めることなど許されなかった。
雨の中、彼らは山道を駆け抜ける。
水を吸った土がぬかるみ、足を取られそうになるたび、必死に体勢を立て直す。
呼吸は乱れ、胸が焼けるように苦しい。
しかし、次の瞬間――
森を抜けた途端、王子の視界が大きく開けた。
目の前に広がっていたのは、鋼の壁だった。
雨に濡れた金属の光が、視界を覆う。
鋭く突き出された長槍の列。
その背後に整然と並ぶ、鎧に身を包んだ騎士たち。
そして、さらにその後方には、すでに弓を番えた弓兵たちが待ち構えている。
完璧な陣形だった。
「……誘い込まれたか」
王子の喉奥から、苦い呟きが漏れる。
逃げ場はなかった。
傭兵たちも即座に状況を察し、各々が武器を構える。
だが、これほどまでに整った陣形を相手に、正面から突破することは不可能だった。
槍兵たちは前列を固め、彼らの間隙から騎士たちが抜刀している。
そして、その中央――
黒いマントを羽織った一人の男が、馬上から冷ややかにこちらを見下ろしていた。
国境砦の騎士団長、カイル。
その鋭い視線は、まるで獲物を品定めする狩人のようだった。
雨が彼の鎧を濡らし、赤いマントが重たげに肩に張りついている。
その威厳ある立ち姿から、一瞬たりとも隙を見出せない。
王子は唇を噛みしめながら、目を細めた。
(まさか……いや、そんなはずは……)
この場所にこれほどの兵が待ち構えている。
それが単なる偶然などではないことは明らかだった。
――これは、罠だ。
騎士団は"この道を通る"ことを事前に知っていた。
だからこそ、これほどまでに完璧な陣形を築けたのだ。
「……あんたらの情報網、ずいぶんと優秀じゃねぇか」
ゲオルグが低く呟き、皮肉げに笑う。
王子もまた、理解せざるを得なかった。
"敵はすでに手を回していた"のだと。
彼らは最初から――
王子をここへと誘い込むために、山の道を"開けていた"のだ。
この撤退路自体が、最も危険な道だったのだ。
背後にはサーディスがいる。
だが、彼女がどれほどの時間を稼いだとしても、ここで完全に包囲されてしまえば、もはや何の意味もない。
王子の目が鋭く細められる。
濡れた前髪が額に張り付き、冷たい雨が頬を伝う。
(この状況……突破するしかない)
アレクシスは周囲を見渡す。
崖を背に、前方には数十の騎士たち。
そして、最前列に立つ騎士団長カイルが、ゆっくりと手を上げる。
「王子殿下、逃げ場はない」
その声は、まるで戦いの終わりを告げるかのように、静かに響いた――。
。
雨音が、騎士たちの足元を濡らす。
アレクシスは静かに剣を構え、敵の動きを見極めた。
幸いにも、国境砦の騎士団の数はそれほど多くない。
彼らは精鋭であることは疑いようもないが、こちらもただの逃げる獲物ではない。
そんな中、ゲオルグがゆっくりと前へと歩み出る。
彼の槍が雨を弾きながら、鈍く光った。
「お前ら、正念場だぞ。気合い入れろよ」
その言葉に、傭兵団の者たちが各々武器を構える。
緊張感が漂い、戦場は静かに熱を帯び始めた。
しかし、その空気をより張り詰めたものへと変えたのは――
カイルだった。
国境砦の騎士団長、カイル。
彼は馬を降りると、ゆっくりと前へ進み出る。
一歩一歩、雨を踏みしめながら、その足取りには迷いがなかった。
「……あなたは……」
低く、鋭い声。
その言葉が発せられた瞬間、周囲の空気が一変する。
カイルは冷たい視線をゲオルグへと向けると、その名を告げた。
「十年前、クレストを脱退した男がこんなところにいるとは……!!」
――クレスト。
その名が放たれた瞬間、周囲の騎士と傭兵たちが一斉にざわめいた。
「クレストだと……?」
「まさか、あの団長が……?」
王国最強の精鋭騎士団、クレスト。
王直属の彼らは、戦場において無敵の存在とされ、国の最も重要な戦いを任される"王国の剣"だった。
そして、その一員であった男が――"今"、王子の逃亡を助けている。
騎士団長カイルは、動揺を見せることなく、じっとゲオルグを見据えた。
「……元とはいえ、クレストの槍が、こんなところで王子の逃亡を助けるとはな」
ゲオルグは、その言葉を聞いて微かに笑った。
それは、自嘲ともとれる笑みだった。
「ずいぶん懐かしい話をするじゃないか。だが今の俺は、"クレスト"じゃねぇよ」
彼は槍を握り直し、改めて騎士団長を睨む。
「今の俺は、ただの傭兵――ゲオルグだ」
静かに槍を構えるゲオルグ。
槍の柄を握り直し、じっと騎士団長を見据える。
その片腕――かつて何かを失った痕跡を持つ腕が、雨に濡れながら動く。
雨が土を打ち、地面を泥へと変えていく。
戦場の静寂が破られる直前の、わずか数秒間の沈黙――。
その中で、カイルとゲオルグは向き合っていた。
「片腕で私とやりあうつもりか?」
騎士団長カイルの声が冷たく響く。
その声には、侮蔑にも似た嘲りが混じっていた。
しかし――
ゲオルグは、鼻で笑うように軽く肩をすくめた。
「腕が何本あろうが、仕事に関係ない」
その言葉が、雨とともに静かに戦場へと溶けていく。
――雷鳴が轟いた。
カイルの目がわずかに細められる。
その唇の端が、微かに歪んだ。
「……ほう。ならば証明してもらおう」
次の瞬間――周囲の騎士たちが、一斉に動いた。
長槍が雨の中を閃く。
鎧の隙間を狙うように、騎士たちが編隊を組み、ゲオルグへと襲い掛かった。
彼らは国境砦の精鋭。決して、ただの兵士ではない。
だが――
"速い"。
ゲオルグは、まるで嵐の中の枝葉のように"しなやかに"動いた。
シュン――!
雷光のごとき踏み込み。
長槍を構えた騎士たちの攻撃を、紙一重でかわし――
――ズバンッ!!
一閃。槍の柄で敵の足を払う。
次の瞬間、倒れた騎士の喉元に槍の切っ先を突きつける。
「悪いな、こっちは慣れてるんでな」
倒れ込んだ騎士が息を呑む。
カイルが冷静に戦況を見つめる中、ゲオルグは体勢を崩さぬまま、雨を弾くように槍を翻した。
「次は……お前か?」
そう言いながら、槍の柄を握り直す。
それを合図に、残りの騎士たちが一斉に襲いかかった。
ゲオルグの槍は、まるで生き物のようだった。
一瞬のうちに、三人の騎士が攻め込む。
その槍が雨粒を切り裂き、刃が銀色の軌跡を描く。
「オラァ!!!」
ゲオルグは低く踏み込み、一瞬で距離を詰める。
左肩を軸に回転しながら、片腕だけで槍を振りぬく!
――ズバァァァンッ!!
"神速の三連突き"。
一撃目――敵の槍を払い、バランスを崩させる。
二撃目――返す槍で相手の胴を狙うが、鎧に弾かれる。
三撃目――即座に柄の部分で、相手の顎を跳ね上げる!!
「ぐっ……!!」
騎士が呻き、よろめく。
「……ほう」
カイルが冷たく見つめる。
その目には、"かつてのクレスト"の片鱗を見出していた。
たった片腕で――これほどの槍捌きを?
ゲオルグは雨に濡れながら、不敵に笑う。
「どうした、王国の剣。騎士団の精鋭はこんなもんか?」
挑発するような言葉。
しかし、カイルは微動だにしない。
「……なるほど」
彼は、剣を抜いた。
雨に濡れた鋼が鈍く光る。
「"元"クレストの槍がどこまでやれるか、見せてもらおう」
騎士団の隊列がじわじわと広がり、戦場が整えられる。
カイルとゲオルグ。
"王国の剣"と"片腕の槍"が、真正面から対峙する。
――戦場に、嵐が吹き荒れようとしていた。
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