9.タイムマシン
9.タイムマシン
僕は、またあの病院に来ていた。受付の看護師は珍しく手ぶらな僕を見て、少々驚いた、と言わんばかりの顔を一瞬浮かべた。病院内は僕と少数の看護師を除けば、廃病院そのもののようだった。これらから考えるに、今日は恐らく平日ということだろう。こっちに戻って来てから、曜日という感覚は跡形もなく欠如していた。せめて大学に行っていればマシにはなっていたものの、過ぎる日々に目印をつけることなど、僕では無理そうだ。今のところは。
受付を済み、待合スペースで座っていると、壁に固定されたテレビと目が合った。それは元から僕のことを待っていたかのように、視線をこちらに送っていた。
そこに映っていたのは、高校野球だった。昼時から少し遅いこともあって、終了間際の九回裏まで試合はきていた。一点差の試合。ここを守れなければ先攻のチームは負け、その後に映る姿は容易に想像できた。バットを持つ少年の汗が太陽に照らされ煌めく。一筋の希望が宿るように。会場も実況も静まる。投手の首が打者の方へと向く。次の瞬間、彼の頭からつま先まで神経をすべてを稼働させた、全身全霊の球が放たれる。人からあんな速い球が投げられることに驚く間もなく、一つの希望だったそれは、もう一つの希望に打たれた。それまで会場に張り巡らされていた緊張が一気に声援に変わる。爆竹のように実況の声と歓声は一瞬で威力と勢いを増す。千載一遇のチャンスをものにした彼は目に涙を浮かべながら、ベースを噛み締めるように踏んでいく。反対側では、彼のチームメイトとコーチが満面の笑みで彼を迎え入れようと準備をしている。雄叫びをあげる者も、涙つきの笑顔で抱き合う者も、それぞれが青春なのだろう。騒々しい歓声に包まれながら、彼はその輪の中へと入っていく。カメラは相手チームを二、三秒映すと、そこからは永遠と彼らの熱狂を放送していた。観客も涙、コーチも涙、チームメイトも涙。そこに写っていたのは、僕が味わったことのない涙だった。思い返してみれば、僕の涙はいつも負の感情の塊でしかなかった。
僕はこれからの人生で、正の感情の涙を流すことが果たしてあるのだろうか。
どちらにしろ、涙は人間の一番の友人であるということには変わりないだろう。古くから一緒にいて、悲しい時も嬉しい時もいつもすぐ近くにいてくれる。彼らに気付かされることもあるし、彼らから学ぶこともある。
そこまで言って、ロビーに無機質な機械音が流れる。それを聞き、受付まで行くと、彼女が眠る病室を教えられた。いつも来ていたので、特に聞き耳を立てる必要はなかったが、今日はなぜか、彼女の声を聞き逃すことはなかった。
今から僕がすることは側から見たら正当化されるものではないだろう。でもそれでいいのだ。周りから指をさされ、罵倒や叱責を僕は甘んじることなく受け入れよう。咲良が僕のヒーローであったように、今度は僕が彼女のヒーローになる番だ。彼女の終わることのない悪夢を終わらせる。それが僕にとっての、受け継がれたヒーローにとっての最初で最後の役目だ。僕がこの数年間で関わったすべての人に感謝したい。
いつもの病室に入ると、そこにはやはり異様な光景が広がっていた。何人かの長い旅が終わったのだろう。通うごとに、空きベッドの数は来るたびに増えていった。
彼女のベッドが空いていなかったことが唯一の残念なことだった。彼女はまだそこで、眠りについていた。いつ見ても、もう起き上がらないなんて様子は一切なかった。本当に彼女は白雪姫のように美しかった。彼女の横に行き、特に意味もないのに静かに椅子に座る。彼女の顔をこのままいつまでも眺めていようか。
記憶がどうであれ、彼女は正真正銘、僕の初恋の人であることに変わりはない。僕を救ってくれた恩人であり、ヒーローだ。これは別れではない。なぜなら僕たちは出会っていないのだから。始まりがなければ終わりも必然的にないものとなる。嘘であり、本当の物語。
なんとロマンティックな話ではないか。
涙が溢れないように、笑顔を作って見せる。きっと彼女はこんな僕を揶揄うかもしれない。それでも、嬉しそうにする彼女の顔が思い浮かんだ。今なら、彼女と顔向けしてもいいだろう。
勇気や決心、そんなものは必要なかった。
僕は彼女に繋がれていた装置の一つのレバーを下に下ろした。僕に下げられたそれは、微かな音ですら出さなかった。それが何なのかは分からなかったが、彼女の身体に対する何か重要な役割をこなしているのか分かったからだ。
僕は彼女を起こさないように、そっと唇に口付けする。生涯の愛を誓う新婚の夫婦のように。白雪姫を願う王子様のように。悲劇のヒーローを救うように。
病室を出てからしばらくして、先ほどまだいた病室から心肺停止を知らせる機械音が鳴り響いているのを聞いた。
僕は残酷で儚く、美しい彼女の人生に終止符を打ったのである。
その夜、僕は夢を見た。今回はいつもと違い、初めて意識があり、自由自在に僕を操ることができた。意思で動く、ということを現実では本能的に行っているが、夢となると、他人の体を操作しているように思えて可笑しい。妙に馴れ馴れしい体と意識が協力し合っていると言ってもいいだろう。目の前はやけに急な階段があった。こうなると、場所は一つしかない。それを登り切ったところにいる人物まで容易に想像できた。そこまで分かることができたのに、これが現実なのかとか、現実だったら良いのにと思うことは決してなかった。そんな陳腐なことなんてお門違いすぎるほど、夢は美しい。現実になるならなんて思うくらいだったら、一分でも一秒も、その素晴らしさに心酔し、謳歌した方が、より良いものになるから。遊びも恋も、先にあることを考えないから幸せなのである。今この瞬間を噛み締め、幸せを受け入れる準備が出来すぎているから、先を求めようとはしない。それはしばしば、人間の欠点として挙げられることが多いが、今の僕は違った。人間の最大の長所だとすら思ったほどだ。
『幸せは無くしてから気付かされる』と『幸せに自ら心酔し、それを幸せとさえ思わないほど、満たされている魔法が解ける』ことは似て非なるものだ。
幸せが逃げてしまった後、僕たちは改めてそれを幸せと認識することになる。甘く官能的なその魔法は、また僕らに欲求を持たせようとしてくるのだ。でも、それでいいのだ。
幸せの後に来る感情は、絶望ではなく、一種のノスタルジックだ。それを懐かしく思い、もう手に入れられないからこそ、それを大事に心の中に閉まっておこうと思う。幸せが具現化される瞬間はきっとそこなのだ。幸せが具体的にどういったものなのかはまだ分からないけど、無くしてから気付かされるから何だというのだ。気付いたのなら、それを大事に心のフォルダに挟んでおく、一番重要なところを僕は忘れていたのだ。その行程を除いてしまったら、それを幸せと呼べる資格は甚だ与えられないのだ。
階段を一段一段と大切に登っていく。オレンジ色に照らされた空は、オオカバマダラをこれ以上ないほど綺麗に照らしていた。彼らを羨ましく思う。光に純粋だからだ。僕は今まで、暗闇の塊のような存在だった。僕が彼らの一員になっていたとしたら、光を受け入れることができただろうか。
数段登ったところでそれまで姿を隠していた夕日が現れる。それに照らされた一人の後ろ姿も。
そこにいたのは咲良だった。彼女は最後に会った時の姿をしていた。無作為に切られた髪は、少なくとも僕にとっては素敵に見えた。彼女はいつもの悲しい笑顔でこちらを見て、柵の上に座っている。今は途切れの悪い柵が、悲しそうに見えることはなかった。
僕は誘われるようにして、彼女の隣に座る。ついさっき殺した相手と時間を共有することは、事実だけを述べれば奇妙なものだろう。
彼女が何か言おうとして、僕はそれに被せるように言う。
「髪、似合ってるよ。」
「えへへ。ありがとう。」彼女は小学生のような無邪気な笑顔で髪を掻いた。僕たちはお互いに言いたいことがありすぎて、それらをどう処理して、どう消費したらいいのか分からなかった。妙に間切れの悪い沈黙が二人を包む。そんな状況が面白かったのか、僕ら二人は笑い合う。
「最後のお別れを言いに来たんだよね。」
「ああ。でもなんて言ったらいいか今解答を探してるんだ。一番この場所、僕らに適したものを。」
「私もそう。一つ浮かんだから試しに言ってみてもいいかな。」
発言の一つ一つが、清水咲良のものだった。僕はそれを大切に持っておかなければいけない。
「もちろん。」
数秒間を開けて彼女は呟いた。
「人殺し。」
彼女は笑顔から意地悪な表情に切り替え、僕の脇腹を肘で小突きながら言う。
あまりにも端的に伝えられたそれの面白さに二人はまた笑う。
「そうだ、僕は人殺しになったんだった。世界で一番愛する人を手にかけ、死体にキスをした、おかしい奴。」
「私はそれを喜んでる、もっともっとおかしい奴。」
僕らは目を合わせる。何かを隠すように覆い被せていた笑いという布が抜け落ちて、それが露わになる。それが何なのかは、言葉では説明できないほど、複雑な感情の集合体だったことに間違いはなかった。お互いのそれを互いに感じる。布を二人で作り上げるように僕らは抱き合う。
手は僕の肩と脇腹をこれよりないほど、強く固く締め付けていた。僕も同じように手を強めた。できるだけ彼女の存在をこの手で長く感じていたい、そんな気持ちもあったのだろう。指先まで力が入っているのを感じた。
数十秒そうした後で、彼女が言葉を発するために唇を開く音が聞こえた。
「私がこの世からいなくなったということは、記憶の栄養を与える存在がいなくなったということ。心配しなくても、君は私のことを思い出せなくなるよ。」
「それは良かった。」
「嘘、私を忘れたくないって、千秋くんの体が言ってる。」
何を着ていたかは分からないけど、彼女の顔がより深く僕の服に埋まる感覚がする。彼女も、唯一の時間をそっと堪能していた。
「バレてたか……」
「えへへ。」
彼女にはやはり敵いそうにない。僕は負けたまま、彼女を送り出すことになるのだが、それはそれでいい気がした。それどころかなぜか清々しい気持ちにまでなった。嬉しささえ感じた。
「私はね、千秋くんがとってくれた行動がとても嬉しかったんだよ。私を殺す。それがヒーローとしての最後の役目。」
彼女は僕を身から離し、感情が溢れ出てしまわないように淡々とそう言った。
本当に終わってしまう、直感がそう言った。何か言いたくて、最後に想いを伝えたくて、言葉が頭を埋めては捨てられていく。慰めの言葉でもなく、別れの言葉でもなく、どの感情でもない、そんな言葉が今は必要だった。しかし、大事なのはそこではないと思うと、僕の気持ちは軽くなっていく。このままどこかへ飛んでしまいそうなほど。一度深呼吸をして、僕は言う。
「ねぇ、」
「指切りしない?」
「そうだね」
そう言って僕らは顔を近づけた。
僕らは人差し指を優しく絡めた。
目を開けると、そこは僕の部屋の天井だった。
『さよなら』あの時言えなかったそれを今回はしっかりと伝えられたような気がした。
夢のような、ロマンティックな五年間の旅は終わりを告げた。
今日は良い日だ。一般的に言えばだが、こんなに快晴の日はきっとそうそうないだろう。気温まで適しているとなると尚更だ。こんな休日は二度と来ないだろう。目の前では二人の男の子が駆け回っている。彼らの勢いにつれて進路を変えた花吹雪は最後の息吹を吹かれたように宙を舞った。彼らを見ると、まだ幼かった頃を思い出す。思い出すと言っても、明確な記憶があるわけではない。それでもなぜか、それがつい最近のことのように思い出すことができた。花見というのは、なぜ桜が散る度に勢いを増すのだろう。人々はその姿を見て美しいだの、綺麗だのを言うが、桜からしたら、自分が死にゆく姿を崇められるのは、皮肉なことでしかないだろう。人々は散りゆく姿を見るだけで足元にある汚れたそれを見ようとはしない。屍の上に立ち、堕ちていく屍の様子を嬉々とした様子で見守る。人間は本当に僕が思うように残酷な生き物なのかもしれない。
手元の文庫本を抑える指の力が弱まり、春の風はそれを見逃すことなく、意地悪に力を強めて見せた。僕が読んでいた頁は時の流れのようにすぐに次へ次へと移り変わっていってしまう。僕はそれを止めようとはしなかった。左上の数が段々と大きくなっていく。人生と同じように、それは過去に戻ることは決してない。やがて最後の頁に到着してしまった。この本の「僕に読まれる」という役目と人生は儚く終わってしまった。元々、熟読しようと購入した本ではなかったので、別に良かったのだが。本を読んだのはいつぶりだろうか。中学校の朝読書かもしれないし、小説に限らなければ、参考書が一番最近だろうか。とは言っても、それらは頭の片隅に浮かんでいる断片的な記憶であり、それらがとうの昔に過ぎ去った記憶であることも確かだ。
最後の頁は、真っ黒に塗られていた。そこに書かれてあった四文字『おしまい』の文字は、それだけで、印象的なものとなった。今の時代、小説の最後におしまい、だなんてなんと楽観的な小説だろうか。僕は五分の一程度しか物語の進んでいないその内容に、少し興味を持った。それがいつまで続くかは分からないが、少なくとも今の時間は楽しめそうだ。
僕は気を取り直し、元いた頁に戻る。桜並木のベンチに座っているのは見渡す限り僕しかいなかった。一人で花見をしに来たわけではない。なんとなくってやつだ。それがどれだけ投げやりな発言なのかは重々分かっているつもりだ。それを踏まえて、なんとなく。
この五年間は、まるで小説のようだった。嘘だけれど、それでも真実の物語。それを、ただの創作ではないか、と批判する者がいるだろう、要するに「小説が嫌いな人」だ。僕は本自体、あまり読むことはないが、それでも小説というのは素晴らしいものだと思う。無限にあるそれの中には稀に、読者の人生観をも破壊しつくすような爪痕を残す物語もある。今回の僕の旅はきっとそんなとこだ。実際、僕と咲良は、僕が今生きている世界では何もなかったのだ。それでも、なかったと言ったら嘘になる。ページをめくった先で、僕と彼女は、まるで本当にそうだったように、親密な関係になった。恋人とか家族とか、そんなものがちっぽけに見えてしまうほどの。
二人で駆け抜けてきたページを一ページずつ懐かしむようにめくっていく。
読み返すと、それは愛おしくなるほど煌めいていた。今まで見てきたどんな星よりも、月よりも、あの時に見たオレンジ色の夕日よりも。
彼女と出会って、僕はたくさんのことを学んだ。
その数々は、今でも僕の中に大切に収納してある。これからの人生できっと役立つだろう。
僕は彼女の自殺を知るため、僕の中の蟠りを解消するために過去へ戻った。だけど今の僕はどうだろうか。心の中に渦を巻いていたどす黒い何かは取り除けたのだろうか。結果から言うと、答えは「ノー」だ。これからもずぶずぶと引きずっていくつもりだ。彼女との想い出は僕の中から一欠片、また一欠片と崩壊を始めていた。それが終わらない限り、僕は咲良を忘れることは決してない。どす黒い何かと僕は未来を歩むことになるのだ。なんと幸せなことだろう。せっかくの機会だ、彼女との記憶をどこかにまとめておこう。ざっと、小説なんかに。
過去に戻ることで幸せになる、なんてことは僕以外の誰であってもないだろう。''克服''は''幸せになる''こととイコールになるとは決して思わない。それが生む災厄も僕から言わせてみれば、全て美しいのだが。
『過去に囚われる』一見、人聞きの悪い言葉のように思えるだろう。しかし、どんな言葉でも、思想でも、負の面しか持っていないものはないのだ。
過去に囚われそうなら囚われればいい。例えそれが、泥沼のように深く絶望の淵であったとしても、喜んで飛び込めばいい。そこから見る月はきっと、地上から見あげるそれより、もっとずっと美しく見えるだろうから。
目が覚めるまであそこの空間で一緒に眠っていた人達はどうなったのだろう。ある人は前を向き、これからの人生を大切に過ごすだろう。またある人は、過去の欲望から逃れることができずに、自死の道を選ぶだろうか。シュレディンガーの猫のようだ、と思う。戻ってみるまで、どちらに転ぶかは分からない。確率は二分の一だ。あなたは箱の中に入りたいか。そんな残酷で、胡散くさい落とし穴に僕はまんまとハマってしまった。後者にならなかったのが、唯一の救いだ。
過去に戻って証明されたことがあるとすれば、決して過去と現実が交わらなくても、僕らは確かに、固い愛で結ばれていたということだ。他の誰にも割くことのできない、糸一本で結ばれた、強くて優しい愛。それが僕と彼女の間には確かに存在していた。それは彼女がこの世から消えても、彼女とこの世で会話を交わすことがなかったとしても、決して変わることのない事実だ。愛情を確かめる術がなくなってしまったことを、とても残念に思う。おとぎ話のように、僕のキスによって彼女が息を吹き返したら、古びたライトのように、その希望が弱々しくも、徐々に点滅しだしたら、僕はどれだけ幸せだったろう。しかし、消えかけていた光が自らを取り戻すことはなかったのだ。むしろ僕が消滅させてあげた、と言った方が正しいだろうか。一つの光は、受け継がれた光で一つの闇の塊を照らし、確固たる光をくれた。託された光がしてやれることと言ったら、消えかけの電源を切ってやることしかない。それが、彼女を救う最善の方法であるということを信じて。''愛情を確かめる''なんてこと、僕らにはもはや不必要なのだろう、もう迷うことはないのだから。結ばれる線はもう二度と、解けることはないだろうから。例えそれが偽物の愛でも、それによって証明された本物の愛が僕らの中には確かに存在していたのだ。
春の空気を肺に思い切り詰め込む。それが最大に達したところで、一瞬のうちに体を駆け巡り、二酸化炭素に変換されたそれを吐き出す。春の澄んだ空気にまた一人分の濁りが吐かれる。それを何気ない行動のように思うだろうが、今の僕はそれですら、幸せだと感じるほどだった。
この世界は見方によって、一見救いようのなく、地獄を煮えくり返したような絶望でも、儚く、悲しさの中に一筋の美しさを大切そうに抱える希望に見えることがあるだろう。そう思うことができたのなら、君はきっとヒーローの素質がある。光を与えるから是非受け取って欲しい。僕のささやかな願いだ。そして、その光を大切に持っておくんだ。大事な人ができた時に、それを共有するためにね。僕はそれを『幸せ』と呼ぶようになった。全て彼女の請負だけどね。決して明るくなくてもいいんだ。悲しさの中に一滴希望を混ぜることによって人生はとても美しいものになるだろうから。
大事に、大事に使って欲しい。彼女がそうしたようにね。
不意に、春の風が力を増し、先ほどまでひらひらと儚く少しずつ舞っていた花びらの勢いが桁違いのものになった。僕はもうこの世にいない誰かと目を合わせるように、ふと見上げる。僕だけに降り注がれたそれらは、その時だけ、僕の存在を世界から隠してくれているようだった。
僕は舞い散るさくらに、いつまでも、いつまでも身を寄せていた。
この街にも夏がやってくる。
今年の夏はどうやって過ごそうか。
嘘と矛盾で包まれた優しい愛の物語に別れを告げ、真実の物語が、今、始まるのである。
自殺した幼馴染を救おうなんて馬鹿げてる。
それでもそれは今も僕にとって大切なものである。