その5
五滴 四十年前──初秋①
浴槽で意識を無くした繭が目覚めたのは明け方、空が白み始めた頃だった。
何とか脱衣所に寝かせて体が冷えないようにタオルケットを掛けて、紬は一晩中繭に寄り添っていた。
繭の瞼が僅かに開くと
「気分はどう?大丈夫?」
紬が声をかけた。
「…………」
繭はじっと紬を見つめただけだった。
「えっ、どうしちゃったの繭。私よ、紬よ」
「まゆ…つむぎ…」
「どうした。私の事、誰だか分からない?。まあ、とにかく服を着ようか。起きられる?」
紬は繭の背中を支え上半身を起こすとTシャツを渡した。
繭はそれを手にしたままじっとしていた。
「繭、体が冷えちゃうから早く着て」
そう言っても繭は動かない。Tシャツを握ったままどうして良いのか分からないみたいだ。
紬はシャツの袖に繭の腕を通し首元を頭に被せてどうにか着させた。
「あなたは繭じゃないの?」
だらしなくTシャツを着けた彼女に聞いたが、視線も定まらないまま黙っている。
「とにかく向こうへ行こう。立てる?」
立ち上がらせパンツを履かせて食卓へ連れて行った。
椅子に座らせると白湯の入ったマグカップを手渡し、少し傾けて飲み方を教えた。
「熱くないから大丈夫よ。飲める?」
紬が問いかけると、ゆっくり飲み始めた。するとグゥッとお腹が鳴った。
「おにぎりでも食べる?」
「おにぎり?」
紬は塩むすびを急いで握って手渡した。彼女は無言でガツガツとあっという間に食べ終わった。
紬は濡れ布巾を渡しながら
「手がべた付いちゃったでしょ。これで手を拭いて。拭き方分かる?こうやってやるの」
ジェスチャーで教えた。彼女は見よう見まねで手を拭いた。
「あなたは──繭じゃないのね」
紬の問いに無表情で見つめ返す。
「分かった。あなたは繭が生んだ子なのね。繭はどうしちゃったんだろう……とにかく今のあなたは繭の子供で──マユコ、うん、あなたはマユコ」
紬はマユコの手を握りながら言った。
「マユコ」
彼女もリピートした。
マユコは無垢で素直で従順だった。彼女にとって何もかもが初めてで新鮮な事なのだろう。
物の名前、言葉の使い方、立ち振る舞い等、日常生活を普通に過ごす為に覚える物事は果てしなくあったが、殆ど一度教えるだけで自分の物にしていった。元々彼女のベースは繭なのだから今まで生きてきた経験や学習した事が彼女のどこかに隠れているのだ。
ただ繭はマユコの中でどうなってしまったのか紬は気が気でなかった。
紬はマユコを教育する為に付きっきりになったので、バイトを辞めざるを得なかった。それでは生活していけないので、色々良くしてくれた大家さんには申し訳なかったがアパートを出る事にした。
「ツムギ、わたしたちどこにいくの?」
「私の故郷」
紬は急いでアパートで使っていた家財道具を全て処分した。そして最低限の荷物を持って紬の今は亡き母の家へ向かった。幾つも電車を乗り継いで鄙びた駅に辿り着いた。
遠くに連なった山々にぐるりと取り囲まれた此処は盆地のせいか十月になっても日中は恐ろしく暑い。見渡す限り畑と荒れ地が広がっており、人の気配は皆無だった。
「ツムギ、だれもいないね」
「そうね。マユコ、お腹空いたかな?」
「のどがかわいた」
「この先にお店があったはず──ほら、あそこ」
駅から伸びる農道の様な道を進むと、食料品や雑貨、更に農具まで売っている昔ながらの商店に辿り着いた。
「おばちゃーん、こんにちは」
紬は店の奥に向かって声をかけた。
少しすると日に焼けた顔に笑みを浮かべながら人の良さそうな年配のおばちゃんが出て来た。
「紬ちゃん、いらっしゃい。半年ぶりだね」
「うん。おばちゃん、彼女、親友のマユコ」
「おや、きれいな娘さんだねえ」
おばちゃんが顔を向けるとマユコは落ち着かない感じで紬を見た。紬は小さな声で
「マユコ、挨拶」
軽く背中を突いた。
「こんにちは。あの…ジュースありますか」
キョロキョロ狭い店内を見渡しながらマユコが聞いた。
「そんなに種類は無いけど、あそこの冷蔵ケースに有るよ」
マユコがジュースを選びに行くと、
「美人だけど何か幼い子供みたいだねえ」
おばちゃんが言った。紬は小さな声で
「彼女、病気なの。私たち暫くこっちで生活するんで、時々買い物に来るね」
と、告げた。
「うん、うん。何か困った事があったら相談に乗るからね」
「ありがとう。よろしくお願いします」
「ツムギ、わたしこれにする」
マユコがサイダーを手に戻ってきた。
「炭酸、大丈夫?」
「うん。これがいい」
紬はサイダーとおばちゃん手作りのおにぎりを買うと店を後にした。
「うっ、くちのなかが……ちょっといたい」
マユコはサイダーを含んだ口を手で覆った。
「だから炭酸じゃない方が良かったんじゃない」
「だいじょうぶだよ。ほらカンをふるとパチパチおとがして、しずかになるとのんでもいたくないよ」
「それって炭酸が飛んで、それじゃ…もうほぼ砂糖水だね」
二人が蒸し暑い風を浴びながら歩いて行くと、やがて左手に雑木林が見えてきた。その木々をを突っ切る様に小径が延びており突き当たりに古びた小さな家が現れた。
※ ※ ※
車窓の向こうは、すっかり夜の深い色で満たされている。
街の灯りは全く見られず先程まで浮かび上がっていた山の稜線も在るのか無いのか、ただただ藍色と墨を混ぜた色が広がっているだけで、私たちを乗せた電車が何処へ向かっているのか皆目見当もつかない。
「ここは、どの辺りなんです?」
私は紬さんに聞いた。
彼女は、
「うーん、何処って言えば良いのかな。幾つかの県境をうろうろしてる感じなんだよね」
腕を組んでうつむき気味に言った。