稽古と笑顔
本編は第15話までゆっくりと進む展開になっています。
テンポよく物語を追いたい方は、『王子護衛騎士編』の『ここまでの人物紹介』を先に読んでから続きを進めるのがおすすめです。
人物や関係性を把握した状態で読めるので、スムーズに物語に入り込めます。
じっくり読みたい方はそのままどうぞ。お好みのスタイルでお楽しみください!
陽が傾き始め、淡い橙色の光が石畳を照らしていた。
軽く汗を滲ませた兵士たちが訓練を終え、次々と木剣を片付けながら去っていく時間帯だ。
だが、訓練場にはまだ熱気が残っている。今日の訓練場には、いつもと違う光景があった。
戦闘服に身を包み、長い銀髪を後ろで束ねた女剣士。左目を眼帯で隠し、黒い手袋をはめた彼女が、無数の兵士たちと向かい合っていた。王子アレクシスの護衛騎士を務める女剣士であり、先日の武術大会で優勝した者。
そもそも、彼女が訓練場に立つ必要はなかった。すべては、一人の兵士の何気ない一言が発端だった。
「すみません……よろしければ、一手、お願いできませんか?」
最初はただの頼みだった。サーディスも、王子の護衛という立場を理由に、断ろうとした。
だが――
「いいだろう。サーディス、やってやれ」
王子が、即座に許可を出したのだ。
その瞬間、訓練場の空気が変わった。"武術大会の優勝者と手合わせができる"。
その言葉が広がると、次々と兵士たちが名乗りを上げ、いつの間にか"稽古をつけてもらいたい者"の長蛇の列ができていた。
サーディスは、王子を一瞥した。
(……余計なことを)
心の中で恨みを吐きながらも、引き受けた以上は手を抜けない。
一人目、二人目、三人目――。
次々と兵士たちと手合わせをしながら、それぞれに異なる指導を行う。
重い剣を振るう者には、力に頼らず技を磨くように。機敏な動きをする者には、動きの無駄を削るように。攻めばかりに偏る者には、守りの大切さを説く。
容赦なく、無駄のない剣撃で兵士たちを叩き伏せながら、的確な指導を加えていく。
「攻撃が単調すぎる。変化をつけなさい」
「剣の軌道を読まれている。次の一手を考えながら動きなさい」
「あなたは力に頼りすぎだ。少しでも崩されたら立て直せないぞ」
厳しく、的確に。
指導を受けた兵士たちは、倒れながらも満足げに頷き、次の挑戦者へと場所を譲る。
その様子を、王子アレクシスは少し離れた場所で眺めていた。
最初は気まぐれで許可を出しただけだったが。
(思った以上に、兵士たちが熱心だな)
彼は、興味深そうに目を細める。サーディスの指導は、単に相手を打ち負かすものではなかった。
それぞれの癖や未熟な点を見抜き、的確な助言を与えている。その姿に、王子は思わず小さく微笑む。
(やはり、ただの剣士ではないな)
彼女の立ち振る舞い、剣の精度、相手を見る目――どれを取っても、一介の武人の域を超えていた。
サーディスは、無駄口を叩くことなく、黙々と稽古をつけ続けている。
夕陽が落ちる中、訓練場には、彼女の剣閃が静かに響き続けていた。。
兵士たちとの稽古がひと段落し、ようやく静けさが戻り始めた訓練場。
熱気が冷めやらぬ中、サーディスは最後に残った木剣を片付けようとしていた。
しかし、その瞬間――
「……私も君に剣の稽古をつけてもらいたい」
落ち着いた、しかしどこか楽しげな声が響いた。
サーディスは、ゆっくりと視線を向ける。そこには、木剣を片手に持ち、肩に担ぐようにして立つ王子アレクシスの姿があった。
「王子……?」
王子は微笑を浮かべながら、軽く木剣を振ってみせる。
「この流れで私だけ仲間外れにされるのは、さすがに寂しいと思わないか?」
その言葉に、サーディスはわずかに目を細める。
「王子には専属の教練士がいるはずですが」
「いるさ。でも、彼らとの訓練は"型通り"のものばかりだ。たまには実戦に即した稽古も必要だろう?」
王子の声音は軽い。しかし、その瞳には純粋な興味が宿っていた。
「それに、君がどれほどの強さか、実際にこの手で確かめたくなった」
サーディスは、内心ため息をつく。
(また余計なことを……)
とはいえ、ここで拒めば"王子の挑戦を退けた"と見なされる。周囲の兵士たちも、興味津々といった様子で見守っている。
サーディスは無言のまま、再び木剣を手に取った。
「……分かりました。お相手しましょう」
その言葉に、王子の微笑が深まる。
「光栄だな」
軽く手首を回しながら、王子はゆっくりと間合いを取る。
木剣を両手で握り、慎重に構えを取るその動作には、一切の無駄がない。
"本気"の構え。それが、一目で分かった。
サーディスもまた、静かに呼吸を整え、木剣を掲げる。
「では――始めましょう」
夕陽の光が二人の影を長く伸ばし、訓練場に新たな緊張が走った。
"カンッ!"
鋭い打撃音が訓練場に響いた。木剣と木剣がぶつかり合い、衝撃が空気を震わせる。
王子の剣は、決して甘くはない。その速さ、力、技量――どれもが研ぎ澄まされていた。サーディスは、その剣筋を見極めながら思う。
(……昔より、ずっと強くなった)
幼い頃、王子は剣を振るうことが好きだったが、決して特別に強いわけではなかった。
けれど今は違う。身分に甘えることなく、"剣士"として鍛え上げられている。
(――あの頃のままじゃ、ないか)
王子の剣が鋭く振り下ろされる。サーディスは、それを最小限の動きで受け流し、軽やかに身を引いた。
「……さすがだな、君は」
王子が小さく呟く。その声には、感嘆と少しの悔しさが混じっていた。
「感心している暇はありませんよ」
サーディスは淡々と告げ、すぐに次の攻撃へ移る。王子もまた、それを迎え撃った。木剣がぶつかり合うたび、互いの視線が交錯する。
王子の技は確かに洗練されている。だが、サーディスには"実戦経験"がある。戦場で培われた直感と、死線を潜り抜けてきた確かな戦技。それが、ほんの僅かな差となって剣筋に表れていた。
(……昔と同じだ)
脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。
「もう一回! 今度こそ勝つ!」
「私に勝ちたいなら、もっと鍛錬が必要ですわ」
「くっ……次こそ!」
小さな庭園で、何度も剣を交えた日々。
王子は負けるたびに悔しそうに顔をしかめ、それでも何度でも挑んできた。
「ミレクシアは手加減してくれないな……」
「手加減なんてしたら、強くなれないでしょう?」
「……そうか」
まっすぐな瞳で、負けることを恐れず剣を振るう王子の姿。
"シス様は負けず嫌い"
そう思いながら、サーディスは何度も彼の相手をしてきた。彼が勝てるようになる日は、まだまだ先のことだと思っていた。
そして今――
王子は、しっかりと剣を握り、鋭い視線でサーディスを見据えている。
(……私は、何を考えているの?)
もう"ミレクシア"ではない。過去の自分には戻れない。
目の前にいるのは、かつて仕えたいと願った王子――
今は、復讐のために利用しようとしている男。
それなのに、どうして。
どうして、今この瞬間だけ。懐かしさを覚えてしまうのだろうか。
サーディスは、胸の奥がじくじくと痛むのを感じながら、それを振り払うように剣を振るった。
その動きに王子は反応し、木剣を振るう。互いの剣が交錯し、そして、王子の剣が、大きく弾かれた。
「……っと」
鋭い打撃音のあと、王子アレクシスは木剣を取り落とした。それと同時に、軽く手を振り、肩で息をつく。
「やっぱり、君には敵わないか」
そう呟くと、苦笑しながら木剣を拾い上げた。額には汗が滲み、わずかに乱れた髪をかき上げる。
一方のサーディスは、呼吸すら乱れていない。木剣を持つ手も安定しており、表情にもほとんど変化がない。
だが、ふと――自分の口元がわずかに緩んでいることに気がついた。
(……私は、今、笑っている?)
"懐かしさ"が、胸の奥をくすぐる。
「……今、笑ったか?」
その一瞬の変化を見逃さなかった王子が、じっと彼女を見つめた。サーディスは、瞬時に表情を引き締める。
(しまった)
剣を交えるうちに、かつての記憶が蘇り、気が緩んでしまったのかもしれない。ほんのわずかな時間だったが、それでも王子の目には確かに映ったらしい。
「……気のせいです」
平静を装い、淡々と返す。しかし王子は、確信したように微笑んだ。
「いや、確かに笑ったな」
「……失礼いたしました」
サーディスは視線を逸らし、木剣を下ろした。だが、王子はそのまま彼女をじっと見つめ続ける。
「別に謝ることでもない」
穏やかな声が耳に届く。
(どうして、こんな些細なことで……)
サーディスの指が、無意識に木剣を握る。
「君はいつも鉄仮面だと思っていたが、存外可愛らしく笑うのだな」
「――!」
サーディスは驚き、一瞬言葉を失った。
(何を……?)
からかうような軽い口調。けれど、その瞳には純粋な好奇心が宿っていた。
サーディスは戸惑いを隠しながら、ゆっくりと目を伏せる。
「……必要のないことです」
「そうか? もう少し表情を崩した方が親しみを持ってもらえると思うぞ」
「私には必要ないことです」
王子はふっと笑い、再び木剣を構えた。
「……続けようか。今度は笑う余裕がないくらい、本気でいくぞ?」
サーディスは、ゆるりと構えを取る。
「……どうぞ、ご自由に」
その声には、わずかに震えがあった。
剣を交えながら、サーディスは胸の奥で微かな温もりを感じていた。
(――こんな気持ちは、もう捨てたはずなのに)
剣を振るうたびに、蘇る記憶。
かつての誓い。
かつての信頼。
"貴方を守る"と誓ったあの日。
……そんなものは、とっくに終わったはずなのに。