痛み
サーディスが問いただす前に、ゼファルはゆっくりと短剣を抜き、その刃先を弄ぶように回した。
「おもしろい……実に興味深い展開だ。普通なら、"十年前の生き残り"となれば、ここで始末しなければならないところだが」
彼は刃をサーディスの喉元に近づけ、そこでふっと手を止めた。
「助かりたいか?」
その問いかけに、サーディスの心臓が跳ねた。
「……なに?」
ゼファルは、愉快そうに唇を歪める。
「言葉の通りだ。"助かりたいか?"。 このまま殺されるか。それとも……"生きる道を選ぶか"」
静かな声。
「カエルス陛下に忠誠を誓え。お前もクレストの一員だったはずだ」
ゼファルの言葉に、サーディスはゆっくりと息を吸い込んだ。
王子を救うために生き延びるべきか?
それとも、ここで終わるべきか?
毒のせいで、意識が揺れる。全身が重く、指先すら思うように動かせない。
しかし――。
(私は、そんなことをするためにここにいるんじゃない)
サーディスは、迷うことなく、口の中の唾をゼファルの顔へと吐きかけた。ゼファルの目がわずかに細められる。
サーディスの視界が揺れる。ゼファルの冷たい手が、彼女の肩を掴み、ゆっくりと立ち上がらせた。
「……毒では死なん」
ゼファルは淡々とした声で言う。
サーディスは、息を荒げながら、ゼファルの意図を理解できずにいた。
(何を……?)
「お前は運がいい。これは致死性の毒ではない。ただの神経毒だ」
ゼファルは、何気なくサーディスの体を支えながら、彼女を見下ろす。
「もっとも、動けなくなった時点でお前の負けだったがな」
彼の声は、乾いた感心を含んでいた。
「それにしても、見事な忠儀だな。王子を差し出し、自分は残る。まったく、感心するよ」
嘲笑混じりの称賛。そして、次の瞬間。
「……っ!」
サーディスの腹部に重い衝撃が走った。全身が跳ね上がる。地面に叩きつけられる衝撃が、骨に響く。呼吸が詰まる。肺の中の空気が一瞬で抜けた。
「毒では死なん。だが、毒では、な」
ゼファルは、冷たい瞳でサーディスを見下ろす。
「……痛みは感じるか?」
膝が踏みつけられる。骨が軋む嫌な音がした。
「っ……」
サーディスは何も言わなかった。
だが、次の瞬間、頬を打たれた。軽い一撃だった。だが、意識を引き戻すには十分だった。
「しっかりしろ。まだ終わっていない」
ゼファルは、まるで作業をするかのように淡々とした手つきで、サーディスの指を一本ずつ折り始めた。
「……ッ!」
痛みが脳に突き刺さる。だが、サーディスは声を上げなかった。
ゼファルは、何の感情も込めずに拷問を続ける。
「愚かな女だ。王子の進退が決まった時点で、その首と聖剣を持ってくれば、お前は一等功績者だったというのに」
サーディスの指が、次々と折られていく。ゼファルは淡々と続けた。
「王子はいずれ処刑される。貴族たちに見せしめとしてな」
彼の声は揺るがない。
「……それとも、"情婦"という噂は本当だったか?」
ゼファルは、ナイフの切っ先をサーディスの首元に当てながら、薄く笑った。
「王子に可愛がられて、嬉しかったか?」
サーディスの視界が、痛みと毒で滲む。頭がくらくらする。それでも、彼女はゼファルを睨みつけた。
その眼差しに、ゼファルはわずかに目を細める。
「まだ折れていないか」
つまらなそうに呟く。
「王子も楽しんだのだろう。俺も楽しませてくれよ」
彼の声は冷たかった。
サーディスは、わずかに唇の端を歪めた。
「……ゲス、が……」
ゼファルの目がわずかに細められる。
「かは、んしんで、しか……かんがえられな、い、のか」
沈黙。
ゼファルは、サーディスの言葉を吟味するようにじっと見下ろした。
しばしの間、何も言わない。
その沈黙が、何よりも不吉だった。
やがて、彼はゆっくりとナイフを持ち上げ、口元に薄く笑みを刻む。
「……別の方法で楽しませてもらおう」
サーディスは呼吸を整えた。
意識はまだある。
くらくらしているが、朦朧してはいない。
そして理解していた。
拷問が続くのだと。
ゼファルの指が、彼女の頬を撫でる。
皮膚が焼けるような感覚が走る――ただの錯覚なのに、なぜかその手は"異質"だった。
「どこから始めようか……」
楽しげな囁きが、耳を撫でる。
サーディスは目を逸らさなかった。
刃先が肌に触れる。
軽く、浅く、まるで遊ぶように引かれたナイフの軌跡が、僅かな熱を残していく。
だが、傷が深くないことが逆に嫌な予感を呼んだ。
ゼファルはゆっくりと刃を寝かせ、傷口をなぞるように押し当てた。
その冷たさが、じわりと皮膚に染み込んでいく。
ぞわり、と嫌な感覚が背中を駆け上がる。
痛みよりも、"これがどこまで続くのか" という恐怖が、先に来る。
「お前は、どこまで耐えられる?」
刃の角度が変わる。
次の瞬間――鈍い刺激がじわりと広がった。
熱い。冷たい。痛い。感覚が混ざり合い、何が何だかわからなくなる。
息を詰める。
小さな傷のはずなのに、そこから広がる"痛みの余韻"が、次第に全身を支配していく。
「いい顔だ」
ゼファルは満足げに呟いた。
サーディスは声を出さなかった。
ただ、拳を握りしめ、ゼファルの瞳を見つめ返す。
だが、その目の奥で静かに警報が鳴っていた。
――終わらない。
これが、始まりにすぎないことを、彼女は痛いほど理解していた。
森の奥に響くのは、まだ沈黙。
だが、その静寂が、いずれ"痛み"の音に塗り替えられることを、彼女は知っていた。