変質
じわり、とした感覚。
皮膚の下で何かが蠢くような気配。
まるで、骨や筋肉の奥深くで"別の存在"が目覚めようとしているようだった。
神経を撫でるような、薄気味悪い感触。
(――またか)
サーディスは僅かに息を詰め、ゆっくりと袖をめくる。
そこには、肌に根を張るように"黒い紋様"が広がっていた。
淡い月明かりの下、それはまるで生きているかのように微かに蠢く。
静かに波打ち、まるで何かが皮膚の下で胎動しているかのようだった。
"ズ……"
瞬間、腕の中を何かが走った。
血管の奥から這い上がるような、不快な感覚。
指先に向かって何かが突き進み、それが"別のもの"になろうとしている錯覚。
(……これは)
最初に魔剣を抜いたときには、ただの侵食だった。
だが今は、"侵食"ではない。
――"内側から"変わろうとしている。
左目が疼く。
眼帯を外してみれば視界の隅で、影のようなものが揺らぐ。
まるで、眼窩の奥から這い出ようとする何かが、サーディスの視界を歪ませていた。
その不快感、這い出る何か抑えるように、彼女は眼帯を付け直す。
"何か"が、サーディスの中にいる。
"何か"が、そこに確かに存在している。
――"シュゥゥ……"
空気が震えた気がした。
それが自分の呼吸なのか、別のものの息遣いなのか――サーディスには判別できなかった。
「……まだ、耐えられる」
小さく、己に言い聞かせる。
しかし、その言葉を打ち消すように、頭の奥で声が響いた。
(本当に、耐えられるのか?)
その問いかけに、サーディスは無言のまま手を握りしめる。
指先が震える。
これは、ただの魔剣の影響ではない。
これは"変質"だ。
だが――まだ自分はサーディスでいられる。
(……今は、まだ)
月光が照らすその肌には、漆黒の紋様が静かに波打っていた。
「サーディス?」
そのとき、不意に王子の声が聞こえた。
ハッとして、サーディスは袖を素早く戻す。
「どうした?」
王子は、鋭い目でこちらを見ている。
顔に出していたか?
サーディスは僅かに息を整え、努めて平静を装う。
何事もないかのように、淡々とした口調で答えた。
「……やけど跡が疼いただけです」
王子はしばらく彼女の表情を窺っていた。
まるでその言葉が"本当かどうか"を見極めるように。
しかし、やがて彼は軽く息をつくと、静かに言った。
「無理はするなよ」
それ以上の追及はなかった。
サーディスは小さく胸をなでおろす。
気づかれてはいない。まだ大丈夫だ。
(……こんなことは、今までなかった)
魔剣を抜いた直後ならまだしも、何もしていないのに異変が起こる。
先日の戦闘で、連続して魔剣を抜いた影響なのか?
それとも、これまでに魔剣を抜いた回数が積み重なったせいなのか?
どちらにせよ――これは"警告"なのかもしれない。
(もう、抜かない方がいい)
そう思いかけた――が。
サーディスは、ジークリンデとの死闘を思い出す。
(本当に、今後、抜かずに戦えるか?)
否。
"抜かなくても済むかもしれない"という甘い考えが、頭をよぎる。
だが、それを振り払うように、サーディスはわずかに首を振った。
――否。
結局、魔剣を抜かねばならない時は来る。
そのときになって「抜かないほうがいい」などと甘いことを言っていられるか?
ならば――
(私は、魔に侵されても構わない)
左腕がどうなろうと、左目が何になろうと。
自分の体がどうなろうと、それは些細なこと。
復讐さえ遂げられれば、それでいい。
その結論に至った瞬間。
――王子の顔が、脳裏をよぎった。
(……シス様は、こんな私でも――)
サーディスは自分の考えに驚いた。
何を考えている。
魔に侵されても構わないと言ったはずだ。
ならば、誰にどう思われようと関係ない。
しかし。
(……もし、シス様に見られたら?)
左腕が変質しても、左目が別のものになっても、王子は"それでも今まで通り接する"だろうか。
あるいは――恐れ、拒絶するだろうか。
(いや……)
サーディスは、自分の考えを嘲る。
馬鹿か。
受け入れてもらえると思ったのか?
魔である己を?
そんなこと、あるはずがない。
(シス様のことなど、どうでもいいはずだ)
これはただの利用関係。
私が王子を利用しているだけ。
復讐のために、自由に動ける信頼さえあれば、それでいい。
そう、何度も何度も、言い聞かせる。
(シス様は、私が利用しているだけだろう)
それなのに、心の奥にある微かなざわめきが消えない。
サーディスはそっと拳を握りしめる。
左腕の異変はまだ蠢いていたが、彼女はそれを振り払うように、静かに目を閉じた。
<あとがき>
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