銀の死神と狂嵐①
険しい山道を進むにつれ、霧が立ち込め始めた。
雨上がりの湿った空気が肌を冷やし、木々の葉から滴る水滴が静寂の中で小さく響く。
サーディスは、山道を進む傭兵団の一行の中で、無言のまま歩を進めていた。
周囲の木々は霧に包まれ、細かい雨が葉を濡らし、静寂の中で水滴が滴る音だけが響いている。
だが、その静寂の中で、サーディスの全身が鋭敏に反応していた。
(……誰かに、見られている)
直感だった。
これまでに幾度となく感じてきた"視線"の気配。
戦場に身を置く者ならばわかる、"敵意の匂い"。
周囲の空気が変わった。
風の流れが不自然に変化し、森の奥から"違う気配"が混じっているのを感じる。
サーディスはわずかに歩調を緩め、注意深く周囲を探った。
左目に宿る"魔の力"がわずかに脈動する。
(……殺気?)
一瞬、背筋が凍る。
気のせいではない。
これは確かに"敵意"。
しかも、遠くから様子をうかがうような曖昧なものではない。
鋭く、確実に狙いを定めた"殺意"――。
(……くる!)
瞬時に体が動いた。
サーディスは剣を引き抜き、王子の前へと立ちはだかる。
その刹那――
轟音とともに突風が巻き起こった。
木々が激しくしなり、落ち葉が空高く舞い上がる。
霧が一気に裂け、視界が強制的に開かれた。
"何かが"、空から降りてくる――。
その存在は、まるで風に運ばれるかのように滑るような軌道を描き、ふわりと降り立つ。
濡れた土を踏みしめる音すらわずか。
大地はほとんど揺らがない。
金の髪が風になびき、貴族の装いをまとった一人の女性。
美しい容姿を持ちながらも、鋭い眼光がすべてを射抜くように光る。
その瞳には、確固たる"意思"が宿っていた。
「――やっと見つけたわ、王子殿下」
静かに、しかし力強く紡がれる言葉。
王子アレクシスの表情がわずかに険しくなる。
「……ジークリンデ」
王子が低く呟く。
森の空気が変わった。
風が不自然な渦を巻き、サーディスの髪を乱しながら木々の葉をざわめかせる。
まるで自然が彼女の意志に応じているかのような異様な気配。
ジークリンデ・アーベントロート。
"狂嵐"の異名を持つクレストの一人。
王都最強の騎士団の中でも、個としての戦闘力を誇る強者。
彼女は微笑みながら、軽く腕を振った。
ヒュオォォ――――
まるで嵐の前触れのように、周囲の空気が研ぎ澄まされていく。
サーディスは微動だにせず、剣を持つ右手に力を込めた。
(……今度こそ、私が止める)
轟々と風が唸りを上げ、森全体が戦場の幕開けを告げるかのようにざわめく。
"厄介な相手だ"
以前の戦いで、その実力はすでに理解している。
ジークリンデの剣技は並の騎士の比ではない。
さらに彼女には"風"を操る能力がある。
攻撃の間合いを自由自在に変え、視界を奪い、剣撃を不規則な軌道で繰り出す――。
真正面から戦えば分が悪い。だが――
"今"は戦うことが目的ではない。
重要なのはジークリンデを討つことではなく、王子を逃がすこと。
サーディスは決断した。
「ここは私が食い止めます!」
傭兵団と連携すれば討てるかもしれない。
だが、彼女がここに現れた以上、騎士団もすぐに追いつくだろう。
数の勝負になれば、こちらに勝ち目はない。
――"王子を逃がすこと"、それが最優先事項。
「サーディス……!」
王子の声が、迷いと焦燥を滲ませた響きを持つ。
サーディスがここに残ると決めたことが、彼には受け入れ難いのだろう。
――しかし、時間はない。
「シス様、行ってください!」
サーディスは強く言い放つ。
剣を構えたまま、決して後ろを振り返らない。
王子が躊躇すれば、彼だけでなく傭兵団まで危険にさらされる。
それを理解しているはずなのに、王子は一瞬、動けずにいた。
だが、すぐさまゲオルグの怒号が飛ぶ。
「おい、行くぞ! 今は殿下を逃がすのが先決だ!」
サーディスは、王子が自分を見つめる気配を感じた。
躊躇い、葛藤し、それでも決断せねばならないことに、彼は歯を食いしばる。
「……絶対に戻ってこい。これは命令だ」
サーディスの眉がわずかに動いた。
だが、彼女の答えは揺るがない。
「無論です」
短く、静かに。
それだけを言い残し、王子と傭兵団は森の奥へと駆けていった。
サーディスは彼らの姿を見送ることなく、剣を握り直す。
前方――そこに"嵐"がいた。
「逃がしたわね」
ジークリンデ・アーベントロート。
彼女は悠然と風に乗り、地上を見下ろしている。
その金色の髪が揺れ、まるで空に溶けるように風と馴染んでいた。
「あなたがここにいなければ、今ので終わっていたのに」
ジークリンデは淡々と告げる。
サーディスはその言葉を受け流すように、静かに返した。
「そうだ。だけど――私はここにいる」
そうして、彼女は地を踏みしめる。
地に根を張り、決して動かない盾のように。
王子を逃がし、傭兵団を危険から遠ざけるために。
この場で"嵐"を食い止める。
"魔剣を抜くかどうか"――そんな迷いは、今はない。
サーディスは、剣を構えた。
空に浮かぶジークリンデは、それを見て微笑を深める。
「……面白いわね」
風が唸る。
地を揺るがすような突風が吹き荒れる。
そして――
瞬間、突風が吹き荒れた。
「ならば、討たせてもらうわ!」
ジークリンデが一気に間合いを詰める。
(この速さ――!)
サーディスは即座に剣を構え、迎撃に入る。
ジークリンデの剣が横薙ぎに振るわれる。
サーディスの剣が、"見えない壁"に弾かれるように虚空を切った。
次の瞬間――
ジークリンデの"動き"が変わった。
彼女の姿が、一瞬だけ揺らぐ。ただの身のこなしではない。
風の流れに紛れるように、ジークリンデの姿が二重、三重に分かれたかのように見えた。
(……幻覚!? いや、違う!)
サーディスの左目が疼く。
これは単なる目の錯覚ではない。"風の軌道"を利用した"残像"。
目を欺くように、ジークリンデの身体が複数に増えたように錯覚させる技。
サーディスは咄嗟に剣を構え直し、一歩下がる。
だが――
「遅いわ」
ジークリンデの声が、三方向から同時に響いた。
サーディスの視界に、"三人のジークリンデ"が映る。
一人は正面から突進してくる。
一人は側面から回り込むように動く。
もう一人は、頭上――。
(……包囲!?)
全方位から襲い掛かる"ジークリンデ"。
風の力で分身したように見せかける高度な技術。
だが――
(この中のどれかが、本物……!)
サーディスは息を潜め、瞬時に状況を判断する。
「どう? どれが本物かわかるかしら?」
ジークリンデの声が挑発的に響く。
曲芸のような身のこなし、敵を翻弄する華麗な剣技――。
この"狂嵐"の技に、まともに対処できる者など、ほとんどいない。
普通の剣士なら、全ての方向に気を配り、迷い、そして致命の一撃を受ける。
だが、サーディスは迷わなかった。
口角をわずかに上げ、余裕すら感じさせる声で言い放つ。
「あいにく、"嘘を見抜く"のは得意なんだ」
左目が鋭く光る。
ジークリンデの"影"のうち、一つがわずかに"遅れて"動いた。
(……そこだ!)
サーディスは迷うことなく一直線に本体へ向かい、鋭く剣を振るった。
「――ッ!?」
ジークリンデの瞳に、わずかな驚きが宿る。
見破られた――
その瞬間、風が一瞬、乱れた。
サーディスの刃が"本物"へ向かって一直線に走る――。
ジークリンデは目を細めた。
(……なるほどね)
見破られた。
それが事実であったとしても、彼女は動揺しない。
サーディスが"嘘を見抜く力"を持っているのなら、今後もこの"残像"は通じないだろう。
ならば――
一瞬の判断で、ジークリンデは残像を"風"とともに消し去る。
"ズバンッ――!"
風が爆発するように四散し、周囲の木々を無造作に切り裂いた。
裂かれた枝木が宙を舞い、そのまま鋭い槍の形状を成す。
(即席の"風槍"……!)
ジークリンデはそれらを自在に操り、空気を刃のように変えてサーディスへと"射出"した。
"ヒュン――!"
空を切り裂く槍が、一直線にサーディスを貫こうと迫る。
しかし――
"キンッ!"
サーディスは即座に剣を振り、迫る"風槍"を正確に弾いた。
一本、二本――。
そしてさらに、地面に散らばっていた小石がジークリンデの風によって巻き上げられる。
次の瞬間、それらはまるで銃弾のような速度で、サーディスを狙って飛び交った。
"バラバラバラ――ッ!"
"石礫の雨"が、彼女の身を穿たんとする。
しかし――
"ギィンッ!"
サーディスはその全てを的確に避け、弾き、払った。
ただの一発たりとも彼女の肌には触れない。
(……この女、反応が速すぎる)
ジークリンデの眉がわずかに動いた。
"風"を読んでいるわけではない。
"空気"を察知し、"殺気"を正確に捉え、それに"最適解"で対応している――。
(今度こそ仕留める)
ジークリンデは風を研ぎ澄ませ、サーディスが"踏み込んでくる"その瞬間を狙う。
(……あと一歩)
サーディスが剣を構え、鋭い突きを放つ。
その瞬間――
彼女は突如として"しゃがんだ"。
(……!?)
ジークリンデの目がわずかに見開かれる。
"ザシュッ!!"
次の瞬間、サーディスの"頭のあった位置"に、鋭い"かまいたち"が発生した。
もしサーディスがそのまま突きを繰り出していれば、確実に"首"が飛んでいた――。
(なぜ、"今"しゃがんだ!?)
ジークリンデの視線が鋭くなる。
サーディスは何も見えていなかったはず。
だが、"死角"からの攻撃を、"本能的"に回避した。
まるで――
(……いや、まさか)
ジークリンデはサーディスを見つめながら、確信する。
この女には、"何か"がある。
普通の騎士ではありえないほどの"直感"。
いや、これはただの直感ではない――。
(私達と同じ……"異能"があるのかもしれない)
風を操る"クレスト"の者たちと、何らかの"共通する力"が、彼女の中に存在するのではないか――。
ジークリンデは僅かに息を吐き、"一度"距離を取った。
"ただの剣士"だと思っていた女が、"それ以上の存在"である可能性を感じながら――。
ここまで戦った相手の中で、これほどまでに"対応力"のある剣士は数えるほどしかいない。
ジークリンデは、剣を握り直しながら低く呟いた。
「……次は、もっと本気を出すわよ」
サーディスもまた、静かに剣を構え直した。
戦いは、まだ終わらない。
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