その2
二滴
陽の落ちた空は薄曇りで空気はまだ薄ら寒い。見上げると少し濁った浅い夜空に沿道の桜の花が白く浮き上がっている。
「これからどうしよう…」
無意識につぶやいていた。今日で職場の契約が終了し明日から無職だ。もう一年継続してくれると思っていたが甘かった。五十代後半には厳しい世の中だ。
駅までの道のりをゆっくり歩く。線路沿いのこの道はそこそこの人通りがあって小さな店が並んでいる。
小ぶりな観葉植物や多肉植物を売っている花屋、胃を刺激するいい匂いを漂わすたこ焼き屋、海からかなり離れたこの場所で店を構えているサーフショップ、そして一瞬何の店か判らないくらい小さく目立たない看板のカフェ。
実は前からこの店がとても気になっていた。でもなかなか入る勇気がなかった。
『cafe KOSUI』と記された小さなプレートが掛かった木の扉があるだけで窓の無い、中の様子を覗うことの出来ない店だった。外壁の色は明るいベージュで、何となく落ち着いた雰囲気だが閉ざされてる感じは否めない店構えだ。アルコールメインの店なのかなと考えてしまう。
もうこの辺りに来ることも無いだろうから思い切ってここでコーヒーでも飲もう。そんな事を考えながら扉の前で二の足を踏んでいる。
意気地無いな、私。勇気を出して扉を押そうとしたら──勝手に開いた。いや、丁度店内の人が開けたのだ。
二十歳そこそこに見える髪の長い女の人、かなりの美人さんだ。サロンエプロンをしているからこの店の人かな。
「いらっしゃいませ。でも、ごめんなさい。今お店を閉めようと思って」
少しハスキーな声。
「あっ、あの前からここ気になってて、こちらの方に来るのも今日が最後なので寄ってみようかなと思って……。あっ、でも終わりならいいんです。こっちこそすみません」
ロングヘアのきれいな店員は微かに笑いながら
「せっかくだからどうぞ」
私を招き入れた。
「いいんですか」
「どうぞ」
その人は扉のプレートを外して外側の灯りを消した。
気になっていた店内はL字型のカウンター席だけでスツールが8脚の小さな空間だった。
正面の壁にはランチメニューが書かれていたと思われるホワイトボードが掛かっている。その横に淡い色味のイラストが収まったA3サイズ位の額が飾られている。
私はL字の角から二番目の席に腰を下ろしてコーヒーを頼んだ。
暖かな色味のライトが周りを照らしていて、なんか寛げそうな店だなと思った。
「お湯が沸くまで少し時間をくださいね」
カウンターの向こうでその人が言った。
「あの、店長さん?」
「私?ええ、そんなところです」
「お若いのに、すごいですね」
「いえ…」
彼女は少し困った様な顔をした。
お湯が沸いてコーヒーがドリップされるといい香りが漂った。
「お待たせしました。オリジナルブレンドです。ごゆっくりどうぞ」
アイボリーのシンプルなカップに少し大きめなソーサーで小さなクッキーが三枚添えられていた。ミルクやシュガーを入れずカップにゆっくり口をつけて啜った。香り高くて優しい味。
「美味しい。ホッとする」
思わず口をつく。
「ありがとうございます。当店最後のお客様に喜んで頂けて光栄です」
「当店最後ってあの……閉店するんですか?」
「ええ」
今日は『終わり』が重なる。こんなに落ち着いた店ならもっと早くから通えば良かった。
「初めて来た私が言うのも何ですけどこんなに居心地が良いお店を閉めちゃうのもったいない。常連さんがっかりしたんじゃないですか」
「そうですね。皆さん辞めないでっておっしゃって下さいました」
「ですよね」
「お恥ずかしい話なんですけど、調理担当が辞めちゃったんです。その人調理師免許を持っていたので、いろいろ任せていて。私、何の資格も持って無くて」
「私なんかが偉そうに言うことじゃないんだけど店長さんが資格取ったらいいんじゃない。まだお若いんだし……ごめんなさい。勝手な事を言って」
「お客さん」
「はい」
「私いくつだと思ってます?」
「二十代前半ぐらい、でしょう」
「そう見えます?」
「ええ」
「お客さん、こっちに来るのが今日で最後って言ってましたね」
私はうなずいた。
「私、この近くで契約社員として働いていたんだけど更新をしてもらえなかったの。契約満了の今日でクビになったんです。だからこっちに来ることももう無いわ」
「お客さん、ご家族はいらっしゃるの」
「えっ、いいえ、いない。両親は亡くなったし一人っ子だし。そして独身。別に孤独を感じた事は無いけど…」
なんか急に愚痴りたくなって
「頼れる人は誰もいないから明日から就活よ。私の年齢くらいになったら生活に余裕があれば終活を始めるんでしょうけど、自分はこれから先も一人で生きていくために就職活動しなきゃ」
初めて会った人に話す事では無いのに思わず胸の内を言ってしまった。
「お客さん」
美人の店長さんはカウンターを出て扉の前で一度立ち止まり、カチッと鍵を掛けてから私の隣に腰掛けた。
「お名前聞いてもいい」
私は頷いて
「内野京子です。内外の内に野原の野、京都の京に子供の子よ」
「京子さん。いい名前ね。私はね加納紬。加えるに納めるの加納でつむぎは糸偏に由って書くわ」
「紬さん。お若いからもっとキラキラした名前なのかと思ったら結構古風なんですね。素敵」
「京子さん」
彼女は私の目をじっと見つめると
「これから話す事は誰にも言わないで欲しいの。絶対に。約束してくれる?」
眼力に圧倒されて私は頷いた。
「あなたはさっきから私の事を若いって言うけど…」
「ええ」
「私が生まれたのは東京タワーが出来るずっと前なのよ」
「はい?スカイツリーの間違いでしょう」
「いえ、東京タワー」
「もしかしてからかってます?」
私はシミや小皺の無いキメの整った肌をした彼女の顔をじっと見た。
「本当なの。からかってないわ」
「それは信じられない。それが本当なら紬さんは私より年上って事になる」
「そうよね。信じられないよね」
紬はため息をついた。
「なんでこんな事あなたに話しちゃったんだろう。ごめんなさい。今の話聞かなかった事にして。あなたと初めて会ったのに、つい自分の隠してた気持ちを吐き出したくなっちゃった」
「紬さん。私、あなたの話聞きたいわ」
「ありがとう。長い話になるけど、いいかしら」
「ええ、聞かせて」




