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決死


 冷え切った空気が漂い、森の静寂が張り詰めたまま続いていた。


 「さて、聖剣を回収するか」


 冷ややかな声が、闇の中に落ちる。


 ゼファルは足元に転がるサーディスを見下ろし、ゆっくりと歩み寄った。

 その体は、無残なまでに痛めつけられていた。


 服は裂け、肌には無数の傷が刻まれ、乾いた血が痕を作る。

 頬には薄い刃の跡が残り、腕には火傷のように赤黒い痕が広がっていた。

 指先は痙攣し、足元に流れた血が土に染み込んでいく。


 ――まるで、砕かれた人形のようだった。


 それでも、まだ息をしている。


 ゼファルは嘆息しながら、サーディスの手元へと視線を落とした。

 血に汚れた指先が掴むのは、聖剣。


 だが、その力はすでにないはず――。


 「おとなしく手放せ」


 ゼファルが無造作に聖剣へ手を伸ばす。


 だが。


 「……っ」


 かすかに、サーディスの指が動いた。


 完全に力が抜けたはずの腕が、微かに震えながら聖剣を握り直す。

 まるで、それだけは譲れないとでも言うように。

 ゼファルは眉をひそめる。


「しぶといな」


 毒に侵され、体は痛めつけられ、意識さえ朦朧としているはずだ。それでも、彼女の指は聖剣を離そうとはしなかった。


(まるで……死んでも渡さぬとでも言いたげだな)


 ゼファルの唇が、わずかに歪む。彼はサーディスの顔を覗き込んだ。

 血まみれの唇が、かすかに動く。声にならない声。

 だが、その口の動きだけははっきりと分かった。


「お、まえ、にだけは、わた、な、い……」


 ゼファルは一瞬だけ黙った。何の意味もない抵抗だ。彼女の体力は限界を超えている。毒により筋力も制御できず、動くことすらままならない。その状態で、何を守るというのか。

 ゼファルは、短く息を吐いた。


「……無駄なことを」


 再び短剣を持ち直し、静かに刃を押し当てる。ゼファルの短剣がサーディスの首筋に触れたその瞬間、彼女はわずかに笑った。


「……っ」


 ゼファルは、その微かな表情に違和感を覚えた。これまで拷問を受け、毒に侵され、傷つきながらも、彼女は決して"折れなかった"。そして、今もなお、その瞳の奥には"諦め"の色がない。


(何をする気だ……?)


 その疑問が生まれた瞬間には、すでに彼女は動いていた。

 サーディスは、残された最後の力を振り絞り、体を強引に起こした。ゼファルが短剣を押し当てていたにもかかわらず、彼女の動きには迷いがなかった。


 そして――そのまま、転がるように崖際へと向かっていく。

 ゼファルの目が鋭く細められた。


「……まさか」


 一瞬の静寂。だが、その間にもサーディスの動きは止まらなかった。後方には、落差のある切り立った崖。そして、その下には轟々と流れる滝壺が広がっている。

 数十メートル下で荒れ狂う水流。落ちれば、生還など望めない。


(馬鹿な……!)


 ゼファルが動くより早く、サーディスは崖際まで到達した。

 彼女の目が、わずかにゼファルを見据える。手には、なおもしっかりと聖剣を抱えていた。

 ゼファルの手がわずかに動く。


(間に合うか……!?)


 だが、理解した瞬間には、もう遅かった。サーディスは躊躇なく、崖下へと身を投じた。





 世界がふっと浮遊感に包まれる。風が耳を裂くように唸る。

 落下する。回転する視界。次の瞬間、全身を叩きつけるような激しい水圧が襲った。


「――っ!!」


 衝撃が骨の髄まで響く。

 水が、一瞬にして肺へと押し寄せた。どこが上か、下か。何も分からない。流れに引きずられるまま、深く沈んでいく。

 だが、サーディスの腕だけは、決して緩まなかった。


 聖剣だけは、手放さない――。




 ゼファルは、崖の縁に立ったまま、滝壺の激しい流れをじっと見下ろしていた。白い飛沫が舞い上がり、霧のように視界を曇らせる。

 だが、サーディスの姿はどこにもなかった。

 彼女が滝壺へ飛び込んだ時点で、生存の可能性は限りなく低い。


(……まさか、本当に飛び降りるとはな)


 ゼファルはわずかに眉をひそめた。

 この高さと水の勢いでは、まともに落ちれば即死もありうる。たとえ生き延びたとしても、下流の激流に巻き込まれ、どこかへ流される。

 いずれにせよ、ここで彼女の生死を確かめるのは難しい。

 背後で、部下たちが駆け寄ってくる。


「……どうしますか?」


 ゼファルは、しばし沈黙した後、低く答えた。


「生きているはずがない」


 単純な結論だった。どれほどの実力者であろうと、人間である以上、限界がある。


「だが、万が一の可能性は捨てきれない」


 そう続けたゼファルの声には、わずかに慎重さが滲んでいた。

 サーディスは"普通の女剣士"ではない。毒に侵されながらも拷問に耐え、意識を保ち、最期まで抵抗し続けた。何が起こるか、確信を持てない。


「滝の周辺を捜索しろ。死体を見つけるまでは確実とは言えん」


「ですが、ゼファル様……この滝の流れでは、すでに何十メートルも流されている可能性が」


「知っている」


 ゼファルは目を細めた。彼女の生死を確認するのが第一優先ではない。


(問題は、"聖剣"だ)


 サーディスがまだ生きている可能性は限りなく低い。だが、聖剣が回収されないままでは、上層部に報告できない。


「私はヴォルネス公の屋敷に戻る。お前たちは引き続き捜索を続けろ」


 ゼファルは、そう言い残して踵を返した。


 彼にとって、サーディスの生死など瑣末な問題に過ぎなかった。

 最も重要なのは――"王子がすでに手中にある" という事実。


 サーディスがどこかで生き延びようと、もはや無意味。

 王子は捕らえられた。

 彼女がどれほど足掻こうと、運命の歯車はすでに動き出している。


 "――詰んだのだ。"


 ゼファルは静かに歩き出す。

 彼の背が霧の向こうへと消えていく。


 轟々と響く滝の音だけが、冷たい余韻を残していた。

 まるで、終わりを告げる鐘のように。


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