嘲笑
わずかに冷えた風が、森の奥から吹き抜ける。それは、まるで彼女に"決断"を迫るようだった。
だが、森の中に沈む静寂が、不意に破られた。
「……随分と無様だな」
耳元に落ちる低い声に、サーディスの体が弾かれたように反応した。驚きと同時に振り返ろうとしたが、足に力が入らない。次の瞬間、バランスを崩し、そのまま地面に尻もちをつく。
目の前に立っていたのは、ゼファル・クロイツだった。
森の奥へと消えたはずの男。だが、ゼファルは"消えたふり"をしていた。サーディスを油断させ、"獲物が自ら罠にかかるのを待っていた"のだ。
「……毒が回っているのか」
ゼファルは、冷ややかな眼差しを向けながら、ゆっくりと歩み寄る。
「お前にしては、随分とお粗末だな」
サーディスは、歯を食いしばった。
(……クソッ)
まともに動けない今、逃げることはできない。ゼファルが剣を抜けば、それだけで終わる。戦えない。逃げられない。
サーディスは、震える指先を握り締めた。血が怒りで沸騰しそうだった。仇を目の前にしていながら、何もできない自分に。もし今、体さえ動けば、この男を八つ裂きにしているはずだ。
しかし、怒りに身を任せるのは愚かだと本能が告げていた。
ゼファルは剣を抜いていない。
ならば、まだ"遊び"のつもりなのか?
それとも、じわじわと絶望を味わわせるつもりか。
サーディスはゆっくりと呼吸を整えた。
今、大事なのはこの状況をどう切り抜けるか。戦えない以上、どう動くべきか。
"生き延びなければ、復讐は果たせない"
故に取る手段は一つ。時間を稼ぐ。
(少しでも……少しでも毒が抜ける時間を)
サーディスは、わずかに息を整え、ゼファルを睨みつけるように言った。
「……き、きたいこと、がある」
ゼファルの足が止まる。黒衣に包まれた男は、興味深げにサーディスを見下ろした。
「ほう? 負け犬の言い訳か?」
「ちがう」
サーディスは、呼吸を整えながら、できる限り冷静に続ける。
「じゅうねん、まえの、こと……」
ゼファルの目がわずかに細まる。空気が張り詰めた。
「……十年前?」
「アルノーけを、おそっただ、ろう。そのこと、を。はなせ」
ゼファルの冷静な瞳に、一瞬だけ猜疑の色が混じった。
「……貴様、それを何故知っている?」
「……」
「まさか、お前"あの屋敷の生き残り"か?」
ゼファルの声色がわずかに低くなる。
サーディスは表情を変えず、じっとゼファルを見据えた。それが答えだった。
ゼファルは、しばらくサーディスを観察するように見つめ――そして、ふっと鼻を鳴らした。
「侍女見習いか何かか?」
嘲笑を含んだ問いかけだった。屋敷で生き延びた者などいないはずだった。
ゼファルの認識では、貴族の娘や当主は全員始末された。使用人たちもほぼ皆殺しにされたはずだ。
男は、まるで確かめるようにサーディスの顔を覗き込む。ゼファルは、喉の奥で低く嗤った。
「……そうか、そういうことか」
彼の目が細まり、まるで何かの謎が解けたかのように微かに口元を歪める。
「"あの時の生き残り"が……"今ここにいる"とはな」
ゼファルは肩を揺らし、くっくっと喉を鳴らした。次第にそれは笑いへと変わる。
「くくく……あっはっはっはっはっは!」
突然の哄笑に、サーディスの思考が一瞬止まる。
(何がそんなに可笑しい?)
ゼファルの笑いは、嘲りにも歓喜にも聞こえた。そして、笑いが収まると、彼はサーディスをまじまじと見つめ、興味深げに続けた。
「いや、これは最高だ。実に、"面白い"。まさか、生き残りがいて……しかも、それが"王妃のお気に入り"とは」
サーディスの眉がわずかに寄る。
(……何が言いたい?)
ゼファルの態度は明らかに"何かを知っている者の余裕"だった。それが不気味だった。
(この男は、何を知っている……?)