運命の夜
本編は第15話までゆっくりと進む展開になっています。
テンポよく物語を追いたい方は、『王子護衛騎士編』の『ここまでの人物紹介』を先に読んでから続きを進めるのがおすすめです。
人物や関係性を把握した状態で読めるので、スムーズに物語に入り込めます。
じっくり読みたい方はそのままどうぞ。お好みのスタイルでお楽しみください!
――その夜、屋敷には穏やかな空気が流れていた。
アルノー家の屋敷は広大で、城にも劣らぬ威厳を持つ。
夜は静かで、窓の外では草木が風に揺れ、虫の声が微かに響いていた。
ミレクシアは自室の寝台の上で、布団をかぶりながら瞼を閉じていた。
明日もまた剣の鍛錬がある。
兄に勝つためには、もっともっと強くならなければ――。
そんなことを考えながら、意識が徐々に夢の世界へ沈みかけた、その瞬間。
"……ドン!!!"
突如、屋敷全体を揺るがすような衝撃音が響いた。
「――ッ!?」
驚いて飛び起きる。
何かが爆ぜる音、響く悲鳴、甲高い剣戟の音――。
それはまるで、戦場の音だった。
ミレクシアは、耳を疑う。
(……何? 何が起こっているの?)
だが、屋敷に響く騒音と悲鳴が、悪夢ではないことを告げていた。
鼻をつく焦げた匂いが、現実のものだと理解させる。
そして――。
廊下の外で、誰かが絶叫した。
「逃げろ! くそっ……どこから……ぐあああああっ!!」
ミレクシアの心臓が、ひどく脈打つ。恐怖が喉元を締めつける。
しかし、じっとしているわけにはいかなかった。
「お父様、お母様……兄様……!」
必死に家族の名を呼びながら、ミレクシアは部屋の扉を開け、廊下へと飛び出した。
扉を開けた瞬間、目の前に広がっていたのは、いつも見慣れた廊下ではなかった。
煙が充満し、焦げた木材の匂いが鼻を突く。
遠くの窓の外を見ると、屋敷の一部がすでに炎に包まれている。
(燃えている……!?)
理解が追いつかない。何が起こっているのか、全く分からなかった。
階下から響く剣がぶつかる音と絶叫。
「……何が……?」
背筋が凍るような不吉な感覚が、ミレクシアの心を締め付ける。
屋敷が襲われている。本能がそう叫んでいた。
「お父様……お母様……」
家族の無事を確かめるため、ミレクシアは恐怖を振り払い、廊下を駆け出した。
裸足のまま、屋敷の奥へ走る。暖かな夜の空気のはずが、燃え盛る炎の熱で灼けつくようだった。
焦燥と恐怖に駆られ、ミレクシアは階下へ向かう。
しかし、廊下を曲がった瞬間――足が、止まった。
そこにあったのは、見慣れた者たちの死体だった。
乳母のエルナ。温かい笑顔で、いつもミレクシアを抱きしめてくれた人。
彼女が、胸を斬り裂かれた状態で倒れていた。
白いドレスは、すでに深い紅に染まっていた。
「……エルナ……?」
声が震える。あり得ない。彼女はいつも優しく微笑んでいたのに。
ミレクシアが困った時、そっと手を握ってくれたのに。
なぜ、今は目を開かない? なぜ、こんな冷たく横たわっているの?
「エルナ……?」
縋るように名を呼ぶが、当然、返事はなかった。
護衛騎士のアーヴィング。寡黙だが、誠実な男だった。
ミレクシアの安全を何よりも優先し、屋敷のどこへ行くにも影のように付き従ってくれた騎士。
彼は喉を貫かれ、血溜まりの中で事切れていた。
剣は手にしたままだが、彼が守ろうとしたものは、すでに失われてしまったのかもしれない。
「……嘘、でしょ……?」
膝が震え、体の力が抜けそうになる。逃げなければ。こんなところにいたら、今度は自分が殺される。分かっているのに、体が動かない。
(こんなの……嫌だ……)
現実が受け入れられない。目の前に広がる光景を、脳が拒絶する。
だが、耳をつんざくような叫び声が、それが"現実"であることを突きつけた。
「エリシア様ぁぁぁ!!」
母の侍女の悲鳴。その声を聞いた瞬間、ミレクシアの心臓が跳ね上がる。
母の名を呼ぶ悲痛な叫び。
――まさか。そんなはずはない。
嫌な予感が胸を締め付ける。
ミレクシアは、無我夢中で声のする方向へ駆け出した。
食堂へと続く廊下を全力で走る。途中、転びそうになっても気にしなかった。
母がいる。母がそこにいる。
なのに――なのに、どうして、悲鳴が響くの?
ミレクシアは扉に駆け寄り、そのまま勢いよく蹴破った。食堂に飛び込んだミレクシアが見たものは――母の喉に刃を突き立てる黒装束の男だった。
「――お、お母……さま……?」
時間が止まったようだった。
母の美しい金の髪が、まるで散る花びらのように揺れる。
その喉元から、赤い筋が流れ、次の瞬間、彼女はゆっくりと崩れ落ちた。血が床に広がる。まるで、赤い花が咲いたように。
「な……何……?」
理解が追いつかない。これは、何?
こんなの、おかしい。ついさっきまで母は――笑っていたのに。優しく手を握ってくれたのに。
なのに、どうして?
どうして今、床に倒れているの?
どうして血を流しているの?
どうして、何も言わずに――目を閉じてしまうの?
ミレクシアの足が震える。
目の前の光景を拒絶するかのように、一歩後ずさる。
その時だった。母の命を奪った黒装束の男が、ゆっくりと顔を上げ、ミレクシアへと目を向けた。冷たい碧の瞳が、無感情に彼女を捉える。
「……チッ、まだ残っていたか」
男の声には、驚きもなければ、憐れみもない。
ただ、任務の遂行を邪魔されたかのような不快さだけが滲んでいた。
まるで、虫でも見るかのような目だった。それが余計に、ミレクシアの恐怖を煽る。
そして、男の胸元に刻まれた紋章が目に入る。
それは――クレストの紋章。王直属の精鋭部隊。
「なぜ、クレストが……?」
ミレクシアの全身が戦慄に包まれる。
王に仕えるはずの彼らが、どうしてアルノー家を襲うのか?
どうして、母を――。
だが、男はそんなミレクシアの動揺など気にも留めず、静かに剣を向けた。
「次の標的だな」
刃が月明かりに鈍く光る。ミレクシアの心臓が締め付けられる。
(……殺される!)
本能が警鐘を鳴らした。
「逃げなきゃ……!」
ミレクシアは弾かれたように背を向け、廊下へと駆け出す。恐怖に駆られ、必死に走る。
(生きなきゃ……!)
だが――
「遅い」
男の冷たい声が背後から響いた。刹那、ミレクシアの背中に激痛が走る。
「――あ、ぐ……っ」
熱い何かが、背中から溢れ出た。体が崩れ落ちる。手をついた床が濡れている。
それが"血"だと気づくのに、数秒かかった。
呼吸ができない。意識が薄れる。
(……死ぬ?)
こんなところで?まだ何もできていないのに?
兄にも勝ててない。父のように剣を振るうこともなかった。王子と約束した、次の騎士ごっこも……。
(こんなところで……)
視界が揺れる。耳鳴りがする。
刃が振り下ろされようとするのが見えた。
(殺される……!)
だが――
「まだだ、ゼファル。遊んでいる暇はない。時間だ」
「……了解した」
男の刃は止まり、足音が遠ざかる。どうやら、ミレクシアにとどめを刺すことなく撤退することにしたらしい。
血の気が引いていくのを感じながら、ミレクシアはただ床に横たわる。痛みと寒さの中、意識が遠のいていく。
その時見た"男の顔"を、ミレクシアは確かに記憶していた。
短く整えられた黒髪。冷たい碧の瞳。クレストの紋章を誇示するかのように刻んだ鎧。そして、去り際に仲間が呼んだ名。
「……ゼファル……」
ミレクシアの唇が、かすかに動く。
決して忘れない。この名前を。この顔を。この夜の絶望を――。
だが意識が薄れていく。
ミレクシアは力なく床に倒れ込んでいた。
温かかったはずの自分の血が、冷たい床に広がり、じわじわと体温を奪っていく。
(……動けない)
息をするのも苦しい。
体は鉛のように重く、まるで自分のものではないようだった。視界がぼやけ、世界が遠のいていく感覚の中で、ふと気がつく。
――手が、何かを掴んでいる。指先が、かすかに触れていた。
冷たく、硬い感触。目を向けると、そこには一本の剣があった。
屋敷の居間に飾られていた古びた剣。長年、誰の手にも触れられず、ただ飾り物として扱われてきたもの。錆びついた刀身は鞘に固くこびりつき、抜けることはない。
「これはな……抜けない剣だ」
幼い頃、父が言っていたことを思い出す。
「装飾が立派だから飾っているが、何の役にも立たん」
役に立たない剣。戦うこともできず、ただ飾られるだけのもの。
(……まるで、今の私みたいだ)
このまま死ぬのだろうか。何もできず、ただここで終わるのか。
兄にも勝てず、父のような剣士にもなれず、母を守ることもできず――。
血を流しながら、冷えた指が剣をぎゅっと握りしめる。
その時だった。
ふいに、世界が暗転する。
闇の奥から、何かが呼んでいる。それは、耳元で囁くような、不気味な声だった。
「生きたいか?」
ぞくり、と背筋が凍る。
(……誰?)
問いかける余裕もない。だが、確かに"何か"が語りかけてくる。
声ではない。意識の奥底に、直接響くような囁き。
「復讐を果たしたいか?」
その言葉に、ミレクシアの胸が締め付けられる。
復讐――。
目の前に広がる惨劇。燃え盛る屋敷。母の倒れた体。血の匂い。冷たい碧の瞳。
怒りが込み上げる。憎しみが渦巻く。このままでは終われない。終わってたまるものか。
生きなければ――。
「……生きたい」
心の奥底から、言葉がこぼれた。
すると、闇の中で何かが動いた。冷たく、ねっとりとした影が広がり、ミレクシアの手に巻きつくように絡みつく。
「ならば契約を結ぼう」
その瞬間、凍りつくような冷気が指先から腕へと駆け上る。
剣が、微かに震えた。鞘にこびりついて抜けることのなかった刃が、わずかに動く。
"――カチリ"。
まるで、長年閉ざされていた何かが目覚めるような音がした。
剣が、微かに震える。
――そして、刃が鞘を破った。
"ギィィィン……!"
黒い光が溢れ、ミレクシアの左手に痺れが走る。
次の瞬間、皮膚がひび割れ、爪がわずかに伸びた。
(何……これ……)
契約は、完了した。