その4
四滴 四十年前──盛夏
海から戻った紬と繭は一緒に住むことにした。繭が時々不安定な状態になるのとお金の節約にもなると思ったからだ。丁度、紬のアパート契約が切れる時だったので繭の所に転がり込む形になった。
大家さんは人の良いおばあちゃんでこの事を黙認してくれた。バイトは紬が続け繭は辞めた。
「私、妊娠してるよね。今月生理が来ないし…やっぱりあの時…」
繭がお腹を押さえながら言った。
「海での事ね。水着の下の方が引き千切られてたから?」
「うん」
「でも、繭が海に沈むのが見えて私急いで傍へ泳いで腕を引っ張って…その時周りに人の姿無かったと思う。水着は岩か何かに引っかかたんじゃない。生理も遅れてるだけじゃないのかな」
「だけど、だけどね」
繭は紬の目を見つめて
「上手く言えないんだけど、あの時ね私の足の付け根辺りが急に熱い様な痛い様な変な感じがしたの。一瞬なんだけどね」
「そうだったんだ。分かった。で、どうする」
「病院には行きたくない。絶対行かない!」
精神的に不安定ですぐ感情的になる繭に、諭しながら言い含めるのは得策ではないと紬は思った。
「そう、じゃあ少し様子を見ようか」
「うん」
それからひと月程過ぎた頃
「繭、久しぶりに良い天気だよ。こっちにおいでよ」
このところぐずついていた空だったが、今日は真夏の青空を感じられて遠くの入道雲が眩しかった。
「紬、私、お腹出っ張ってる」
彼女は薄手のスウェットパンツのお腹のあたりを両手で抱えて見せた。確かに便秘や食べ過ぎといった雰囲気では無い張り出し具合いに見える。
「やっぱり妊娠かな」
「ちょっと待って。海に行ってからまだ一ヶ月ちょっとでしょ。今の時点で、そんなにお腹が出っ張るかな。妊娠初期って気持ち悪くなったり普段あまり関心のない食べ物が無性に食べたくなったりするって聞くわね。
まあ、必ずそうなるわけでは無いだろうけど……
繭のは妊娠の兆候らしくない気がするな。それより別の病気を疑った方が良いかも。私は近くの内科で診てもらった方が良いと思う。
ねえ、これから一緒に行ってみよう」
「絶対いや」
繭は布団をかぶり体を丸めた。このところ、こんな不毛なやりとりが何度も続いている。
紬は、繭のやりたい様にしてあげようと思った。なぜなら彼女に嫌われたくなかったから。
「繭…。分かった、もう病院へ行こうなんて言わないからご飯食べよう」
「うん」
数日後、紬がバイトから戻ると繭が久しぶりに窓を開けて夕暮れの風を浴びながら外を眺めていた。
「繭、今日は体調良さそうだね」
「風が気持ちいいの。あのね、いつも紬にばかり働かせてごめんね」
「やだ、何言ってるの。私は、こうやって繭と二人でのんびり過ごせる事が幸せなの。仕事だって全然苦じゃないし、今みたいに繭が寛いでいる姿を見られるのは本当嬉しい」
「ねえ、紬」
「何?」
「明日、手芸屋に付き合ってくれない?」
「うん、良いよ。何が欲しいの」
「細くてきれいな色の毛糸」
「わかった」
翌日、二人は商店街のはずれにある手芸店に行った。
「これが良いかな」
繭は直径一ミリに満たない細さのモヘアの毛糸を手にして店員に声をかけた。
「すみません、これに使うかぎ針はどれですか」
その様子を見て、紬はこんなに積極的な繭を久しぶりだなと思いながら見守った。
きれいな淡い色の毛糸を六個とかぎ針、それとぬいぐるみの中に詰める綿と小さな鈴を買い、
「早く帰ろう」
繭は足早にアパートへ戻った。紬も後に続いた。
「何を作るの?」
アパートに着くなり水色のモヘアをかぎ針で編み始めた繭に紬が聞いた。
「出来上がったらあげるね」
そう答えたきり無言で編み物に集中している。まあ、何かに熱中する事で沈んだ気持ちが払拭できるなら良しとするかと紬は思った。ただ、夢中になりすぎて寝食を忘れるのには困ったが、黙って様子を見る事にした。
翌朝、紬が目を覚ますと枕元に小さなてるてる坊主が置かれていた。
「かわいい。これを私にくれるの?ふわふわの毛糸だからちょっとぬいぐるみっぽいね。ありがとう。大事にする」
紬はそれを手のひらに乗せて優しく頬ずりした。
「うん。いつも私に優しくしてくれるから小さいけど感謝の気持ち」
繭が恥ずかしそうに言った。
海に行った日から三カ月程経った夜だった。まだ蒸し暑さは残っているが虫の声が聞こえている。
繭のお腹は西瓜がまるごと入っているぐらい大きくなっていた。
「紬、生まれそう。何かが下りてきたみたい」
繭が辛そうな苦しそうな声で言った。
「お風呂場に行こう。とにかく温かいお湯に入ろう」
紬は繭を抱える様に浴室に連れて行った。
本当に出産なのか定かではないが繭が「浴槽の中で生むの」と、このところ言い続けていたので彼女の希望通りにする事にした。
「私も浴槽に入って生まれた子を受け止めようか?」
紬は脱衣所で繭の服を脱がせながら聞いた。
「ううん。一人で大丈夫。浴室の扉を開けたままにして、そこにいて」
「分かった。ここで見守っているから」
繭は浴槽に入り縁に掴まると温かい湯の中で中腰になった。眉間に皺を寄せいきみ始めた。おでこや頬に汗がふつふつと浮いている。
紬は繭の正面の脱衣所の床に立て膝で身構えた。
十分、二十分と静かに張り詰めた時が流れた。
「あっ」
繭が声にならない様子で喘いだ。そしてしゃがみ込んだ。
紬が傍に行こうとすると
「大丈夫。そこにいて」
かすれた声で言いながら繭はゆっくりと立ち上がった。
その腕には淡い桃色の──微かに色味を感じるくらい淡い色をしたゼリーの様な生卵の白身の様な透き通った塊を大事そうに抱えていた。
「生まれた。紬、見て」
浴槽から洗い場に出て腕の中のゼリー状の塊を紬に見せた。紬は傍に行き透明なその子をじっと見つめた。よく見るとちゃんと赤ん坊の姿をしている。
透き通った小さな手を伸ばし何かを掴もうとしている様に見えた。そしてその透明な淡い桃色の赤ん坊はゆっくりと繭の頭に向かって這い上がり始めた。
繭はされるがままに佇んでいる。やがて頭頂部に辿り着いたその子は体を丸めてひとつの塊になると、今度は下に向かって繭の体を覆い始めた。
もう赤ん坊の姿ではなくベロンと伸びたスライムの様に見えた。
頭から足先までまんべんなく薄く覆い尽くすと、化粧水が乾いた肌に吸収されるが如く繭の中に吸い込まれていった。そして彼女は気を失った。
紬は急いで傍に駆け寄り繭を抱きかかえた。
※ ※ ※
私は三杯目の水割りをマドラーで回しながら
「繭さんは本当にその…透き通ったもの──赤ちゃんを生んだの?大きさ的にはあれだけど、おりものが大量に出たのでは」
にわかには信じられなかった。というか今までの話は全て現実味を感じられなかった。
「確かに…常識的に考えれば、あなたの言うとおりなんだけどね」
紬さんは人差し指で浮いた氷をくるくるしながら
「でも確かにあの透明な塊は赤ちゃんの形をしていて、小さな手が一瞬何かを触ろうと伸ばしてきたの」
そう言いながら、紬さんは壁に掛かっていた淡い色味のイラストの額縁を外して持ってきた。
「見て。綺麗でしょ」
その額に納まっていたのは直径二ミリ程のベビーパールを敷き詰めた物だった。
「パールだったんですね。とても綺麗」
私の感想に満足げに微笑んだ紬さんは、シルクの様な巾着袋を持ってきた。そして、額縁を裏返すと板を外し中のベビーパールを巾着袋にぱらぱらと移していった。
「あっ、綺麗に飾られていたパールをなぜ袋に?」
私は思わず聞いた。
「これはね、本来あるべき場所に返すの」
袋に全部移し終わった紬さんは、そう言って細い手首に巻かれたクロコダイルベルトの小さな時計をチラリと見た。
「京子さん、この後時間ある?」
私は全くのフリータイムなので、果てしなく何の予定も無い。と、答えた。
「もうすぐ十九時。まだ間に合うわね。ねえ、これから私と一緒に出かけてくれないかしら」
少しアルコールが回ってきたせいか二十歳そこそこの娘さんと会話をしている感じがしなくなっていた。声のトーンなのか話し方なのか年上の女性と話しているみたいだった。
「ええ。良いですよ。でも何処へ?」
「少し遠いところ。交通費は私が出すからお願い」
私が頷くと彼女はエプロンを外し厚手のコートを羽織り大きめのトートバッグを肩に掛けて
「貴重品だけバッグに入れてそれ以外はここに置いていって、夜は冷えるからストールとか持って。靴は──ペタンコね。OK。じゃあ出発しましょう。話の続きは追々移動しながらね」
私たちは最寄りの駅に向かった。
出不精の私は新宿駅迄は認識できたが、そこから先は何処に向かっているのか全く分からなかった。紬さんの後をただついて行くだけだった。車内は空いていたので私たちが腰掛けたシートの周りには誰もいない。
車窓の夜景は溢れる程の灯りの群集から徐々に暗がりへと変化して、微かに山の稜線を見てとれたので群馬か箱根か山梨か長野かそれとも岐阜なのか、とにかく海沿いでは無く内陸へ向かっているのかなと思った。
紬さんに行き先を聞いたが彼女は
「私の故郷」
としか答えてくれなかった。