嵐
夜の帳が降りる頃、軍は広大な草原の中に陣を敷いていた。目的地の村まで、あと一日。
兵士たちは各自の持ち場に散り、武具の手入れをする者、静かに火を囲む者、明日の戦に備えて眠る者――それぞれの時間を過ごしていた。
王子アレクシスもまた、自らの幕舎で静かに戦略を練っていた。有力貴族ヴォルネス公と共に、地図を広げ、戦況を確認していた。
「反乱軍の規模を考えれば、明日には決着をつけることができるでしょう」
ヴォルネス公は落ち着いた口調で言う。
「ええ。ですが、彼らが本当に"戦う意志"を持っているか、降伏の機会を与えた上で判断したい」
王子はそう答える。ヴォルネス公は、わずかに眉をひそめたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「……さすがは王子殿下。慈悲深いお考えですな」
王子は、その笑みを深くは気に留めなかった。
「私はただ、無駄な血を流させたくないだけだ」
「……では、明日に備え、そろそろお休みください。王子の疲れを取ることが、最良の戦術となりましょう」
「……そうだな。ありがとう、ヴォルネス公」
ヴォルネス公は深く一礼し、王子の幕舎を後にした。
その様子を、サーディスは幕舎の外から静かに見ていた。
(……何か引っかかる)
ヴォルネス公の態度は、あまりに"整いすぎていた"。
この男は、決して無能ではない。それなのに、なぜか王子の言葉に対する違和感があった。
(……考えすぎか)
サーディスは、僅かに首を振り、自分の警戒心が過剰でないことを願った。
夜半過ぎ。軍は静まり返っていた。夜番の兵士が火を囲み、警戒を続けるだけ。
王子の幕舎の中では、アレクシスが静かに眠りについていた。
だが、サーディスは眠っていなかった。
妙な気配がする。空気が、異常に静かすぎる。
(……おかしい)
風が止み、草木が揺れる音もない。本能が警鐘を鳴らす。
彼女は剣に手をかけ、幕舎の外に出た。
そして、闇の中にぼんやりと浮かび上がる影を見た。
ヴォルネス公の部隊の兵士たち。彼らは、夜番の兵士と話していた。
穏やかに見えた。
だが、次の瞬間。
"シュッ!"
音もなく、夜番の喉元に剣が突き立てられた。
「……っ!」
喉を切り裂かれた兵士は、声を上げることすらできないまま崩れ落ちる。
血が土を濡らし、残された炎が揺れる。
サーディスは瞬時に動いた。
"裏切りだ!"
兵士の死を見届けることなく、サーディスは反射的に動き出す。
王子の幕舎へ――
(シス様……!!)
夜闇を裂くように駆け、サーディスは剣を抜いた。
王子は、微かに物音を聞いた。
次の瞬間――
"バサッ!"
幕舎の布が引き裂かれ、兵士たちが殺気とともに雪崩れ込んできた。
「……っ!?」
王子は瞬時に跳ね起き、剣に手を伸ばす。しかし、それよりも早く、冷たい刃が喉元に突きつけられた。剣の切っ先が、肌に触れるほどの距離で静止する。
「……遅かったな、王子よ」
落ち着いた声が響いた。ヴォルネス公が悠然と幕舎の中に入り、薄暗い光の下で笑みを浮かべる。
「……何のつもりだ?」
王子は剣を抜く隙を探りながら、静かに問いかけた。
「貴様が邪魔なのだ、王子よ」
ヴォルネス公はまるで茶飲み話でもするような口調で言い放つ。
「あとは"貴様さえいなければ"、すべてはうまく運ぶのだ」
王子は周囲を素早く見渡す。
幕舎の中はすでに十数名の兵士たちに囲まれていた。全員が剣を抜き、王子を取り囲むように立っている。逃げ場はない。
「……つまり、最初から仕組まれていたというわけか。反乱というのも嘘か」
王子は静かに言葉を紡ぐ。
「気づくのが遅すぎたな」
ヴォルネス公は嘲るように肩をすくめた。
「貴様をここで殺し、新たな王を迎える。それが"我々の計画"だ」
その言葉に、王子は確信した。
これは、単なる貴族の謀反ではない。背後に何者かがいる。
ヴォルネス公だけでは、ここまで大胆な動きは取れない。
誰が指示を出している?
狙いは何だ?
「もう長々と話す必要はないな」
ヴォルネス公が手を上げる。
「殺せ」
その言葉と同時に、兵士たちが一斉に剣を振り上げた。
だが、その刹那。
疾風のように黒い影が幕舎に飛び込んできた。
「"王子には指一本触れさせない"」
鋭い声が響く。次の瞬間、血しぶきが弧を描いた。一人の兵士の喉元が裂かれ、即座に崩れ落ちる。
「何――!?」
兵士たちが驚愕する。
黒い影――サーディスだった。
瞬く間に、二人目、三人目の兵士が地面に沈む。彼女は王子を囲む兵士たちの間を駆け抜け、冷徹な動きで剣を振るう。無駄な動作は一切ない。
「この女……!」
ヴォルネス公の表情が一瞬だけ歪む。
「何をしている! さっさと仕留めろ!」
兵士たちは我に返り、次々にサーディスに襲いかかる。
だが――遅い。
サーディスの剣が、まるで死神の鎌のように次々と敵の命を刈り取っていく。
王子の元へ辿り着くまで、あと一歩。
「王子……!」
王子もまた、立ち上がり剣を抜いた。
「援護する!」
戦いの火蓋が、ここに切って落とされた。