7.正義のヒーロー
7.正義のヒーロー
空はすっかり暗みを帯びてからは朝日が迎えに来るまで明るくなることはない。『夜は夜明け前が一番暗い。』どこかでそうした言い回しを聞いたことがあったが、今とさほど変わるものがあるのだろうか不思議だった。気持ち的な問題なのだろうか。小さじ一杯のように小さな暗さの差なのか。
僕はそんなどうでもいいことを彼女の話を聞いたあとで思った。
咲良の話を僕は黙って聞いていた。彼女は自分の人生について事細かに教えてくれた。その壮絶さと膨大さに疑おうとはしなかった。もしこの話が全て嘘であっても、甘んじて受け入れよう。これは嘘と矛盾で包まれた優しい愛の物語なのだから。
そして彼女は言った。
「そんな時に私の目の前に現れたのがね、千秋くんなんだよ。実際はいつもそこにいたのに私が気づかなかっただけだった。」
そこから僕に声をかけるなんて発想、僕が逆の立場だったら決して起きていないだろう。それだけ純恋の存在が彼女の中で強く影響を与えていたのだろう。
「せっかくだから教えてあげる。君と会った最初の週ではね、君は自殺してしまったんだよ。」
自慢話をするかものように高らかに言った。
「それだけ、小心者だったんだね、僕は。」
「今は違う、けどね。」
その一言が何よりの慰めになった。母親の手で頭を撫でられるのと同じような感覚だった。遠い昔に一度だけされたことがあるのを記憶の中に保存していた。彼女の手は温かく、優しかったのだろう。
「その出来事が、私にある決心をさせたの。」
言うまでもなく分かっていた。彼女は悲劇のヒロインであり、それを救うヒーローでもあったということだ。
「私が、この人のヒーローになんなくちゃいけないんだって。純恋が残してくれたものを蔑ろにしてはいけない、次は私の番なんだなって。」
「君はほんとに良い人だ。」
咲良はえへへと言った。それもきっと純恋が残してくれたものなのだろうと思う。彼女が天国で笑ってくれていることを願う。
咲良は、とことん救われなかった人間だった。世界から投げ出され、神からは見捨てられた。終いには人からも。それら全てを復讐し、跳ね返すことだってできただろう。しかし、一人のヒーローと出会うことによって、今度はそちら側になろうと決めたのだ。信用なんて彼女の中ほ''彼女''にとっては単なるまやかしでしかなかっただろう。しかし彼女はそれと向き合い、信用を信じた。人は変われる、彼女は自分の身を持ってそれを体現したのだ。そんなこと僕には決してできないだろう。自殺した、とされる一週目の自分を恥じた。同期は何となくだが分かった。本人だからこその感覚で、言語化することはできない何かが僕を襲ったのだろう。
「純恋には、返しても返しきれない恩があるな。」
悲しそうに彼女は言った。やけに綺麗な星が僕たちを見つめ、照らしていた。その夜は、プラネタリウムのようでさえもあった。
彼女もそう思っただろうか。数分間の間、僕たちは黙って星を眺め続けていた。
「さてと、私の話ばっかりだとあれだから、君の話も聞かせてほしいな。」
「現実の君の話をね。」
読み聞かせを待つ幼児のように、丸い目が僕を見つめていた。最初は気が進まなかったが、圧に負けてしまった。
僕は、まるで廃人のような僕の人生を語った。咲良の死を知った時、借りた映画を見ながら泣きじゃくったこと。大学に行ってからも、それは抜けず、自堕落な生活を送ったこと。こんな僕も無精髭が生えたこと。過去に戻ってきて、完全に咲良を出し抜いていると思い込んでいたこと。時折見せる涙が、自殺のヒントになっているのではないかと思っていたこと。指切りを一週目より長く続けてしまったこと。その他にも、人生における頭のてっぺんからつま先までを語った。
彼女は時折くすくすと笑っており、そんな顔を見ながら話すのは秘密を共有してるみたいで楽しかった。それまで偽物の幸せだったものが、たった今、本物に変わった気がした。勝手な思い込みかもしれないが、そうであってもよかった。
「よくここが分かったね。」
「成長したというか、させられたというか、そんな感じ。」
「誰に?」
ここから先は答える代わりに微笑みを返した。世の中には知らない方がいいこともあるってやつだ。にしても間宮透子はいったい何者なのだろう。僕の話を聞いて、誰なのかは検討ついたはずだ。しかし、それは言わなかった。僕に変わってほしかったんだろう。彼女が叶えられなかった願いを僕なら叶えてくれると思ったのだろうか。今こうして僕が本物の愛を見つけ、過去の自分を清算してやることこそが、彼女が望んだことなのかもしれない。
そんな考えと一緒に、僕はまた微笑んだ。
しかし事実だけを見れば喜劇でもなんでもなかったのだ。彼女をこの空間から出すことはできないし、彼女はこれからも何週と同じ日々を辿っていくのだろう。僕がいれるのは一周のみで、その一周も、そろそろ終幕を迎えるころだ。
「僕が現実に戻ったら、君はどうするの。」
口を滑らせてしまったことに少々後悔したが、いつかは聞かなければならないことだ。彼女にハッピーエンドは用意されてはいない。
「実はね、それが分からないんだよ。現実の千秋君と会いたいっていう私の欲望は満たされたし、それが終われば二度とここへは帰ってこれないことも知ってる。」
「ということは、君はありもしない出来事を七年間を何週もすることによって僕の心に記憶の欠片として埋め込んだわけだ。」
僕はそれに人生を狂わされてきた。もし彼女の記憶がなければ、幾らかマシな生活を送れたはずだ。しかし、彼女を恨む気にはなれなかった。むしろ嬉しいほどだった。
「してやられたな。こんな自分勝手で素敵な女性のことを一生覚えておくのは嫌だから。」
冗談混じりに僕は言った。彼女は涙を浮かべながら笑い、僕を頭で小突いた。僕も笑い、彼女と身を寄せた。
「ごめんなさい、私は自らが撒いた種であなたを傷つけてしまった。身勝手だよね。それでいてヒーローだなんて。」
「そんなことないよ、君は正真正銘正義のヒーローだ。」
「そっか、良かった。」
涙が彼女の頬を伝った。
「強がってたけど、何週もするのはやっぱ辛いんだよ。築いてきたものが全てなくなっちゃうから。今でもね、突然現代の私が死ねばいいなって思ってる。」
悲痛な叫びを聞いた気がした。小さく、優しい声だったが、そこからプラスの感情を感じることはなかった。
「でも、私は大丈夫。また千秋くんを救いに行くよ。」
笑って見せたが、悲しみを隠しきれていなかった。彼女はどこまでも馬鹿な人間だ。救ってあげたくなるほどに。
直後、僕は彼女を抱きしめていた。彼女が僕のヒーローでいてくれたように、僕も彼女のヒーローでいたかった。
彼女の全てを肯定するように、そっと、優しく、掬い上げるかのように抱きしめた。
手が震えたかと思うと、彼女は何かが壊れたように声を上げて泣いた。恐らく、今まで耐えていたすべての感情が溢れたのだろう。幼子のようにそれを得意としてるように、彼女の泣き声は辺りに響いた。彼のそんな声を聞いたのは初めてのことだ。一晩中泣き止むことはなかった。絶望、喪失、希望、愛、それら全てが込められた彼女の叫びはいつまでも続いていた。
僕らは朝日を見た。一緒に夜を明かすことができるのはあと何回あるだろうか。彼女の涙で濡れたシャツもその頃には乾いていた。
咲良は僕の肩に、僕は彼女の頭に、互いに身を寄せていた。寄り添うように、お互いの存在を守るように。
「これからどうしようか。」
夜明けを見ながら思い出したように彼女はそう呟いた。昂りは収まっていたのか、彼女の言葉からは、勢いとか、元気とか、そういった類のものは感じられなかった。泣き疲れてしまったのか、やけに冷静に、呼吸をするように言った。
「幸せになろう。せめて今だけでも。」
「千秋くんのばか。私が忘れられなくなっちゃうじゃん」
「じゃ、ここから飛び降りるか。」
半分冗談で、半分本気で言ってみた。今この瞬間だけでも幸せの絶頂にいることを噛み締めながら。
「それはだめ。あと一日くらい一緒にいさせて。」
彼女が甘えたことは今までなかった。彼女が何かお願いしたことも。会話で優位に立っていたのはいつもの彼女の方で、僕はそれに引っ張られるような感じだったのだ。しかし今だけは、瀕死の草食動物のように弱く見えた。打ち明けたことのない思いを吐き出したときの反動なのだろう。心中を強制しようとしたら、彼女はすぐ折れるだろう。たとえそれが何の解決にならなくても。
僕らは何も話さずに街を歩いた。行き先は言葉を交わさなくても分かっていた。
そこから咲良の家まではそこまでかからなかった。
どうやら父親はいないようだ。僕らはまだ身を寄せていた。周りから見たら、それはよくある恋の戯れにしか見えなかっただろう。もしくは見せつけか。しかし僕らは、こう見えてもできるだけ互いの欲求を抑えていたほうだと思う。途中ゴミ出しに来たであろう、中年のエプロンを腰に巻いた主婦に白い目で見られたが、僕らはそんなこと気にする暇もなく、身を寄せ合うことに集中していた。
彼女の部屋に入り、僕らは本物の愛確かめ合った。それは決して刺激的なものではなかったし、強烈なものでもなかっただろう。しかし、それは僕らにとって、限りなく幸せだった。お互いにキスをし、手を絡め、抱き合った。できる限り、彼女を感じた。これ以上幸せな空間は、僕ら以外のだれも経験できないだろう。どんなに刺激的な性交渉でも、どんなに感動的な愛の告白でも、決して得ることのできない時間、ほんとうに、ほんとうに幸せだった。
ベッドの下には二人の抜け殻が転がっていた。
疲れからか、二人ともいつのまにか眠りについてしまった。僕の胸には彼女の顔がうずくまっており、時折流す涙を、肌で感じた。温かかった気もするし、冷たかった気もする。
目が覚めた頃には、日が沈みかけていた。最後の日というのに、貴重な時間を無駄にしてしまったと思ったが、それもいい気がする。彼女を抱きながら寝る、なんてことは自分でも予想していなかった。僕が目を覚ました後は、彼女を起こさないように、身を離し、寝顔を眺めていた。彼女はほんとに綺麗だ。他人からは順風満帆な人生を送った少女に見えるだろう。しかしそんな美貌からは考えられないほどの不幸を運んできたということだ。なんと皮肉なことだろう。
布団から這うようにして脱出する。彼女の唇にもう一度口づける。きっとこれが最後だろうから。
今彼女の父親が帰ってきたら、きっと僕は殺されるだろうな、と思う。しかし、心配事の八割は起こらないと言われるように、僕の少しの不安もすぐ解消されることとなった。外は部屋から眺めた以上に暗がりに突入していた。明と暗がこれよりないほど綺麗なグラデーションを描いていた。僕は真っ直ぐ家路につかず、寄り道をした。いつものあの場所に。
そこから見える景色は、昨夜とは違う意味で素敵だった。というより、なんだか懐かしい気がした。この景色をもう見ることもないだろう。僕は画角を広げ、それを目に焼き付けた。
彼女が埋めつけた記憶に、鮮明な記憶は確かになかった。そんなの遠くの昔に消えてしまったが、この素晴らしい景色がメモリを埋めていたとは到底思えない。二度と忘れることのないように、色褪せることのないように、視界の端から端まで意識を集中させた。
思えば、長い五年間だった。結果として、現実での僕の希望を叶えてあげることができたのかは最後まで分からなかった。むしろ、元から希望なんてものがあったのかさえ覚えていない。ただ、彼女との日々をもう一度(結果的に言えば一度目なのだが)味わいたかっただけなのかもしれない。
タイムマシン、よくできたものだなと冬の夜風に当たりながら感心した。僕らは愛に操られ、愛に吸い寄せられてしまった。ある意味、偽愛の奴隷だった、と言うべきだろうか。しかし今、その主人の正体を見破り、本物の愛を見つけた。彼は僕らを束縛せずに済んだのだが、制限を設けた。一日という短い短い期間だ。結果、僕らは体を重ねることしかしなかったわけだ。思わず笑みが溢れた。
『幸せは失くしてから気付かされる。』と僕は言った。あの頃は幸せを憎んでいたのだと思う。いつも幸せは僕から逃げてしまうものだと。
しかし今になって思うのは、逃げているのは僕らのほうだったということだ。僕が現実ではないあの日、真実を知ることから逃れたから、今こうしてここにいるのだ。あの頃の逃亡には感謝してもしきれないな。過去があって今があることのように、過去の僕が自分を成長させてくれた。すべての物事は見方によって幸か不幸かが大きく変わる。今ではすべてが懐かしく感じる。
僕だけがこうなることをとても悲しく思う。咲良はまだ鳥籠に囚われた惨めでひ弱で、美しい女性だ。今日が終われば、彼女はまた違う僕を救いに行くのだろう。根暗で最底辺である僕を笑顔で迎えに行く。彼女はそれを喜んで引き受けるのだが、心の底では辛いはずだ。将来なんてない自分と、何も知らない彼。それが迎える結末はどんなストーリーテラーでも超えられぬ悲劇だろう。考えれば考えるほど、気持ちは重さを増していった。どうにかしてあげたいという気持ちと、どうしようもできない気持ちとで、せめぎ合う。
もしこれが現実なら。明日がやってきたら。そう思えば思うほど、本来の明日の情景がより鮮明に浮かんでくる。多方面に視野を広げれば広げるほど、僕の心の拠り所は段々と狭まっていった。色々な感情に押しつぶされる前に僕は思考をやめることにした。今目の前の景色に集中しようと、半ば強引に、深い溜息をついた。
何時間ほどそうしていただろうか、つい先ほどまであったはずの景色はそこにはなかった。冬の空は夏と違い、日によって気分が変わりやすいらしい。昨日見えた星々は僕から隠れるように姿を現さなかった。まるで僕の心模様を見透かし、映し出しているように思われた。空を伝って僕という存在を日本中に知らしめている、トゥルーマンにでもなったかのようだ。
しばらくして、僕は帰路についた。静かに、何も考えずひたすら歩いた。感情が先走り、彼女に会いに行ってしまうのを阻止するために。このボーダーラインを超えたらきっと辛くなるだろうから。自分自身を諭すように、行く当てもなく歩いた。彼女は今頃どうしているだろうか。消えてしまった僕のことで風船のように頭を膨らませ、涙を堪えるのに必死だろうか。それとも、昨日のように無邪気に泣きじゃくっているだろうか。どちらにしても僕が考えれば考えるほど苦しくなることに差し支えはない。彼女が今も長い眠りについていることを願う。
用もなく町の大通りに寄った。特になにもないこの季節でさえ、町には少なからず人気があった。もうすぐ来る春に備えて、新生活や、引っ越しなどの看板が増えていた。この時期になるといつもこんな感じだ。五年間で目の凝らしようは増していたようだ。
ある店に目が止まった。古びた本屋だ。そこに来たことはないはずなのに、なぜか慣れ親しんだような、懐かしいような、そんな気がした。小さい店だったが、僕の前にそり立つ壁のような本棚はそれだけで圧倒された。
数分ほど当時の本を眺めてから、店を出る。自動ドア内での暖かさは夢から醒めた時のように、失われた。コートを着ていても身震いするほど寒いその町が春を迎える日はまだ遠くなりそうだ。
帰宅するサラリーマンの流れに逆らうように僕は帰路につこうとしたその瞬間、僕の足は脳からの停止信号を受けた。
視線の先には、女の子が立っていた。
大人びた顔立ち、華奢な体、無作為に切った短い黒髪。
彼女と目が合い、僕は磔に固定されたように空間に囚われる。
彼女は人混みを掻き分け、僕の下に歩み寄る。
千秋くんのことが好きです。
私と、本物で永遠の愛を誓ってください。
彼女は悲しそうな笑顔でそう言った。
波のように人の流れは過ぎていく。
僕は、目の前に差し出された小指をしっかりと握る。
名残惜しそうに、悲しそうに、懐かしむように、嗜むように。
意識が止まり、時計の針が逆行し、速度を増していくのを感じる。懐かしい記憶や情景などが断片的に頭の中を満たしていく感覚があった。より鮮明に、よりクリアに、より現実的に、日々のカケラを拾い集めるように、『キミ』のいない時間へ帰っていく。
そのうち、目の前が光に包まれていくのがわかった。それもオレンジ色の光だった。どうやら綾人の中で1番辛い記憶から戻ってきたようだ。
目を開けると、乳白色の天井が広がっていた。どうやらここは病院らしい。
僕は戻ってきたのだ、現実という名の虚構に。