魔剣解放
王子の幕舎は、まさに修羅場と化していた。剣戟の音が激しく鳴り響き、兵士たちの叫びと血の匂いが充満する。
サーディスは王子の前に立ち、背を守るように剣を振るっていた。
前方の敵を斬り伏せても、次の兵士がすぐに押し寄せる。ヴォルネス公の部隊は、精鋭ぞろい。全員が熟練の戦士であり、無駄な動きをしない。
(……クソッ、数が多すぎる)
敵の剣が容赦なく襲いかかる。一瞬の隙さえ命取りになるほど、相手の動きは正確で洗練されていた。
いくら彼女が"一騎当千"の実力を持っていても、限界はある。
「王子、下がってください!」
「だが――!」
王子が言いかけた瞬間、横合いから槍が突き出された。サーディスは即座に剣を振るい、槍をへし折る。
だが、その刹那、鋭い衝撃が背後から襲いかかる。
"ズバァッ!"
鈍く響く斬撃音とともに、背中に深い痛みが走った。
「ぐ……っ!」
刃が肉を裂き、血が弧を描くように飛び散る。傷は浅くない。深く、致命傷になりかねない一撃だった。
身体が傾ぐ。膝が崩れそうになる。
(……まずい)
息が詰まり、視界が滲む。だが、今倒れれば、王子が殺される。
その王子もまた、数人の兵士に囲まれ、追い詰められていた。
「王子!!」
必死に呼びかけようとするが、喉が渇いて声が出ない。血が滴り落ちる。冷たい感覚が、ゆっくりと身体を侵していく。
(このままでは)
王子が死ぬ。サーディスの指が震える。まだ意識はある。だが、動けない。このままでは、王子を守れない。
その時――
彼女の意識の奥深くで、"声"が響いた。
――"お前は、どうする?"
冷たく、優雅で、甘美な囁き。それは、魔剣が語りかける声だった。
(……まだ、動ける)
だが、この状態では戦えない。傷は深く、剣を振るう力も残りわずか。
しかし、左背中に"あれ"がある。
いつもは意識の奥底に沈め、存在すら感じさせない"呪われた刃"。
(抜けば……力が得られる)
恐ろしいほどの強大な力。肉体の限界すら超える"絶対的な力"を。
だが、それには代償がある。
「……」
サーディスは、一瞬、呼吸を止めた。この剣を解放すれば、戦況は変わる。しかし、それは"決して戻れない道"でもある。
(……どうする?)
王子が、敵の剣を受けながら後退しているのが見えた。
(迷うな)
王子は生かすと誓った。自分にも。王妃にも。
そのためならば――。
「……来い」
サーディスは、震える指を魔剣の柄へとかけた。
"魔剣、解放"。
刹那――
世界が、色を失った。空気が張り詰め、凍りついたような静寂が広がる。
しかし、その静寂の中心にいたのは、サーディス。
"ギィィィィィン!!"
耳を裂くような金属音が響く。封印が破られ、魔剣の"瘴気"がサーディスの体から溢れ出す。黒い波動がうねり、地面を舐めるように広がっていく。
まるで世界そのものが、"異質な何か"に侵されていくようだった。
"シュバァッ!"
夜の闇すら掻き消すような、黒い閃光が一瞬走る。敵兵士たちは、それが何だったのか理解する間もなかった。本能的な恐怖が、理性を押し潰す。
「な、なんだ……ッ!?」
「何をした……!?」
戦場にいた兵士たちが、無意識に数歩後ずさる。何が起こったのか理解するよりも先に、サーディスは一歩、踏み出した。
その瞬間――
"ドグァァッ!!"
"五つの首"が宙を舞った。誰も剣の動きを見ていない。血が噴き出し、五つの身体が一斉に崩れ落ちる。静寂の中、"滴る血の音"だけが、異様なほど鮮明に響いた。
「……は?」
兵士たちが、信じられないという表情を浮かべる。
その間にも、サーディスは次の一閃を放つ。
"ザシュッ!"
"ドシュッ!"
"戦う"というよりも"命"を狩る。それが、この場で起きていることだった
。
「ば、化け物だ……!!」
「やめろ、やめ……ぐぁっ!!」
ヴォルネス公の兵たちが、悲鳴を上げながら倒れていく。これは戦闘ではなかった。"虐殺"だった。
サーディスの動きは異常だった。剣が血に濡れれば濡れるほど、動きが速くなる。
刃が敵の肉を裂き、血が飛び散るたびに、魔剣が飢えた獣のように脈動する。吸い上げられた血が刃に染み込む。
まるで、"命そのもの"を喰らっているかのようだった。
サーディスの瞳には、光がなかった。剣を振るうたびに、微かに笑みを浮かべる。
「……血が足りない」
小さく漏れた声。それは、敵を殺すことへの迷いも、躊躇いも、何もかもが消え去った者の言葉だった。
王子は、その光景を目の前で見ていた。
目を疑う。だが、否応なく、"目の前の現実"を突きつけられる。
――これは、本当にサーディスなのか?
彼女の剣の軌道は、もはや人間の域を超えている。そこに理性はない。あるのはただ、"圧倒的な殺戮"だけ。
「サーディス!! やめろ!!」
王子の声が響いた。しかしサーディスは振り返らない。
彼の声が、届いているのかすら分からない。
ただ、殺し続ける。
血に塗れた戦場の中心で、サーディスは剣を振るい続けた。
彼女の足元は、"血の海"と化していた。
まるで、陶酔するかのように。
戦いではない。
"生"と"死"の境界すら曖昧な、ただの"惨劇"。
王子は、初めて本能的な"恐怖"を覚えた。
"仲間"への恐怖。"剣士"ではなく"怪物"への恐怖。
目の前にいるのは、もう人ではない。
かつて笑い合った剣士は、今、"ただの死神"になっていた。
「……サーディス……?」
彼女の瞳は、光を失い、ただ深い闇だけが宿っていた。
まるで、"別の何か"に支配されているように。
その手が振るう剣は、もはや技ではなかった。
"生を断つための刃"。ただそれだけが、そこにあった。
――これは、本当に"サーディス"なのか?
王子は、息を呑んだ。
"いや、違う"。
これは、"別の何か"だ。